首相官邸・再び

 ウイルス盗難事件が解決した翌々日の午後一時、首相官邸の閣議室には、廃校から救出された国立ワクチン研究所の福山大観と、内閣府危機管理局局長の鬼塚健一が呼ばれていた。閣議室に続く廊下で福山に出くわした鬼塚は、福山に軽く会釈した。福山と鬼塚が並んで閣議室の前まで来ると、エスピーの守田から声を掛けられた。

「福山様と鬼塚様ですね。総理が中でお待ちです」

 このとき守田は、一瞬福山の顔を見て目線をそらせた。この行為に目聡く気付いた福山が言った。

「私の顔に何か付いてるかね?」

「いいえ、何でもありません」

「そうか、それならいいんだが・・・・・・」

 福山と鬼塚がエスピーに促されるように閣議室に入ると、待ち構えていた毛利首相が福山に声を掛けた。

「福山所長、この度は色々と大変でしたね。お怪我はありませんか?」

「よく覚えていないのですが、発煙筒の煙で足元が見えなかったせいで、激しく転んだみたいです。その時のものなのか、背中と頭に少し打撲の跡があります。また、監禁されていた時に手足をしばられていたので、多少のり傷はあります。しかし、この傷については問題ありません。ご心配をおかけしました」と福山が緊張しながら答えた。

「それは良かった。盗難にあった鳥インフルエンザウイルスも無事に取り戻すことができた。一歩間違えば未曽有みぞうの大惨事になるところだった。これも、福山所長の協力のおかげだ」と毛利首相が福山をねぎらった。

「頭のおかしな犯人のために、危うく殺されそうになりました。逆恨みにも程があります」と福山が調子に乗っていった。

「今日は、福山所長に見て頂きたいものがあって、わざわざ首相官邸までお越し頂いたのです」と毛利首相がへりくだって言った。

「鬼塚局長、よろしく頼む」

「わかりました」と鬼塚が持っていたリモコンのスイッチを押すと、閣議室の天井から大きなスクリーンが降りてきて、福山にとっては以前どこかで見たようなデジャブのような映像が流れ始めた。

「――山根君の懲戒免職の原因となった研究データの捏造は、私が部下の一人にやらせたことだ・・・・・・」

「――林田君のアイディアを盗んだのは私だ。当時、私は実験に行き詰っていて、研究成果を出せずにいた。林田君のアイディアを聞いた時には、これだと思った。悪いこととは知りながら、苦渋の決断だったんだ・・・・・・」

 鬼塚の元には山根たちから、犯行現場のライブ映像が視聴可能なURLアドレスが送られてきていた。このURLアドレスは、MADサイエンス研究所の小森の元にも同時に送られていた。鬼塚は毛利首相とともに、廃校舎の教室内での一部始終をリアルタイムで見ていた。いま福山が見ている映像は、小森が編集したものだった。

「そんな馬鹿な・・・・・・。どうしてこんな映像が・・・・・・」福山は狼狽している様子を隠すことができなかった。

 大きなスクリーンに映し出されたその映像には、一昨日の山根たちと福山とのやり取りが克明に記録されていた。山根たちの顔にはモザイク加工が施されていたが、福山所長の顔は鮮明に映っていた。福山は呆然ぼうぜんとしながら、その映像を眺めていた。

「驚いているところで悪いが、この報告書を呼んでくれ」と毛利首相が、一冊の報告書を福山に手渡した。その報告書は、福山の研究費の不正使用を詳しく調べたものだった。ワクチン研究所では、福山を研究代表者として毎年多くの競争的研究資金を獲得している。しかし、福山は取引業者との癒着関係を利用して『預け金』の形で研究費を不正に貯め込んでいた。報告書には、試薬などの消耗品の発注額と、実際に納入された消耗品の額の差額が表形式で一覧になっていた。不正な預け金の総額は一千万円を超えていた。

「こ、これは、どのようにして調べたんですか?」と福山が聞いた。

「詳しいことは教えられん。日本には優秀な警察官がたくさんいるようだな」と毛利首相が言った。このとき閣議室の入り口の前で控えている守田が、タイミングよく「ハクション!」と大きなクシャミをした。

「何か釈明することはあるかな?」と毛利首相が聞いた。

「私は、研究者には研究遂行能力とともに倫理観と規範順守意識が必要だと思うが、福山所長はどのようにお考えかな? 福山所長、私からあなたに一つ提案がある」と毛利首相が切り出した。

「これは温情で言っているのだが、体調不良を理由に、研究所長と全ての公職を退いてもらえないか。そうすれば、林田さんからの研究アイディアの盗用と山根君免職の原因となった研究データ捏造の件は、時間が経っていることを考慮して、目をつぶろう」と毛利首相が続けた。

「お言葉ですが、今年は国際ワクチン会議がありますし、私も議長として・・・・・・」福山が喋るのを遮るように毛利首相が言った。

「そのことは心配しなくて結構ですよ。国際ワクチン会議の議長の後任には、ノーベル賞受賞者の白鳥博士を推薦しておいた。この件は既に、白鳥博士にもご快諾頂いている。福山所長、ここで今すぐ決断してくれ」

「――わかりました」福山は項垂うなだれながら渋々と辞職を承諾した。

「今日のここでの話は、一切いっさい他言無用だ、福山さん。もしこのことが外部に漏れた場合は、過去のパワハラやセクハラ行為、不正な診療行為の強要、研究費の不正使用などで、あなたに本格的な捜査の手が及ぶことになる」毛利首相が福山に念を押した。

 福山はその日のうちに、研究所の所長職とすべての公職を辞任した。

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