首相官邸(6) 伝承者

 黒田は三十年前の師匠との出会いを思い出していた。その日は黒田が通っていた小学校の遠足の日だった。遠足の目的地は、奥飛騨町の烏山からすやまの中腹にある烏山八幡はちまん神社で、黒田が通う小学校では、新入生の歓迎遠足の定番コースになっていた。烏山には、よく知られている赤い顔の天狗ではなく、黒い顔をした烏天狗がいたという古い伝承が残っている。その烏天狗が、作物を荒らすイノシシや村人を襲ったクマを撃退した話が、今でも語り継がれている。もちろん、妖怪のたぐいである烏天狗は実在しないので、その正体は山岳信仰の修験者しゅげんじゃか平家の落人おちうどではないかと、地元の郷土史家には考えられている。また、山頂付近には方位磁石を狂わす磁気を帯びた大岩があり、オカルトブームの頃には、山全体がミステリースポットとして雑誌に取り上げられたこともあった。また数年前には、地域を盛り上げるためのご当地マスコットとして、『黒天狗ちゃん』という“ゆるキャラ”まで作られていた。麓の登山道入り口から烏山八幡神社までは緩やかな登りの一本道で、山から眺める景色の良さと適度な距離の道程みちのりのため、地元のハイキングコースとしても利用されていた。

 小学二年生の黒田は前日から、リュックサックに詰めたお菓子を何度も出し入れしながら、興奮してソワソワしていた。担任の先生からは通知表に「少し落ち着きがありません」と書かれるくらい、一旦何かに興味がわくと、他のものが見えなくなる傾向が黒田少年にはあった。遠足当日の日もそうだった。小学校を出発した黒田は、同級生とふざけあいながら、山道を楽しく登っていた。しかし、山道の途中で優雅に飛んでいる大きな紫色の蝶を発見した。最初は目だけでその蝶を追っていたが、気付けば遠足の列を抜け出して、登山道からも離れていった。「保夫ちゃん!」と呼ぶ同級生の声も耳に入らず、黒田は蝶を追いかけて、さらに山の奥に分け入った。

 夢中で追いかけていた蝶を見失って、ふと周囲を見ると、そこは鬱蒼うっそうと木々が生い茂った林の中だった。黒田は、その場所が一体どこなのかが分からずに、途方に暮れた。少し落ち着いた黒田は、喉が渇いていたことに気が付いて、斜め掛けしていた水筒の蓋を開けてお茶をゴクリと飲んだ。気を取り直して、元の遠足の列に戻ろうと考えたが、黒田は自分がどの方向からやってきたかもわからなかった。仕方なく、山の傾斜方向にトボトボと歩いて十分ぐらい山を下っていると、およそ三十メートル先に黒くて大きな岩が見えてきた。「あそこでちょっと休もう」と黒田が思ったとき、その岩が小刻みに動いているのが見えた。岩のように見えたその物体は、黒田に背を向けて、地面を掘りながら何か食べている様子だった。しかし、近づいてくる黒田の気配に気が付いて、その生き物が食事の動作を中断した。

「イノシシだ!」

 初めて見る野生のイノシシに驚いて、黒田は緊張のあまり動けずにいた。食事を邪魔されたイノシシは、振り返って黒田の方をにらみながらゆっくりと近づいてきた。そのイノシシは野生にしては珍しい百キロを超えるような巨体で、口元には湾曲した大きな牙が見えていた。じりじりと黒田との距離を詰めてきたイノシシは、途中から急加速して猪突猛進、黒田に向かって走ってきた。イノシシは不用意に接近した人間を襲う場合も多く、イノシシの全力の突撃を受けると、大人でも跳ね飛ばされて大怪我を負う危険がある。

「わぁ、ぶつかる」と黒田が思った瞬間、黒い塊がイノシシの真横から衝突して、イノシシを三メートルほど跳ね飛ばした。その黒い塊に突き飛ばされたイノシシは、横倒しになったあと、素早く立ち上がって一目散に林の奥に逃げて行った。黒田は、何が起こったのか理解するまでに、少し時間がかかった。黒田がイノシシが走ってきた方向を見ると、そこには着古された黒いジャージを着たおじさんがぽつんと一人で立っていた。そのおじさんがゆっくりと歩きながら黒田に近づいてきた。

「ボウズ。危ないところだったなぁ。こんなところで何してるんだ?」黒ジャージのおじさんが微笑みながら黒田に話しかけた。

 近付いてきたおじさんの顔をよく見ると、真っ黒に日焼けした顔の額には、生々しい大きな傷があった。

「ありがとう、おじちゃん。蝶々を追いかけているうちに道に迷ったみたいなんだ。おじちゃん、いまので頭にケガしたの?」と黒田が心配そうに聞いた。

「これか? これは三日前にクマにやられたあとだ。ちょっと手こずったが、クマは素手で仕留めたから、心配ない」

「おじちゃんは、ここで何してるの? おじちゃんは天狗さんなの?」地元に残る黒天狗の伝説を思い出した黒田が聞いた。

「天狗じゃないぞ。でも、天狗より修行してるから、天狗よりは強いかもしれんなぁ」

「ところで、ボウズ。助けてもらったら、お礼をするのが人としての礼儀だ。何か食べるものを持ってないか?」黒ジャージおじさんが聞いた。

「――遠足のおやつのバナナならあるけど、食べる?」少し考えて黒田が答えた。

「良いもの持ってるな。バナナは大好物だ。クマの肉は食い飽きたから、ちょうど良いデザートだ」

 バナナを食べ終わった黒ジャージおじさんが唐突に言った。

「お礼に俺の蘊蓄うんちくを聞かせてやろう」

「ウンチ君?」

「ウンチじゃない、蘊蓄だ。まあいい。ボウズは遺伝子という言葉を聞いたことがあるか?」

「イデンシ?」

「遺伝子は生き物の体を作る設計図みたいなもんだ。この設計図を使って、人間の体もできてるんだぞ」

「人間とクマの遺伝子は九十パーセント似ているぞ。イノシシは八十パーセントくらいだな。さっき食べたバナナでも六十パーセントは似ているそうだ」

「そうか。バナナと人間は設計図が似ている兄弟なんだね」

「そうだな。生き物は、すべて兄弟だ」

「ところで、ボウズは大きくなったら何になりたい?」

「僕はテレビで見た戦隊ヒーローのような正義の味方になりたい!」

「そうか。わしはテレビを見ないから、そのヒーローについては良くわからんが、正義の味方は強くないとなれないぞ」

「おじちゃんは、どうやってそんなに強くなったの? 僕もおじちゃんのように強くなれる?」

「ボウズはツイてるな。そろそろ、次の後継者を考えていたところだ。よし、それじゃあボウズを儂の弟子にしてやろう。今日から儂のことは師匠と呼べ」

「シショウ?」黒田は意味が分からずに、頭の中でその言葉を繰り返した。こうして黒田は由緒正しい古武術の第六十九代継承者の道を歩むことになった。

 今思えば、伝説の黒天狗は遥か昔の継承者の一人かもしれないなぁと黒田は考えた。それから、ふと我に返った黒田が腕時計を見ながら言った。

「約束の時間に間に合わなくなります。赤城主任、急ぎましょう」

「そうですね。ホテルをチャックアウトしてきます」どことなく元気がない赤城が力なく言い、支払いを済ますためにホテルのフロントに向かった。

 黒田はフロントに向かう赤城の背中に、「主任の合気道の技、結構決まってましたよ!」と小さな声をかけたが、赤城は気付かなかった。

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