一瞬の夏~遠くから、見守ってるからね~

Youlife

第1話 帰りたいけど、帰れない…

 8月上旬、都内のマンションで、藤田健太郎はあくせくとキャリーケースに衣類を詰め込んでいた。

 もうすぐお盆がやってくるが、健太郎にとって、毎年お盆は何の予定も入れず、必ず実家に戻ると決めていた。

 結婚したばかりの健太郎は、このお盆は妻のみゆきを連れて帰る、初めてのお盆である。

 二人とも実家は中川町であるが、夫婦として帰るのはこれが初めてのことである。

 先日の日曜日は、二人でデパートに行き、盆の挨拶用のお菓子を買ってきた。

 ここに、みゆきがフランスで買ってきたワインが加えられる。


「みゆき、準備は大丈夫かい?」

「大丈夫よ、何時出発しても大丈夫だから。それより健太郎さんは?まだ準備の最中?」

「ば、ばか言え、俺ももう何時出発しても大丈夫だよ!」

「ふーん、周りにお洋服がいっぱい散らかってるわよ。それ、どうするの?持っていくんじゃなくて?」


 みゆきは、いつものように冷徹な言いっぷりで、僕のやっていることをズバリと見抜いていた。


「ははは……まあ、これから、詰め込むところだったんだけどさ」

「早くしてよね。明日も仕事でしょ?明後日は朝早く出発なんだから、準備してる時間なんて取れないわよ」


 みゆきは腕組みしながら、健太郎を上目遣いで睨みつけた。

 健太郎は頭を掻きながら、散らかっていた衣服をかき集め、キャリーケースにそっと詰め込んだ。

 みゆきは健太郎より2つ年下であるが、健太郎よりもずっと人間が出来ていた。

 その時、みゆきのスマートフォンの着信音が、突然けたたましく鳴り響いた。


「もしもし、あ、お義母かあさん!お久しぶりです。どうしたんですか、突然。はい、ええ、今はそうですね。毎日のように感染者が増えていまして。そちらは……?」


 どうやら、健太郎の母親・りつ子がみゆきに電話してきたようである。

 最近、りつ子は健太郎よりも、気さくな性格であるみゆきと話をしたいようで、連絡する時も健太郎でなく、みゆきに直接よこしている。


「感染者は出ていないんですね?それは良かった。でも……そうですよね。親戚に高齢者多いですもんね。私の実家も祖父母がまだ健在ですから、どうしようかな?って迷ってたんですけど」


 電話の内容から推測すると、おそらく、昨今流行が加速度を増している「新型コロナウイルス」のことであろう。

 東京都内では、すさまじい勢いで感染者数が増えている。

 健太郎たちも、外出時はマスクをし、帰宅時には石鹸で徹底的に手洗いしている。

 以前は二人で飲みに出かけたりしていたが、最近はめったに出かけることもなく、もっぱら自宅で飲んでいる。


「はあ、わかりました。そうですよね。行きたい気持ちが強いですけど、自分たちのことばっかり考えてたらダメですよね。じゃあ、年末に状況が良くなっていたら、お伺いしますから」


 みゆきはスマートフォンを閉じると、小さくため息をついた。

 おそらくりつ子から、中川に帰省することを止められたんだろう。

 中川はここ数年、すさまじい勢いで高齢化が進んでいるので、仮にコロナウイルスが流行し出したら、重症化する人が続出することは想像に難くなかった。

 さらに、今年は中川の恒例行事である盆踊りの中止が決まったと、健太郎の弟・幸次郎から連絡が入っていたので、帰省しても親戚に結婚の報告をする以外は、ずっと実家で過ごすしかなかった。


「今年は帰ってこなくていいからって、お義母さんが言ってたよ」

「やっぱりそうか。しょうがないよな、この状況じゃ」

「私の友達も、今年は実家帰らないって皆言ってるし。本当なら、私たちは結婚の報告も兼ねて帰省すべきなんだろうけど、私たちだって無症状なだけで、本当は感染してるかもしれないしさ。今年はおとなしくステイ・ホームするしかないね」


 こうして健太郎とみゆきはお盆の帰省を諦め、今年の夏休みは自宅で何もせずに過ごそうと決めた。

 お盆の初日、朝からうだるような暑さが続き、蝉の鳴き声がけたたましいほどに響き渡る中、健太郎とみゆきはスナック菓子を食べながら、家の中で朝から録りためていたドラマを見ながら過ごしていた。

 こんなに暇なお盆は、生まれて初めてのことである。

 例年ならば、早朝にお墓参りをして、親戚の家に挨拶に行き、挨拶に来た親戚を出迎え、夜になると迎え火を焚くなど、くつろぐ時間もほとんど無いのが恒例であった。


 みゆきは、映画を見ながら健太郎に身体をそっと寄せつけ、指同士を絡めてきた。

 健太郎が慌てて指を離そうとすると、みゆきはギュッと握りしめてきた。


「ただボーっとテレビ見ていてもつまんないんだもん。ねえ、子作りしよっか?アラフォー間近の健太郎さんには、早くパパになってもらいたいからね」

「う、うるさいな。みゆきだって、人の事言えるかよ?」

「てヘヘ、そうだね」


 みゆきは舌を出して笑うと、そっと身体を健太郎に預けるかのように横に倒してきた。そして、目を閉じてアヒルのように唇を突き出し、健太郎の唇に近づけてきた。

 二人はそのまま何も言わずお互いの唇を重ね、深く口づけあった。


□□□□


 健太郎とみゆきはタオルケットにくるまり、互いの腕を互いの背中に回し、裸のまま身体を重ねていた。

 部屋にエアコンをつけていたとはいえ、愛し合い、抱きしめあい、身体を重ねているうちに、二人の身体はすっかり汗にまみれていた。

 健太郎は、汗まみれのみゆきの額に付着した黒い髪をそっと上に掻きあげ、そのままゆっくりととかすように撫でた。


「大好きだよ、みゆき」

「ありがとう。私も大好きだよ、健太郎さんのこと」


 みゆきは、健太郎の頬にキスをした後、健太郎の肘を枕に、天井を向きながらずっと眠っていた。

 その時、何かを思い立ったのか、目を見開いて呟き始めた。


「ねえ、奈緒ちゃん、今頃どうしてるかな?」

「奈緒かあ、どうしてるんだろう?以前なら、今日あたり、迎え火に寄せられるように、この世に帰ってくるんだけどな」

「もう、本当にこの世に帰ってこないんだよね?」

「うん。たぶん、もう来ないよ」


 健太郎のそっけない答えに、みゆきはやや不満そうな表情を見せた。

 その後、みゆきは健太郎の横顔を覗きながら、そっと耳元で囁くように尋ねた。


「健太郎さんは、今でも奈緒ちゃんの事、好き?」

「……」


 みゆきからの唐突な質問に、健太郎は一瞬たじろいだ。

 奈緒と出会い、お盆の間毎日のようにデートしていたのは、もう2年も前のことである。みゆきと過ごす時間が増えるにつれ、健太郎の心の中から、奈緒の存在は徐々に消えかかっていた。

 しかし、心の奥底に、奈緒への想いがわずかに残っていることも事実であった。


「どうしたの?ひょっとして、未練あり?」

「え、バ、バカ言うな!今の俺には、みゆきが全てなんだよ」

「健太郎さん、私、前にも言ったよね?ハッキリしない人は大っ嫌いだって」

「どうしてだよ!俺はみゆきが大好きだ!これだけはハッキリ言えるよ」

「あのさ、私が聞いてるのは、奈緒ちゃんに対する気持ちなんだけど」

「そ、それは……」


 健太郎は、目を閉じて少し考え込み、口を開いた。


「今も少し、心のどこかに奈緒への気持ちは残ってるかもしれない」

「ほらね。やっぱりそうだと思った」


 そういうと、みゆきはタオルケットを両手で払いのけ、生まれたままの姿で浴室へと急ぎ足で去っていった。


「み、みゆき!俺は…今の俺は、お前が一番なんだ!奈緒のことはもう昔の話だからさ!だから、たのむ……俺を、置いてかないでくれ!」


 健太郎は、慌てて起き上がるとみゆきに泣きすがるような声で訴えた。

 みゆきの誘導尋問に乗せられ、つい、心の奥に引っかかっていた気持ちを口にしてしまった。

 折角手に入れた幸せな結婚生活を守るため、ずっと、心の奥にしまい込んでおきたかったのに。

 しばらくすると、みゆきはタオルで髪の毛と全身を拭きながら、浴室から出てきた。


「はあ~サッパリした!あれ、何やってんの?健太郎さんもシャワー浴びてきてよ!これから私たちには、行かなくちゃいけない場所があるんだから」

「はあ?」


 健太郎は、足が止まった。


「はあ?じゃないわよ。これから奈緒ちゃんのために、迎え火を焚かなくちゃ」

「バカ!こんな都会のど真ん中の、一体どこで迎え火を焚くんだ?」

「やり方次第で出来るわよ」


 みゆきは、黒いシースルーのシャツとクロップドパンツを着込み、真っ黒なマスクをかけて、カバンを手にそそくさと玄関へと向かった。


「どこ行くんだ、みゆき!」

「近所のスーパーだよ。迎え火に使えそうな物を色々探してくるから」

「おい!俺は一人、このまま置いてけぼりかよ!」

「付いていってもいいし、行かなくてもいいし、ご自由にどうぞ。あ、付いていくなら全裸じゃなくて、せめてパンツ位は履いていってね」

「ぐぐぐ……」


 健太郎はみゆきからの言葉に思わず歯ぎしりしたものの、タオルケットで慌てて下半身を隠しながら、浴室へ駆け込んだ。

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