みずいろ

ナツメ

 色あせた水色の表紙を眺めながら、私は先日の佐々木さんへの取材を思い出していた。



 はじめて会った佐々木さんは、ごく普通の二十代半ばの働いている女性、という印象だった。話し方もとりたてておどおどとしているわけでもなく、本当にごく普通で、私たちがに対してどんなに思い込みが強いのか、改めて思い知らされる。

 あるいはそれは願望なのかも知れない。

「改めて、このような取材の機会をいただいてありがとうございます。これからいろいろお伺いさせていただきますが、聞かれたくない、答えたくないことがあればすぐにおっしゃってください」

「はい、大丈夫です。正直、今でも記憶がおぼろげというか、すこしずつ思い出しはしたんですが、どうも自分のことのようには思えなくて。でも、それが何かお役に立つのでしたら」

 佐々木さんはわずかに首をかしげて微笑むようにした。この時点で私はすでに、彼女への信頼感が芽生えていた。こちらも信頼してもらえるように努めなければ。それもまたルポライターの仕事の一環であると言える。


「あの一年間のこと、ずっと忘れていたんです」

 佐々木さんはそう語り始めた。

 二〇〇〇年五月二十二日、当時四歳の佐々木さんは行方不明になり、翌二〇〇一年四月三日、住んでいた東京から遥か遠く離れた鳥取県で、一人で歩いているところを保護された。佐々木さんが軟禁されていたというアパートに警察が駆けつけると、部屋の住人である尾木野おぎの慎士しんじが首を吊って死んでいた。

 目撃証言や部屋に残されていた尾木野の日記などから、尾木野が佐々木さんを誘拐したことが明らかになったが、被疑者死亡により不起訴処分になった。

 世間を騒がせ、そしてそのうち忘れられていった事件のうちのひとつだ。私は現在、このような幼児誘拐事件をまとめたルポタージュを執筆している。何人かの被害者にコンタクトを取り、佐々木さんは取材を快諾してくれたのだった。

「私も幼かったですし、両親もその話はしたくなかったでしょうし……大人になるまで本当にすっかり忘れていました。自分が誘拐されたことを、私は知らなかったんです。それが、五、六ほど前に、たまたま事件のことを知って」

 両親に聞き、当時の記事やウィキペディアを読んで、少しずつ記憶が戻ってきたのだそうだ。

 尾木野は最初優しそうに声をかけてきたが、手を引っ張ってどこかに連れて行こうとするので泣いて抵抗すると、抱え上げられ無理やり車に乗せられた。泣いても喚いても車は止まらず、その後は暴力を振るわれたことはなかったが、とにかくその体験が恐ろしくて、佐々木さんは尾木野に逆らわないようにしたという。

「それからはずっと怯えて過ごしていました。はやく家に、両親の元に帰りたい。耐えていればいつか家に帰れるだろうと、それだけを望みに、あの人の言うことを聞いていました」

 尾木野は佐々木さんのことをなぜか「ベロニカ」という名で呼び、部屋に軟禁した。しばらくして、尾木野は都内のアパートを出て、佐々木さんを連れて鳥取へ移る。佐々木さんにとって誘拐後はじめての外出だったが、常に手を繋がれて、逃げる隙はなかったという。すでに逃げようという気持ちすら奪われていたのかもしれない。

 鳥取でも軟禁生活は変わらなかった。佐々木さんはそれをじっと耐えていたが、冬ごろから尾木野の様子がおかしくなったという。

「やたら私の体を触るようになったんです」

「それは、その――」

「いえ、その……いわゆる、性暴力……みたいなことはなかったと思うんですけど、なんというか……大きさを確かめようとしてるような。その時期、食事も減らされたような気がします」

 冬が過ぎて、暖かな日が増えてきたころ、それは起きた。

「その日は衣替えをして、と言ってもそんなにたくさんの服はなかったんですけど、あの人が最初に買ってきたワンピースを出して、私に着せようとして。でも入らなかったんです」

 四歳から五歳にかけて、女児であれば平均で七センチほど身長が伸びる。去年の服が入らなくなるのは当然だろう。

「そうしたらあの人、急に叫んだんです。何言ってるかわからなかったけど、それで自分の頭を殴ってるんです。それはすごく怖くて――たぶん、私は部屋の隅に逃げて泣いてたと思います」

 佐々木さんの声がわずかに震えた。無理しないでください、と告げると大丈夫ですと答えてペットボトルの水を飲む。

「それで、その次の日か、次の次の日か……あの人が言ったんです」


 ――ベロニカ、おうちに帰りたい?


「私は精一杯頷きました。やっとおうちに帰れるんだと思って。そしたら、ひとつだけお願い聞いてくれたらいいよって。あの人は椅子を引っ張ってきて、それに上って何か縄をかけて……」


 ――この椅子を元の場所に戻して。そうしたらここから出て行ってもいいよ。


「椅子は重かったですけど、引っ張って、そしたらあの人の足が外れて、潰れたような声がして。私は、椅子を元の場所に戻そうと必死でした。五歳ですけど、何が起きているか、なんとなくはわかっていました。でも、私はただただ、家に帰りたかったんです。それしかなかったんです。椅子を戻したら、玄関に行きました。鍵が開いてました」

 私は、何も言うことができなかった。


 取材が終わって、しばし雑談をしたあとに、佐々木さんがぽつりと漏らした。

「私のしたことは、ひとごろしなんでしょうか」

「それは違います」

 反射的にそう答えてしまった。客観的に見て五歳の佐々木さんの取った行動が殺人に当たらないと言うのは、佐々木さん自身わかっているだろう。現に、佐々木さんは思い出したことを全て警察に話しているが、罪に問われていない。

 しかし、自分の行いによって人の命が潰えたという事実は変わらない。おそらく彼女はそういうこと言っているのだろう。

「――佐々木さんは、お家に帰ろうとしただけですよ」

 結局そんなことしか言えなかったが、佐々木さんは「そうですよね、ありがとうございます」と、またうっすら微笑んだ。



 目の前の古ぼけた水色のノートこそが、尾木野の日記帳だった。

 こんなものを読んでどうなる、と思いもする。慮られるべきは被害者の心身の健康であり、また同じような被害を生まないことであって、加害者の心情などは取り沙汰すべきではない、と。

 しかし一方で、被害を生まないことは同じような加害者を生まないことと同義でもある。加害者の心理を知ることで、その足がかりを得ることができるのではないか。

 あるいは、私は怖いのかもしれない。幼い佐々木さんを攫い、その心に今も消えない傷を残した尾木野の言葉に、もしや共感してしまうのではないかと。

 私は大きく息を吸って、ふう、と一息に吐き出し、意を決してその表紙をめくった。

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