【8月9日】翔ちゃんの夢
王生らてぃ
本文
夢の中で昔の家にいた。小さい頃に家事で焼けてしまった家だ。間取りも、カーテンの柄やテーブルの上の置物も、ぜんぶよく覚えている。
「翔ちゃん、どう? おいしい?」
わたしはお茶を飲んでいて、向かい合った愛菜がにっこり微笑んでいる。翔子というわたしの事をしょうちゃんと呼ぶのは、後にも先にも愛菜だけだった。
「おいしいよ」
「よかったあ。クッキー焼くの初めてだったから」
「お茶も美味しい」
これは夢だ。
なんだかやたらと部屋の中が明るいし、静かだし、それに愛菜はこんなに大きくなかった。わたしがこの家に暮らしていたときは、わたしはまだ子どもだったから、お茶なんて飲めなかった。
どこまでも広がる荒野があって、デコボコした地面を、愛菜とふたり手をつないで歩いていく。ここはどこだろう、と思いながらも、わたしは行くべき道をなんとなく分かっていた気がした。毎日歩いていた学校への道を、なんとなしに覚えているように。
「翔ちゃん元気?」
「元気だよ」
「そう? うふふっ」
階段を降りて、入り組んだ住宅街を歩いていく。草木の影を通り抜けて、青い海を眺め、用水路を流れていく水と、笹の葉と追いかけっこをする。どんな時でも愛菜はそばにいた。
でもわたしは、ここはどこだろう、と思っていた。見覚えがないはずなのに、たしかに身体が覚えている。どっちに歩いていけばいいのかがわかる。
「翔ちゃん、翔ちゃん。こっちだよ」
愛菜の声のする方向へ向かう。そこは古い住宅がたくさん立ち並び、人がふたりようやくすれ違えるくらいの狭い道だった。
「翔ちゃん、こっち、こっち」
声はするのに愛菜の姿は見えない。
「どっち?」
「ここだよ」
愛菜に手を引かれていくと、その奥には水の湧き出す井戸があった。そこは深くてなにも見えないが、声を上げると、いかにも水がたくさん溜まっているような反響が返ってきた。
「この中?」
「そうそう。行ってみよう」
愛菜は井戸の内側に段々に据えられた木製の梯子を降りて行き、わたしも後からそれに続いた。
井戸はとても深く、そして暗い。
ひんやりとして涼しい。
「暑いねえ」
「そうだね」
「ずっと、このくらい涼しかったらいいのにな。そしたら、翔ちゃんも、あんなに熱い思いしなくて済むのに」
「どういうこと?」
やがて井戸の底にたどり着いた。
思っていたより広く、そしてそこが浅い。くるぶしまで浸かるくらいの冷たい水がたくさんあった。
そして、なぜか明るい。
「これだよ、これ」
愛菜が案内したのは井戸の奥の奥、そこには青白く光り輝く石がたくさんあった。ぼんやりしていて、蛍のようだった。
「はい。プレゼント」
「ありがとう」
「これを渡したかったの。お守りだよ。ずっと持っててね、約束だよ」
「うん、約束」
家が燃えていた。
とても熱く、近寄ることもできなかったけれど、愛菜はその中に飛び込んでいった。笑っていた。
◯
目を覚した時、わたしは汗をたくさん書いていて、とにかく身体が熱く、喉がかわいていた。
ぬるい水道水を飲み、シャワーを浴び、また水道水を飲んだ。
いまさら昔の夢なんか見たって、愛菜はもう戻ってこない。あの火事に巻き込まれて、燃えてしまって、遺体も残っていない。火事と愛菜にどんな関係があったのか、なぜ愛菜がわたしの家にいて、わたしが無事で、愛菜が死んだのか、どれもよく覚えていないことだ。
ちょうどこんなふうに、暑くて汗の止まらない夏の日のことだった。
不思議な夢。
わたしをさみしい気分にさせる、存在しない思い出の夢。
【8月9日】翔ちゃんの夢 王生らてぃ @lathi_ikurumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます