ましゅまろ
藤市 優希
1.
サドルからお尻を少し上げて、ペダルに置いた足に体重をのせる。規則正しいリズムで漕げばそれに習うように、緩やかな勾配がついた坂道を重力に逆らったタイヤが滑っていく。
実質無観客であるセミ達のコンサートを背中で聞き流しながら、着実に前へ進む。こめかみからの汗が頬を伝って流れていった。微妙に肌を冷やしていく。名残惜しさなんて皆無に、後に嫌なベタつき原因になるそれを右腕で拭う。
茹だるような暑さに負けて、真っ黒な制服を学校指定の体操服に替えてきたけれどこれだ。自転車を漕ぎ始めて直ぐに体が汗でコーティングされてしまった。同時に数分前までいた、クーラーで冷えた自室を求めている。
毎年ながら度が過ぎたおてんば太陽にはもうこりごりだ。どうせ来年だって姿を現すだろうし、そもそも太陽の性別なんて知らないが。
とか言いつつ、基本引きこもりの自分にはそこまで関係のない話だったりする。太陽には今みたいに登下校の時間に大人しくしてもらえればいい。まぁ、到底届かぬお客様の声ってやつだ。
坂道が多い学校までの道のりは、自転車通いからすると通うだけで一苦労だ。
校門を通った所でゆっくり息を吐く。
休みの日の学校は人の気配が少なくて居心地がいい。吹奏楽部の金管楽器の音色だったり、グラウンドの方から聞こえる運動部達の声が鼓膜を揺らす。普段の学校が居心地悪いってわけじゃないけど、断然こっちの方が自分の性には合っている。パッと喧騒が一際大きくなって歓声に変わった。いい記録が出たとか味方に点が入ったとかそんなところだろうか。いーなー、青春してんなー。
「おー、
自分の名前を呼ばれ振り向くと、半袖短パン、練習着姿の知り合いが横に並んでくる。
「うん、まあ」
「そっかー、頑張れー」
簡単に挨拶を交わしてそのまま別れる。
制汗剤の匂いがツンと鼻先を掠めた。確か陸上部とかだったはず。同じクラスとかそんな程度の関わりのはずだけど、律儀なものだ。それに、頑張れと言うべきなのはどちらかというとこっちな気がする。なんて考えても、もう手遅れなんだけど。
校舎に入れば、太陽の支配下から逃れられたことで多少なりとも暑さからは解放される。だけどこの空気が籠ったような、炎天下とはまた違う熱気に包まれて汗はなかなか引かない。
始業ギリギリの時間でも賑やかな昇降口も今は誰もいなくて、廊下を歩くひとつ分の足音だけが響く。
1階分の階段を登って、さらにもう一階分。
無駄に空き教室や特別教室が多い2階。ほとんどの教室はひと昔前だったら現役だったんだろうけど、今ではすっかり寂れた雰囲気を醸しだしている。
今も軽快に楽器を演奏する吹奏楽部は、なぜかこの階の教室を使わないで、この上の2年生の教室を使って練習をする。
なんだろう、変わり者のイメージが付くからだろうか。だったら目的地がこの階にある自分は変わり者なのか。
普段の素行を思い出して、無意識に眉間にシワが寄る。否定は……できない。周りの人達のせいだ。うん、不可抗力。
目的は変わり者が集まる階の、しかも一番奥。コの字型をした校舎の、一番最初に筆を置くところに位置する。空き教室ばっかりなんだからもっと階段近くにしろよ、といっつも思う。これだから変わり者なんだ。
そんなことを能天気な本人達に言ってもどうせ響かないだろうし、それはひとまず置いておく。
古くはないけど新しくもない、そんな感じの白くのっぺりとした引き戸の取っ手に手をかける。目の高さにあるカラーペンでデコられた『生徒会』の文字が躍る紙を一瞥して、右にスライドさせた。
真ん中に長机が一つあって、壁際には背の高い木製の戸棚。備品や段ボールでぎっちり埋まっているけどその中のものを使った記憶はない。どうせオブジェのようなものなんだろう。
冷房も暖房もないこの教室は、生徒会室。生徒会メンバーが意味もなく集まっては適当なところで解散する、そんな場所。
長机の奥にある『会長♡』と書かれたパイプ椅子に座って机に両足を投げている男は、こちらにも目もくれないで目の前の小さな液晶画面に夢中。無視しているとかではなくてただ気がついてないだけだろう。仕方なくこっちから声を掛けることにする。
「こんちわー」
「…………………………おー」
三点リーダー10個分という十分すぎる間を携えても、視線は、合わない。まぁ、いつもこんな感じの人だ。期待しても何も出てこない。諦めて手近なパイプ椅子に腰掛ける。
因みに、この人は会長ではない。生徒の中ではトップ2の副会長だ。自分より学年が一つ上で、3年生。顔立ちがはっきりしていて身長も高く、スポーツ万能でオマケに勉強もできるというモテ要素満載なのに、性格が残念ということで有名だ。周囲の誰もが認める天然で、なんなら副会長が務まってるのが不思議な位。
巷では会長と付き合っているのではないか…という噂が出回っているがそれは否。
近くにいる他の生徒会メンバーと嫌でも実感させられた。この2人が付き合ってるとか怖すぎるでしょ。
「おっはよー!諸君!!今日も元気にやってるかー!」
「、、、。」
噂をすればなんとやら。華麗にスカートの短いフリルを翻しながら、見事空振りを決めたこの人がこの学校の生徒会長、藤彩音先輩だ。
副会長がぐだぐだだからこっちがしっかりしている…ということでは決してない。もはやこの2人が生徒のツートップでどうやって成り立っているんだというレベルにある。
この二人の他にもう一人3年生と、自分を含めて3人の2年生、計6人で今のところ生徒会本部は構成されている。1年生はいない。勧誘しないと引き継ぎが出来ない。まずい。とてもまずいんですよ。
「おー?清もやってくれるようになったなー?お姉ちゃんは成長してくれて嬉しいよ…」
「よよよ…」とハンカチを目もとに当てて、泣く素振りを見せる彩音先輩に大きく息をつく。妙に神妙な顔をしていて、アンバランスな感じが切なさを作り上げている。
変に芸達者なんだよな、この人。もう、圧倒的ツッコミ不足です。
「えーと、今日は何します?」
こっちが言葉をそう口に出すと、目の前の役者はパッと考え込むような表情に変えて思案する。表情が豊かで見ていて飽きない。
「あ、そうだ、9月の文化祭の準備でも…」
「いや、特にすることはないかなー」
ささやかな提案もバッサリ切られてしまった。
この学校は文化祭と体育祭が一年ごとに交互にあるため、2年生とは言えど、まだ自分は文化祭を体験したことがない。実は密やかに楽しみにしていたんだけど…まだ準備には早いのか。
「じゃあ何しに来させたんですか…」
「清の顔を見に?」
「いや意味わかんないから」
改めて大きくはぁ、と息を吐く。ため息をつく度に幸せが逃げていくとしたら、この1年と数ヵ月でもう枯渇した気がする。だからと言ってもともと幸せが貯まっていたとも思えないけど。
初対面の時に教えた"渡瀬清"の名前を見て「めっちゃ涼しそう!よろしくね、セイ!」なんて、この人に満面の笑顔で言われたのは、もはやいい思い出。
机を挟んで向かい側にブラックのリュックを下ろすその横顔をちら、と盗み見る。
チュラルブラウンに染まったミディアムで半分隠れているけど、パッと人の目を引くくらいには整っている。
この人に自分の顔を見に来た、と言われて悪い気はしない。上機嫌に鼻歌を歌う、彼女の幸せゲージはいつも満タンなんだろうな、とか思った。
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