涙は心の隙間から滲み出る

@huyakasi

愛をこめて

今日の朝、猫が死んだ。

名前はきなも。


人が好きと感じるものは普通、複数ある。

食べ物だとか運動だとか特定の人が好きだとか、人によって数も性質も様々だ。

漏れなく私もそうで、好きなものが沢山ある。

季節で言えば別に夏も冬も好きではない、どちらでも良い。

だが「休み」というのはいつでも好きだ。

だから夏休みは好きだ。

猫も好きだ。人間より比較的心が綺麗な傾向が見られるためだ。

他にも朝焼けや深夜の散歩、そしてたらこスパゲッティが好きだが、蛇足なので省略させていただく。

ここまで私の話を読んでくれた稀有な人には私が猫と休みを愛する怠惰な小市民だということがわかって頂けただろう。

その猫が死んでしまった。

名前は妹が付けて、母が拾ってきた。

夏に生まれて、夏に死んだ。

朝、ランニングを終えた母が拾って来た小さな茶色い命は

「猫なんて拾って来ないでくれよ母さん、元のところに戻しておいで」

という私と父の反対を

「いやだ!絶対捨ててこない!ちゃんと育てるから!」と跳ね除けた母と妹


厳正な話し合いの結果、案の上この家に馴染みきった。

名前は色々案が出た。

私は小鉄が良かったのだが、妹の猛烈なプッシュによりきなこもちを略した「きなも」に名前が変わった。

何もかも思い通りにいかないやい、としょぼくれて先住猫をこねくり回す、名前はジュアン、母が名付けた。

数ヶ月経つとむくむく若竹のように大きくなりすっかり大人のような顔をし始める。

跳ねるたびにふんふん鳴き、餌が欲しければなんなん鳴くとてもお喋りな猫だ。

とても優しくて、決して人を噛まず、噛むと上目遣いをして申し訳なさそうにする。

なんだと、猫のくせに謝辞をするだなんて小生意気な、こねくり回してやる、どうだ!

そんなことを繰り返すたびに、おそらく繰り返さなくても好きになってしまっていた。

最初は反対していたはずの厳格で一度決めたことを曲げない父が夜にこっそりおやつをあげていた所を見た時、私はきなもの人心掌握術に恐れをなした。

それが5年ほど、ゆったり続いた。

夏休み初日、寝ていた私はうだつの上がらないままに耳に入ってきた椅子に猫が乗る際に鳴る金具が擦れるかちゃという音を聞き、そちらをぼんやりと見る。

見るからに様子がおかしく、息は絶え絶えとし、体は椅子にしなだれかかるようにおかしな体制を取っていた。

「母さん!父さん!きなの様子がおかしい!」のようなことを叫んだ。

朝7時のことだった。

動物病院への予約を父さんが素早く済ませてケージに入れ、車で連れて行く。

母と私はきなもの吐瀉物を片付けていた。

妹はどこにいるか覚えていない。

それほど焦っていた。

しばらくして昼に父伝手に母から連絡があり、肥大型心筋症かもしれない、今検査しているらしいと聞かされる。

父が病院から帰ってくる。

きなもはまだ病院にいるらしい。

妹は状況を把握しきれずにいて、父は元気がなく、母は不安がっていたように見えた。

不安を皆感じながら眠った。

翌朝7時、父の叫びで目が覚める。

「死んでしまった!」

間髪入れず嗚咽と泣き声が聞こえてくる。

知らない人の泣き声が聞こえて来たのでどういう状況だと焦り飛び起きてみると、父が泣いていた。

今まで聞いたことがなかった。

父はいつでも冷静で、常にすべきことをなし、自分のスケジュール管理ができ、いつも自己啓発本を読む絵に描いたような理想的な起業家だった。

いつもMacのキーボードをしばき倒して難しい顔をしている父が頭を抱えて大きな声で泣き喚いていた。

驚きのあまり、私はドアを閉めて自室に戻っていく。

ジュアンと目が合う。

まだ生きている。

そっと胸に抱き寄せる。

ジュアンを撫でながら考える。

父さんが泣いていた。

あの父さんが。

そこで気付く。

私は一切泣いていなかった。

涙が流れてこないし、胸が押し潰される感覚も、鼻の奥がつーんと熱くなり涙が溢れるあの感覚が無い。

感情が無い訳ではない。

いや、ひょっとしたら無いのかもしれない。

悲しくないのだ。

ここで私は考える。

何故私は悲しくないのか。

そもそも何故生き物が死ぬと悲しいのか?

それは言ってしまえば「もったいない」というものに近い、と私は思っている。

もっと話しておけばよかった、もう話すことが一生できない、もう会うことができない、もうあの顔や声が聞けない、などにより心に「これからその情報で埋まるはずだった」空白が生じ、結果心に空白が生まれ、ぽっかりとした気分になる。

それが死による悲しみだと思っている。

私は悲しくない。

断じて悲しくなどない。

私は彼から得るべきものを全て得た。

彼と朝焼けを見たし、彼と一緒に寝たし、深夜に散歩にも出かけた。

彼と出来ることは私の思いつく限り全てやったと言っても良いし、私が彼に出来ることは全てした。

今でもどんなことをすればどんな風に動くか、どんな顔をするか、どういう声で鳴くかしっかりとわかる。

よく、「心の中で生きているから悲しくない」と言うが、恐らく今私が感じているこれがそうなのだろう。

生きているうちに全てをこなした。

悔いはない。

だから必然、悲しくはない。

今まで理解出来なかった感情で、心で生きているなどといった台詞が出るたびにそんな訳は無いだろうと思っていた。

しかし今ならわかる。

悲しくないのだ。

心に空白が無いし、既に満たされている。

本来、死んだ人を見送るというのはこうあるべきなのだろう。

泣くことでその人が居なくなった事の大きさを量り知ることはできる。

だがその人が死んだとき、悲しまずに見送る事でその人と過ごした時を表すことができる。

私はそう思う。

しかし今、撮った写真を改めて見ると、少しだけ、ほんの少しだけ目尻に涙が滲み出た。

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