MADサイエンス研究所(3) セレンディピティ

 研究所のエントランスの自動ドアが開く音に気付いてエントランスの方を振り返ると、先ほど道を尋ねた時の初老の男性が、エントランスから入ってこちらに向かってきた。

「副所長が戻ったようです」青山が言った。

「ようこそ、MADマッドへ。正式にはエムエィディですが、私らはマッドと呼んでいます。この研究所にお客さんが訪ねて来るのは、これが初めてじゃないかな?」

「マッドサイエンスと聞いて、お二人は、さぞ奇異に思われたことでしょう。私も最初は馴染めませんでした。元々は何かの英語の省略名だったようですが、詳しいことは私も知りません」と副所長が言った。

「紹介が遅れましたが、当研究所の副所長の白鳥しらとり進一郎です」と青山が紹介した。

「運悪くクジに当たってしまって、この研究所の副所長をやっています。着替える時間がなかったので野良着のままで失礼しますよ」と白鳥が言った。

「――えーっ、ノーベル賞受賞者の白鳥博士ですか・・・・・・。道理で見覚えがあるはずだわ!」赤城が驚いて言った。

 白鳥進一郎は東北医科大学の名誉教授で、遺伝子研究の世界的権威である。十年前に食物アレルギーを抑制する遺伝子の発見でノーベル生理学・医学賞を受賞している。現在では、この研究をもとにした医薬品が開発され、卵や小麦による重度な食物アレルギーの改善に効果を上げている。白鳥が定年退職の際には、海外を含めた有名な研究機関や大学から来てほしいと数多くのオファーがあったが、全てを断って、ここ星久保村で悠々自適の隠遁生活を送っていた。

 三十年前の東北医科大学の研究室で、白鳥は悶々とした日々を過ごしていた。人の役に立ちたいと医学の道を志して、最初は臨床医を目指したものの、生来の手先の不器用さと人見知りの性格から、臨床医に向かないことを自ら悟ったのが五年前だった。それでも何かの役に立ちたいと、基礎研究の分野に転向したが、研究成果が中々出せない状況が続いていた。白鳥は多くの人を悩ましているアレルギー疾患に関する研究をしていた。花粉症やアトピー性皮膚炎などのアレルギー疾患は、統計的には日本の全人口の約三分の一が罹患りかんしていると考えられている。

 白鳥は、自身に食物アレルギーの症状があることもあって、当時はアレルギー疾患に関する研究に力を入れていた。アレルギーとは、外部から体内に侵入した異物である「アレルゲン」に、「免疫」機能が過剰に反応して引き起こされる症状のことである。生物にとって免疫機能は病原菌やウイルスなどの外敵から体を守る重要な働きであるが、過剰な免疫は自身を傷つける両刃もろはつるぎである。とくに、全身の複数の臓器にアレルギー反応が起きるアナフィラキシーは危険で、急な血圧低下や意識障害によって命の危険を伴う場合もある。

 白鳥は、免疫に関する遺伝子情報の解読に力を注いでいた。遺伝子情報が含まれているデオキシリボ核酸(DNA)は、アデニン、グアニン、シトシン、チミンのたった四つの塩基から構成され、これら四つの塩基の組み合わせで複雑な遺伝情報を構成している。約三十一億塩基対あるヒトゲノムの全ゲノム情報(塩基配列)は既に解読されているが、体にとって必要なものを作り出す「設計図」の役割を果たす遺伝子は確定されておらず、その数は二万五千個以下といわれている。この「設計図」となる遺伝子は、全ゲノム中の二パーセントに相当し、残りの九十八パーセントは「何の役割もないゴミ」と考えられてきた。遺伝子機能の決定には、対象部分のDNAの数を増やすクローニング、そのゲノム配列を読み解くシークエンシング、さらにその遺伝子を使って作ったタンパク質の機能を理解する発現、の三段階の研究が必要になる。実際の研究は、この手順を何度も繰り返す、気の遠くなるような地道な作業である。

 その日は、連日の深夜までの実験と学会発表用の資料作成で白鳥の疲労が頂点に達していた。この日は免疫の強化に関する遺伝子を探す目的で、半年前から目星をつけていた遺伝子を使った実験をする予定であった。しかし疲労のため、実験資料を見誤って実験対象ではないゴミ遺伝子を使った実験を行なってしまった。通常ではゴミ遺伝子は機能しないため、タンパク質を作ることはないが、偶然に実験条件が揃ったためか、これまでにない新しいタンパク質が合成されていた。白鳥は実験後に遺伝子の間違いに気づいたが、念のため合成された未知のタンパク質の機能を調べる目的で、食物アレルギーマウスでの実験を試みた。この実験が、のちのアレルギー抑制遺伝子とアレルギー抑制タンパク質の発見につながった。

 白鳥は免疫強化に関する遺伝子を探す実験で、免疫抑制に関する遺伝子を発見してしまった。セレンディピティとは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけることをいう。努力を続けていた白鳥に、幸運にも”偶然と才気による予期しない発見”セレンディピティが訪れた。しかし、白鳥はどうしてあのような単純な実験ミスをしてしまったのか、未だに理由がわからなかった。

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