過去作品詰所

となえるかもめ(かわな)

空気の感触


 遠くに聞こえるサイレンに目を覚ます。ベッドから足をおろすと、フローリングに着地するより先に、踏みしめる感触に当たった。


 空気を踏みしめる。ぐっ、ぐっと、床から8センチ程度の高さの空気を踏みしめている。どうやら気のせいではないようだ。浮いている、というのとは少し違う。きちんと、踏みしめている。階段を降りるのも、足底から床までは8cm。


 陽の光が眩しく注いでいる。睨むように一歩一歩を確認していく。玄関のドアを開ける。まだ、地面から8cm。誰にも出会わないまま大通りにまで出て、歩道橋に差し掛かった。階段を登りきったと思ったその時、あるはずのない次の段を踏む感覚にこけそうになった。段違いに置かれた自分の足を見て、一旦その場に止まった。


 次の一歩は、どこへ着地するのだろう。気持ちの中では、わかっている。きっと、もう一段上。しかし、後退りという選択肢がないわけではない。見上げる。高く広く、青い空。どこでもない空へ続く、なんでもない空気。


 歩を進める。やはり続く空気の階段。いったいどこまでのぼっていけるのか。段々、足元を確認するのが怖くなる。ビルのつむじを見れる高さ。


 ふと思うのは、地上の人々から自分はどのように見えているのか、ということ。見えていないわけじゃあるまいし、でも誰一人気づいた様子も無い。疑問を抱えつつも、高くなる視界を追い越していく歩みを止められない。まさか雲の高さまで続いているとは。


 するりとその中を抜けると、少しだけ髪や服が濡れる感触があった。本当に水の粒子なのだなぁ、なんて思いながら。

 すか、と階段が途切れた。それはあまりにも唐突で、あやうくつんのめりそうになった。慌てて足を揃え、足元に道がないか探す。もしかしたらここが頂上で、ここからはまた下りの段になっているのかもしれない、もしくは平たい道になっているのかもしれない。

 いくら探しても見つからない道。ああ、もと来た道を戻るしかないのか、そうして振り向くと目の前には扉。何の変哲もない木製の扉が、階段を五つほど降りた位置に立っていた。どうやらあれが、新しい道のようだ。


 どこへつながっているのか、やはりわからないけれど、その扉を開ける以外の道はどうやら無いらしい。観念して階段を降りた。何の変哲もない扉が立っている。金色のドアノブはひんやりとしていて、錆びた音もせずにスムーズに押し開けられた。眼前には真っ白な空間。遠くに目をやってもただただ白いだけで、何もない。足元に視線を落とすと、初めて色に出会う。40センチ四方の石畳がぽつんと一つだけ置いてある。それを睨みながら、扉の向こう側に体をすべらせる。石畳に両足が着いた途端、するりと扉は閉じて、手の届かない位置に移動してしまった。目に見える道は無く、私はただ石畳の上で白い景色を眺めていた。


 無音だ。色も、いつの間にか私の服さえ真っ白になり、灰色だった石畳も次第に色を失っていった。ついにすべてが白くなり、私は歩きだした。戸惑うこともせず、まっすぐに足を運んだ。落下の様子も無く、段差も壁もありはしない。そこは真っ白で平坦だった。温度も失われ、時間も無く、私は私をも忘れる。

 そこはただ白く、心地よく私を歩かせた。ときに座りこみ、時に横になり眠った。不思議に空腹を感じることもなく、ただ白い空間は続いていた。私はどうなってしまったのか。ただ続く静寂と無色、それから平穏な空間に融けていた。幾度か眠り、幾度か目覚めた。そして気づいた。私はあの朝、私ではなくなったのだと。あの日遠くで聞こえたサイレンは、私に向けられたものだったのだ。

 少しだけ残っていた心が、そのわずかな色を失う。その感覚は形容しがたく、心地よかった。

 そして私は目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る