ミラージュ〈mirage〉
tenten.ac.jp
第1話 dawn〈夜明け〉
『意中の人と一緒に居られるのなら、たとえ世界が壊れてしまっても構わない』
その言葉が不謹慎と思いつつ、美しく羨ましいと思ってしまう。
(根暗で、臆病で、視野が狭い。そして何より───
どうしようもないくらい、平凡で、平凡だ)
自分は物語の主人公にはなれない。実に平凡でどこにでもいるような人間で、ただ殺されるだけのエキストラの側だ。何も特別なもののない十七歳のガキ。
「……今日も街は穏やかで、私は平和で、何事もなく一日が終わっていく」
むっつりと黙り込んだ曇天を見上げて
ようやく晴れてきたかと思うと、また太陽は雲に隠れる。それを繰り返した後に本当の暗闇がやってくる。彼女にとってこの世界は希望の光が一筋射しただけの濁った檻のように見えた。
かつて、祖母と話し合ったことがあった。人間が生きている意味は何かと。将来の夢と不安を語り合った。自分は未だその答えを見出してはいない。
柊利はそんなことを考えつつ、雨のにおいとともに帰路についた。
「やぁ、
弛緩した笑みをたたえて、こちらに手を振る彼は祖母の古い知人らしい。先日、柊利の家を訪ねてきてから、毎日顔を出している。
職業不詳。年齢不詳。本当にどうして祖母はこんな奴と知り合ってしまったのかと呆れてしまう。
柊利は「なんですか」とぶっきらぼうに答えた。
「『なんですか』じゃなくて『ただいま』だろう?」
「私はこんな怪しい人を招き入れた覚えはありませんが」
「───どうやら本日は柊利くんの虫の居所がよろしくないご様子で」
「今日に限ったことじゃないから私に構わないで」
口から出た言葉は感情がなく、淡々としていて、柊利は自分の幼さに嫌気がさした。
だが、苛立ちに満ちた八つ当たりの彼女の返答を受けても、彼はその態度を崩さない。
「それより、君、また飲もうとしたでしょ」
彼はそれを玄関の引き出しから引っ張り出しながら言う。
睡眠改善薬。睡眠薬とは異なり、医師に処方してもらう必要はなく、一時的な不眠症向けの薬だ。
「ちゃんとしたものを処方してもらった方がいいと思うけどなぁ」
実際、彼の言葉は間違っていない。
最近では不眠症だけではなく過眠症の症状も出てきている。
「なんなら代わりにボクが処方しようか? いい夢見られると思うけれど」
「誰が見知らぬ人がくれる変な薬を飲むと思う?」
「だから薬じゃないよ、って言ってるのに。僕は『夢屋』なんだってば」
彼は自分の職業を『夢屋』と名乗っているが、本当は何者なのか誰も知らない。
柊利が先日聞いたところによると、その名の通り「夢」を売る仕事をやっているらしいが、その仕事内容まで聞かされていないため彼女は彼を信用出来ずにいた。
(……ましては『夢屋』なんて聞いたこともないのに)
「貴方の虚言に付き合ってあげるほどの余裕はないの。早く出てって」
「───はぁ。どうやら、今日はここまでのようだね。日も暮れたことだし、そろそろお暇させていただくよ」
怒りを露わにする柊利と対照的に、彼の方は寂しげに呟く。柊利は溜息をつく彼に、私の方が溜息をつきたいのにと思う。
「これはもらっていくね」というと、彼は彼女の薬を持って去っていった。
と思うと、慌てて帰ってきて「代わりにこれ置いとくから」と彼女の手にビー玉のようなものを渡す。
「このビー玉みたいなもの、何?」
「ビー玉というよりラムネ玉に近いんだけどねー」
「そんな的外れな答えなんかきいてない。だからこのラムネ玉みたいなのは何なのよ」
「だから、ラムネ玉みたいに何かを押しつけるものだよ。まぁ、その何かを教えてしまっては面白くないからね」
柊利の再度の問いかけに、彼は応じたが、その答えを聞き、彼女の口から思わず失笑が漏れた。
「真面目に答えてくれる気がないのなら、たったと帰ればいいのに」
苛立ちに彩られた柊利の言葉を受けても、彼は怯むことなく、相変わらず呑気な声で返す。
「わかった、わかった。今日はこれで帰りますー。不味くないし、むしろ甘いし、身体にも特に影響はないから飲んでみてね」
彼は唇を尖らせて不満げな様子だったが、大人しく帰っていった。
*****
「───分かってるなら、早く帰ってよ」
彼女は誰もいない部屋でひとりでにそう呟いた。
あの悪徳商法のようなあいつを引き入れてしまったことを後悔する。が、柊利は
ろくでもない長い夜だった。早く眠ろうとすればするほど、なかなか眠りは訪れてくれない。
数時間後、やはり眠れないと思い、玄関の引き出しを漁るが、彼に盗まれたのだと気づく。
再び寝床へ戻ると、柊利の視界の端に置きっぱなしのガラス玉がうつった。
ふと、もし彼のいうラムネ玉が本当に夢を見せてくれるなら、それにかけてみてもいいんじゃないかと思った。だが、そう思って掴もうと伸ばした手は再び柊利の元に戻る。
───本当に彼を信じていいのか?
名前がわからない上に、職業、年齢不詳という男だ。
正直にいうと、彼と関わると面倒な気しかしない。現に先ほども面倒というより、それを通り越して鬱陶しさまで感じている。
柊利の経験上、厄介ごとを回避するには、面倒を避けて通るのではなく、何が起きても巻き込まれずに済む適切な距離と存在感を保つことだと考えている。
だが、すでに時遅し。もはや彼のペースに飲み込まれてしまっている。彼を信じるか否かと、頭に思い浮かべている時点で、彼女の負けは確定していた。
彼の言葉をはじめから、完全に、拒絶してしまえばよかったのだ。疑っているのに、彼の言葉に希望を抱いている自分がいる。
───逃げてしまえばいいのに。
それは、自分の中の弱い自分が紡ぐ誘惑の言葉。
だが、それに従うということは、自分が過去の決断への責任を放棄したことを意味する。それは許されないことだと、柊利は思う。
そうして考え込んでいると、不意に眠気がやってきて、意識が徐々に乖離していくのがわかった。
───『死者の国』への招待が始まる。
それは過去の決断への後悔の表れか。それとも、救いを求める心の具現化なのか。
『───死を想え』
意識が落ちる瞬間、そんな声が聞こえた気がした。
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