ヒライシンのシタで

南方 華

第一話 別れと、出逢いと

 もう、無理だよ。──別れよ?


 観覧車のゴンドラでの長い無言の時間の最後に放たれた、小さいながらも鋭いその言葉。

 それは正確に私の耳朶じだを打ち抜き、張り巡らされたか細い神経を伝播でんぱし脳髄へ、大小ひしめく血管を駆け巡り、心臓へと響き渡った。


 意味が分からない。

 先週、久方振りの遊園地ということで、部屋で肩を寄せ合い、時には一回り小柄な彼女を膝に乗せ公式サイトを閲覧していたものだ。

 とはいえ、お互いの顔はモニターを向いていたのだから、どんな顔をしていたのかは分からない。私は膝に感じる尻の柔らかさに緩んでいただろうが。

 そして、今日、こうして存分に楽しんだはずだ。

 けれど、どうしてだろう。その時の表情が思い出せない。

 もやがかかり、ノイズが走り、つい先程までの幸せが、満ち足りた時間を拾い直すことがどうしても出来ない。

 まるで、――大きな波に根こそぎさらわれたかのように。


 じゃあ、あたし、行くね。ばいばい。


 本気の言葉だった。

 彼女……、瑞美みずみとは出会ってから十年、付き合ってから五年になる。

 通常の恋愛より障害が多かった分、どうしようもなくそれが分かってしまう。

 気がつくと、彼女はその場から立ち去っていた。

 恥ずかしいことに私は茫然としたままそこで立ち尽くしており、再び意識を取り戻した時は地べたに座り込んでいて、くぐもった嗚咽おえつを上げ続けていた。


 どれくらいの時間が経過したのだろう。

 頭痛と耳鳴りで吐き気をもよおす中、ゆっくりと顔を上げる。

 と、観覧車の運行スタッフであろう男と一瞬目が合い、そしてらされた。

 こちらとしても、下手な憐憫れんびんは要らなかったし、あらゆる意味で対象外だったので、面倒にならず済む。私は片膝を立て何とか起き上がると、のろのろとその場所を後にしようとした。

 その時。初夏には珍しいほどのヒヤリとした風が背後からほおを撫で擦った。

 それにいざなわれるように振り向くと、そこには。


 夕陽に焼き付けられた大観覧車の避雷針ヒライシンシタで、美しい少女がじっと私を見つめていた。


     *


 まるでこの世界から切り離されたどこか異なる世界で生まれたのではないかと思うほどに、現実感のない娘だった。

 雨に濡れたカラスのように青みがかった黒髪を肩まで伸ばし、吹き付ける風がそれらを緩やかになびかせる。

 大きな瞳のまぶたは半分くらい閉じられていて、しかも目じりが下がっているので、まるで寝ぼけ眼をみているような可愛らしさがある。

 実際眠いのかもしれない。

 フリルのついた空色の袖なしカットソーを着た小さな身体はふらふらと揺れ、何とも保護欲をそそられる、端的に言えば私好みの子だった。


「おねえちゃん、だいじょうぶ?」


 およそ人のものとは思えないほどの、涼やかで柔らかい声音が耳の奥に入り込み、脳内で拡散する。

 あまりの甘美さに自分の中にある情動が湧き上がるが、同時にその姿はまだ成熟していなさそうに見え、背徳感が一層自分を刺激して、——たまらない。


「大丈夫、大丈夫だよ。ありがとう。……その」

「アトウ。あたしの名前」

「あ、うん。ありがとう、アトウちゃん。私は祥子しょうこ


 私も名乗る。何と呼べばいいのかで止まった思考を見抜くこの子は、見た目はふわっとしているが実に聡明そうめいな娘のようであった。

 それから、近くの椅子に座り何か話をしたような気がする。

 だが、その時のことも、良く思い出せない。

 瑞美のことで精神が大きく削られた私は、まるで白昼夢でも見たかのような実感のない時間を少女と過ごしていた。


     *


 気が付くと私は自室に帰り、外出着のままメイクも落とさずベッドで仰向けになっていた。

 夢のひと時は終わりを告げ、自室という日常の中で、不意に現実が押し寄せてきた。

 タオルケットを身体に寄せる。

 柔らかい生地は普段、癒しを与えるマストアイテムになっているが、彼女の、瑞美の匂いがそこはかとなく残っており、今日はそれが心を一段と重くする。

 

「訳わかんないよ」


 掴む力を少しだけ強くする。

 LEDの部屋灯は少し暖色寄りにしているはずなのに、今日は妙に青白く感じる。

 

 ——瑞美。


 私、水谷祥子の大好きなヒト、そして。


「パートナーになることを誓い合った相手」だ。

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