思春木

柊 吉野

第1話

 僕には好きな人がいる。僕の前を通るとき、僕のことを彼女が見ていると思うとき鼓動が早くなる。声をかけたいけれど、恥ずかしい。その一歩が踏み出せない。何か形容し難い悩みや不安があって、誰にも言えない秘密がある。周りの人に腹が立って、気まずくなったりする。言いたいことが言えなかったり、思ってもいないことをすることだってある。様々な気持ちが交錯して、揺れ動く。人はみんなそんなものを抱えている。そして大人になるための成長の時期のそれを思春期と呼ぶ。


 僕の学校には昔から噂があるそうだ。思春期がおとずれたとある生徒だけが出会うことのできる、この校内の片隅に突如として現れる立派な木があると。この木を僕たちの先輩は「思春木」と呼んだ。


 その木はこの学校中に、町中に根を張り巡らせ、そこにいる人々の気持ちを、思いを感じとることができると言われている。その木に触れた人にも同じようにその人の思いを見せてくれて、その人の感情を感じとらせてくれることができると言われている。だがいまだその木に会ったと言う人は誰もいない。


 僕はその噂の木とおぼしきものを見つけた。代わり映えのない一日を送っていた僕は何故だか今日はいつもと違う道で下校しようと思い立った。それで僕もほとんど通ったことのない、人気が全くない学校の敷地内にある裏道を通った。その道には違和感があった。道を囲うように立てられた木々の中に一際目立つ大きな木があった。この場所にあるには大きすぎる、どこか不思議な空気を作り出す木があった。その木にだけ日光が差していて、異質さを感じさせた。それは美しくもあった。


 その木に僕はゆっくりと近づいて行く。この木が噂の木であるという確証はどこにもない。この木が本当に不思議な力を持っているのかも分からない。だけど僕はこの木がなぜか他のものとは違うような気がした。僕は高揚した。こんなにも気持ちが高ぶったのはいつぶりだろう。噂は本当なのだろうか、これから何かが起こるのだろうか。そう考えると少し不安になるが、それを大きく上回る好奇心に僕は突き動かされる。もう手を伸ばせばその大きな幹に手が届きそうだ。先程までは触れるだけそう思っていたのに、いざ目前に迫ってくると躊躇してしまう。今にも張り裂けそうなくらい鼓動が高まる。体が強張り、動けない。僕はいつもあと一歩が踏み出せずに終わってしまう。こんな自分にやるせなさを感じていたのはいつからだろう。周りのみんながとても大きくなったように感じるのはなぜなのだろう。いや、僕は答えを知っている。それは僕が小さいと思っているからだ。何もできない自分ではもうありたくない。この一歩を踏み出せないままでは僕はいつまでたっても変われない。そう思って僕は木の幹に手を伸ばす。


「ビリッ!」

木に触れた瞬間に僕の意識は途絶えた。ふと気がつくと、僕は地面に倒れていた。何が起こったのか分からなかった。けれど、僕は何かを感じた。あの電流が流れたような感覚が今でも頭に残っている。僕はただ呆けていたのだと思う。あのとき僕が何を思っていたのか自分でも分からない。僕は立ち上がって、あの木があった場所に目を向ける。だけど、そこには何もなかった。ただの土があるだけだった。鳥のさえずりが聞こえ、風が木々の葉を花を揺らす。まるで何もなかったかのような周りの様子に僕は戸惑った。これまでのことはすべて幻だったのか、自分が勝手に作りだした想像だったのかと。でもそんなことはない。この出来事はすべて現実だと今でも頭に残るこの味わったことのない感覚が僕に言う。


 僕はしばらくの間何も考えることなくそこに立っていた。その後どうやって家に帰ったのか僕は覚えていなかった。僕はずっと不思議な木のことを考えていた。突然いなくなったあの木にまた会えるのか、そんなことで頭がいっぱいになっていた。今日の出来事にまだ興奮しているのか僕はなかなか寝つけなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る