首相官邸(4) ファーストコンタクト

 首相官邸の閣議室での緊急会議が終わると、既に夜十一時をまわっていた。赤城が危機管理局へ戻って帰り支度をしていると、黒田が声をかけてきた。

「もうこんな時間ですね。遅くなったので、家まで送りましょう」

「一人で大丈夫です。こう見えても、合気道の心得があるので、自分の身は自分で守れます」と赤城が言った。申し出を拒絶されて落ち込んだ黒田は、鬼塚に呼び止められて何か話し込んでいたが、赤城はその様子を横目で見ながら、危機管理局を後にした。首相官邸の最寄り駅である国会議事堂前駅は、危機管理局から徒歩五分である。駅までの道のりは深夜近い十一時を過ぎても人通りが絶えず、犯人からの警告がふと頭の隅をよぎったが、まだ危険な兆候は微塵みじんも感じられなかった。

 赤城は自宅マンションの最寄り駅で降り、駅の西口から出て、いつものように馴染みのコンビニエンスストアに向かい、明日の朝食のためにヨーグルトと野菜ジュースを買った。赤城の自宅は川沿いにある独身者用のワンルームマンションで、最寄り駅から歩いて十分の距離にある。目指すマンションまでは一軒家の多い住宅街を通り抜けるため、この時間帯には帰路の人通りはかなり少なくなる。見通しの悪い交差点に設置されているカーブミラーには、赤城の不安げな表情が映し出されていた。

 駅から歩いて五分。頼りなさそうな黒田であっても、意固地になって黒田の好意を受け入れなかったことが、今頃になって後悔の気持ちに変わったことを赤城は意識していた。赤城は、自宅のあるマンションまでのほぼ中間地点で、仲良さそうに腕を組んだカップルとすれ違った。二人はプロ野球のファンらしく、贔屓ひいきのチームのユニフォームをかたどったお揃いのTシャツを着て、野球帽を目深まぶかかぶっていた。野球帽のつばのため、赤城は女性の表情を見ることはできなかったが、すれ違う瞬間、その女性がわずかに微笑んだ。すれ違った後で何となく違和感を覚えた赤城は、すぐに振り返ったが、路地を曲がったためか既にカップルの姿は視界から消えていた。

 明日のスケジュールを頭の中で反芻はんすうし、次の日に備えて今日は早く寝ようと考えながら歩いている赤城の前に、自宅手前の路地から目出し帽を被った怪しげな四人組が突然現れた。四人は背格好こそ違うが、同じ濃紺の作業着を着ていて、素顔がわからないようにお揃いの黒い目出し帽を被っていた。

 そのうちの一人が、じりじりと赤城に近づいてきた。

「警告だ。この件からすぐに手を引け」と低い声ですごんだ。

「この件とは、何のことかしら?」と赤城が聞いた。

「何でもいい。お前には関係ない。今すぐめろ!」と男が再び凄んだ。

 男はさらに近づいて、赤城の肩を触ろうとして右手を伸ばしてきた。その暴漢の右手が赤城の体に触れようとした瞬間、赤城はわずかに体を横に移動して、暴漢の右腕をかわした。次に赤城は、目標を失ってバランスを崩した右腕の手首を掴んで反対方向にひねり、その流れのまま暴漢を地面に組み伏せた。

 一瞬の出来事に、その暴漢は何が起こったかわからなかった。しかし、呆然ぼうぜんとしていた暴漢も、数秒後には自分の状況に気が付いた。「いてぇ。何すんだぁ」とその暴漢が叫ぶと、慌てた残りの三人が一斉に赤城に向かって襲いかかってきた。三人のうちの一人はプロレスラーのような巨漢で、その大男が赤城を後ろから羽交い絞めにした。羽交い絞めにされたことで、赤城は組み伏している暴漢から手が離れた。

「やめなさい。警察を呼びますよ!」赤城が厳しい声で警告すると、巨漢はグローブのような大きな手で赤城の口を封じた。冬なのに巨漢の体臭は強烈で、数種類の香辛料が混じったむせるような複雑なにおいがした。

「らめらさい」赤城は声にならない警告を再び発した。口をふさがれた息苦しさと恐怖で全身が脱力し、崩れ落ちそうになる瞬間、黒い人影が赤城の目の前を横切った。

 一瞬気を失った赤城は見ることができなかったが、その人影は優美な舞のように、目にも留まらぬ動きで掌底しょうていによる打撃を三人の暴漢に次々と繰り出した。その打撃は、的確に三人のあごを打ち抜いた。三人は軽い脳震盪のうしんとうを起こし、自分が打撃を受けたことにも気付かないまま、意識を失い地面にゆっくりと崩れ落ちた。さらにその人影は、この光景を見て呆然とする巨漢の顎にも同様の打撃を加えたが、身長差のせいか一撃で昏倒させることはできなかった。次にその人影は、顎を狙った一撃からの連続動作で、巨漢の肩に肘打ちを叩き込んだ。強烈な肘打ちによる肩の激痛に耐えかねて、その巨漢は赤城への羽交い絞めを振りほどき、その場に尻もちをついた。さらに、その巨漢の足首を狙って、黒い人影の攻撃が続いた。四人の暴漢がすべて撃退されるまでにかかった時間は僅か十秒で、百メートル走と同じ時間しかかからない早業はやわざであった。

 気が付いて目を開けた次の瞬間、赤城は信じられない光景をの当たりにした。赤城を襲った四人の暴漢のうち三人は、熟睡したかのように地面で昏倒していた。また、赤城を羽交い絞めにした巨漢は、足首を抱えながら聞いたことのない外国語でわめきたてていた。

「お怪我はありませんか? 赤城主任」黒田が聞いてきた。

「――怪我はないけど、これはあなた一人でやったことなの?」黒田と倒れた暴漢たちを交互に見ながら赤城が質問した。

「こんな奴ら、私一人で十分ですよ。三人はそれぞれ一撃で気絶しましたが、大きい奴は気絶しなかったんで、逃げられないように両足首をひねっておきました」黒田が平然と答えた。

「少し前に警察に連絡しましたから、もうすぐパトカーが到着すると思います」黒田が冷静に言った。

 まもなく二台のパトカーで到着した警察官たちに、黒田が暴漢たちを引き渡した。それから警察官たちに簡単な事情を説明して一段落した後、黒田が赤城に言った。

「別の暴漢が続けて襲ってくることはないと思いますが、用心するに越したことはありません。今日はホテルに泊まってください。近くのホテルを探してみます」黒田は情報端末で素早く検索してホテルの予約を入れた。

「ホテルまでは私が送ります」と黒田が言って、手配したタクシーに二人で乗った。着替えを準備するため、途中で赤城のマンションに立ち寄って、予約したホテルに向かった。ホテルでチェックインを済ませて黒田と別れる時、黒田が言った。「明日はホテルまでお迎えに上がります。先方との面会時間は十時ですので、忘れないで下さい。暴漢の件は、私から鬼塚局長に報告しておきます」

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