始まる前に終わる小説集
匿名の匿
生きている耳
工場に勤めていた頃にうつ病にかかって機械の操作をうっかり誤ってしまってからというもの、僕のあだ名は耳なし芳一ということになり、それが短縮されて誰からも「芳一」と呼ばれるようになった。あたかも僕は五体満足を失うと同時にこれまでの名前までも失ってしまったような調子だ。退職して、一体これからどうやって生きていこうかという時に、僕は「芳一」として生まれ変わった――だけどこれまでの履歴がリセットされたわけではなく、耳のない男というだけでどこからも歓迎されなかった。
人は僕のことを「芳一」と呼んだが、僕は自分の耳にその名前をつけた。ちぎれた耳を大事にとっておくというのはそんなに珍しいことでもないだろう。防腐処理をして、きちんと瓶詰めにでもして、何かあるたびに勲章でも見るみたいに眺めてみる――だけど僕はそういう当たり前のことからは、ほんの少し外れていた。というのも僕の耳は死ななかったのだ。医者は組織としてまったく健康だと請け合ったし、僕が触ったときには筋肉がぷりぷりと動いた。生きている。それは僕に大きな感動をもたらした。普通だったら絶望するような時に僕がなんとか自殺しないで済んだのは、この身近な分身が、ずっと僕のそばにいてくれたからだったと思う。「芳一、今日も面接ではじかれたよ。芳一、お前がここにいないというだけで、僕はもう、部屋に入った瞬間から化け物みたいな扱いだった。芳一、だけどきっと僕は生き抜くからね。芳一、もう寝よう。ダメだったときはすぐに寝たほうがいいんだ。頭をすっきりさせなくちゃ。芳一、今日は君を抱いて寝ていいかな」
芳一はいつも筋肉をぷりぷりとさせて僕の頬にすり寄ってくるのだった。時に耳垢が僕の鼻や口に入ってくるが、それも僕は舐めとってやる。僕はこうして不幸な経験をした後に、献身という大事な姿勢を学んだわけだ。芳一がそれを教えてくれた。僕はもうしばらく通院していないが、たぶんうつもよくなったのではないかと思っている――
ところが僕の耳は所詮、僕の耳だったということだ。僕はある時、それは夜中のことだが、家の前で妙に大きな物音がして、深い眠りから一気に醒めた。ひどく暴力的な音とともに「開けろ」という声がして、一体だれなのか見当もつかないが、開けなければかえってまずいことになるということはわかった。居留守を使って引き下がるような雰囲気ではなかったし、このボロアパートのドアは、数十分もあれば突き破ってしまえるのではないかという迫力があったのだ。僕は芳一を見えないところに隠して、玄関に向かった。ドアを開けずに「何か御用ですか」と言ってみると、声は「そうだ御用なのだ」と返した。「こんな夜中に一体どんな御用なのですか」というと、「どんな御用かは対面してからにしようや」と言う。「先にご用件を告げていただくわけにはいきませんか」「そんなわけにはいかないのだよ、芳一」
僕がしかたなくドアを開けると、そこには「芳一」が立っていた。つまりは僕が立っていたのだ。芳一は口元を妖しくゆがめて、「ほら、これでご用件もすべてわかっただろう」と言った。僕は「芳一」を回収しに来たのだと思ったが、彼は僕の胸倉を掴んでこういうのだった。「お前のことを回収しに来たんだ。すべてはそこの「芳一」から聞いているからな。お前は今生きていてつらいのだろう? お前は人生を踏み外してしまったと恨んでいるのだろう? こっちへ来い。俺たちのところへ来るのだ。芳一はすべてを知っているんだよ。お前が聞かせたことも、聞かせなかったことも、何もかもだ。なぜだかわかるか? ――地獄耳だからだよ」
僕はその瞬間「芳一」の頬を思いきりひっぱたいた。むかついたからだ。散々引っ張っておいてその落ちはないだろうと思った。「芳一」は階段を逆さになって転げ落ちていった。影のような男らしくあまり音は立てなかった。影のような男らしく夜の闇に落ちていくともう影も形もなかった。
「芳一」も僕の憑き物もこの短い物語も、このようにしてすべて落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます