廃校舎(2) 悲壮な覚悟

 赤城と黒田が校舎に入ると、最初の部屋の表札には、小学校の当時のままに『給食調理室』と書かれてあった。部屋の扉をゆっくり開けて中を覗くと、部屋の奥にある流し台の周辺に三角フラスコやビーカーが置かれているのが目に入った。また、部屋の奥には、動画で見たのと同じ孵卵器と冷凍庫が置かれていた。

「ここで間違いないですね」と黒田が赤城に言った。

「そのようね」と赤城が小さな声で短く応えた。

 二人が足音を忍ばせて廊下をまっすぐ進んでいくと、二つ先の教室が黒いカーテンで遮光されているのが外部からもすぐにわかった。黒田がゆっくり扉をスライドさせると、薄暗い教室の中にポツンと、目隠しをされた福山が座らされているのが見えた。

「誰かわからんが、助けてくれ。私は拉致らち監禁かんきんされている。私はワクチン研究所の福山だ。助けてくれ!」と誰かが入ってきた気配に気付いた福山が言った。

「赤城さんと黒田さん、狭いところですが中にお入り下さい。あなた方に会うのはこれで二度目ですが、こうして話すのは初めてですね」福山の後ろにある教壇に隠れていた山根公典きみのりが、姿を現して静かに言った。薄暗い教室内には暖房器具はなく、山根は厚手のセータを着ていた。山根の背後には、林田秋菜あきなと思われる女性が控えていた。林田は、山根のものと思われる大きめのダウンジャケットを羽織っていた。薄暗くて遠目にはよく見えないが、二人の手には拳銃らしきものが握られていた。

 赤城と黒田の二人は言われるままに、教室の中に入っていった。

「福山。目隠ししたお前には見えないが、こちらは二人とも拳銃を持っている。撃たれたくなかったら、少し静かにしていろ」と山根が言った。山根に命令された福山は、よほど悔しいらしく、奥歯を強く噛みしめていた。

「山根さん。いくら大学をクビになったからといって、上司を逆恨みしてはいけません。ましてや、バイオテロなんかはもっての外です」と黒田が言った。

「色々とヒントをあげたのに、君たちは、まだ何もわかってないようだね。これまでにしてきた福山の悪行の数々を。信じてもらえなくてもいいが、私は実験データの捏造など絶対にしていない!」と山根が言った。

 それから、山根がゆっくりと語り始めた。

「ここにいる福山は、当時、北関東医科大学の特任教授で私の上司だった。研究室には多くの優秀な研究者がいて、助教に採用された時は本当にうれしかったことを今でも思い出す。でも、ある時に研究室の学生から、福山のアカデミックハラスメントの相談を受けた。また、先輩の助教からは福山のパワーハラスメントの噂を聞いた。止せばいいのに、愚かな僕はちっぽけな正義感を振りかざして、福山にハラスメントの改善を訴えた」

「そうしたら、どうなったと思う? 想像できると思うが、福山は謝罪するどころか激怒して、私の身に覚えのない実験データの捏造をでっちあげた」

「僕がいくら強く否定しても、大学には認めてもらえなかった。教授の権力は大学内では絶対的だ。結局、僕は懲戒免職になったよ。実験データ捏造のレッテルを張られた者に、研究者としての就職先はどこにも無い。仕方がないから、就職情報誌で見つけた予備校の非常勤講師として、生物を教えながら糊口ここうをしのいだよ」と山根が悔しそうに過去を語った。

「みんな出鱈目でたらめだ!」福山が大声で否定した。

「黙りなさい!」と今度は林田が強い口調で言った。

「お前は何者だ。いったい私とどんな関係があるんだ?」福山が聞いた。

「あなた、林田義則よしのりという名前は知っているわね?」と秋菜が質問した。

「林田――義則・・・・・・。誰だ、そいつは?」福山が聞き返した。

「忘れたとは言わせないわ。生命科学の研究者で、あなたの大学の後輩だった林田義則、私の父よ」と秋菜が強い口調で言った。

「父はワクチン研究の過程で、ワクチン精製に関する新しいアイディアを思いついたわ。当時の父は、信頼していた先輩であるあなたに、そのアイディアを話して評価してもらおうとしたわ。あなたは、そのアイディアを聞いたが、詭弁きべんろうして父のアイディアを酷評した。馬鹿正直な父はあなたを信頼して、別のアプローチによる研究を模索した。しかし、父は半年後に、父のアイディアをそのまま盗用したあなたの論文が学術誌に掲載されたのを知った。信頼を裏切られた父は大いに落胆して、そのあと自殺したわ」と秋菜が語った。

「どこにそんな証拠がある?」と福山が開き直って聞いた。

「父が亡くなって随分経ってから、父の日記が出てきたの。三年前に交通事故で亡くなった母の遺品を整理していた時に。その日記には、新しいアイディアを思いついたキッカケや、そのアイディアをあなたに聞いてもらったこと、そしてあなたの研究盗用のことも日付と共に詳しく書かれていたわ。母も、このことを知っていたようだけど、二人の子供を育てるために必死だったから、この事実は封印していたみたい」と秋菜が答えた。

「個人的な日記が証拠になるか!」と福山が語気を荒げた。

「もちろん、法的な証拠にはならないわ。だから私たちがあなたに罰を与えるの」と秋菜が言った。

「自殺した父には悪いけど、これだけならここまでの事はしなかったわ」と秋菜が続けた。

「三年前の川崎の交通事故の事は、覚えているでしょう?」

「高齢者の自動車暴走で、二名の死者と多くの重軽傷者を出した痛ましい事件よ。ニュースで何度も報道され、テレビのワイドショーでも大きく取り扱われたから、知らないとは言わせないわ!」

「それが君と私に何の関係があるんだ」と福山がおずおずと聞いた。

「二名の死者のうちの一人が私の母で、運転していた高齢者の老人があなたの義理の父親よ!」と秋菜が言い放った。

「んっ」福山が声を詰まらせた。

「あなたはもう理解したと思うけど、赤城さんと黒田さんにわかるように説明してあげるわ」

「この事件を起こしたのは、あなたの奥さんの父親である綾部剛太郎よ。綾部は医学界の大物で、全日本医師協議会の元会長でもあるわ。あなたは自分の出世のために、綾部の一人娘と結婚したんでしょ」

「綾部は重大な事件を起こしたにも拘らず、高齢を理由に逮捕や拘留されなかった。そればかりか綾部は、自動車運転過失致死傷容疑で送検されたのに、アルツハイマー型認知症で刑事責任を問えないと判断されて、不起訴処分になったわ。あなたは、容疑者が『心神喪失』状態であれば処罰されないことを知ってて、これを悪用したのよ!」

「当時、この事件を積極的に取り上げてくれた東関東テレビのディレクターが、母の取材に来たときに、取材に応じる代わりに彼が独自に入手した情報を教えてくれたわ」

「そのディレクターの情報で、綾部が医学界の重鎮で、引退したその当時でも影響力が大きかったことや、国会議員にも知り合いが多かったことを教えてくれたわ。それから、当時の国家公安委員長は綾部の出身大学の後輩で、綾部の地元選出の衆議院議員だとも教えてくれたわ。さらに未確認情報だという話だけれど、綾場の車のドライブレコーダの音声データが、警察内部で紛失したらしいことも教えてくれたわ。何か『心神喪失』に不利な音声が記録されていたかもしれないわね」

「私を含めたこの事件の遺族や被害者たちは、不起訴処分に納得がいかなかったので、裁判にかけなかったことの良し悪しを審査する検察審査会にも申し立てをしたけれど、結局、綾部が罪に問われることはなかったわ」

「でも納得がいかなかった私は、警察や検察のサーバをハッキングして、捜査資料を手に入れたの。その資料を調べていたら、興味深いことがわかったわ」

「綾部のアルツハイマー型認知症の診断をしたのが、北関東医科大学の山田一郎という医師だということがわかったわ。それから、その医師があなたと同じ大学の出身で、あなたの後輩であることもわかったわ。その半年後、大学の冴えない勤務医だった山田医師は、都内の総合病院の精神科部長に栄転したわ。――どうしてかしら?」

「あなたが山田医師に依頼して、アルツハイマー型認知症という偽の診断書を書かせたことは、小学生でもわかるわ。大病院への栄転は、その報酬ね」

「人の噂も七十五日。現在、綾部は郊外の介護付きの高級マンションで悠々と暮らしているみたいね。興信所の探偵を使って調べてみたけど、アルツハイマー型認知症とは思えないぐらいの我儘わがままな生活をエンジョイしているみたい」と秋菜が一気に話し終えた。

「今の話で、こいつがどんなに酷い奴か、よくわかっただろう?」山根が赤城たちに向かって言った。

「あなたたちには悪いけど、私たちには今の話の真偽はわからないわ」と赤城が言った。

「その話が本当なら同情はしますけど、人を拉致監禁したり、有害なウイルスを撒き散らしていい理由にはなりませんよ」と黒田が言った。

「今ならまだ間に合います。人質とウイルスを解放して、罪を償ってください」と赤城が言った。

「もう後戻りはできない」山根が悲壮な覚悟で言った。

「私も同じよ」と秋菜が山根を見つめながら言った。

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