第7話 そして日々は続く
点滴だけで、何も口にすることができない母は、病院のベッドの上で衰弱しきっていた。
面会時間が終わって帰ろうとする私に、母が力を振り絞るように突然こう言った。
「あなたが選んだのよ」
私は振り返り、母を見た。目に、涙が滲んでいた。
すでに他界した父も、こうしてベッドに横たわっている母も、何より子煩悩だった。小児ぜんそくで体の弱かった私とよく遊んでくれたし、色々な所へ遊びに連れて行ってくれた。
父は怒るととてつもなく怖かったが、普段は私は両親を心から慕っていた。
ただ、野球については、父は私に昔のアニメまがいの特訓を強いることがあった。
暇があれば私に投球練習をさせ、バッティング練習をさせた。私はそれが苦痛だったが、父には反発できなかった。
私が小学校4年生になると、父は地元の子供たちを集めて少年野球のチームを作り、自分が監督におさまった。
そして事もあろうに、私を先発投手に据え、3番を打たせた。
これをきっかけに、私は間違った認識を持ち始めた。
自分は全ての仲間の中心なのだと。
この、ひょいと枝分かれした認識は、5年生、6年生になって、本当にそれなりに実力がつき、市の野球大会などで優勝するようになってからは、幹も太くなり、私の内で確固としたものになった。
この頃には学校では皆から一目置かれ、私の栄誉は誰もが知っていた。
私は父のもとで大きな自己実現を果たし、栄光の頂点にいたのである。
ところが、この状況はその後あっという間に崩れ去る。
父が転勤になったのだ。
私が中学1年生になる時だ。
途端に父の仕事も忙しくなり、勿論それまでの野球チームなどもうない。
私は別の土地の中学校で、誰ひとりとして知る生徒のいない中で、1から自分と、自分の友人を作っていかなければならなかった。
学校の野球部に入っても、ピッチャーにもなれなければ、3番を打たせてもらうこともできない。
それでも少しずつ友人を作り、学校に馴染み始めたのだが、2年生になる時、また父の仕事の関係で転校した。
またゼロからの出発である。
そして転校後、事件はすぐに起こった。
転校生の私は、些細なことからひとりの生徒と口論になった。
その時、途端に私は回りの生徒たちから罵声を浴びせられ、それ以降、私は生意気な転校生という烙印を押され、皆から仲間に入れてもらえなくなつた。
孤立したのだ。
この経験は次のような認識と共に私の中に深いキズを残した。
つまり、自分が正義で、私に味方できない皆がバカなのだと。
勿論これは誤りで、過去の私のプライドからくる思い上がりでしかない。
しかしこの感覚は高校生になってもあまり変わらなかった。
私は気持ちを許せるような友は見つけられないまま、なんとか生徒たちの、いや、世界の中心に返り咲きたい、あの、野球で皆の中心だった時のように、と、そればかり願っていた。
いい大学に入り、いい会社に勤めなければならないという両親の教えに馴染めなかった私は、やがては人生そのものに意味を見いだせなくなり、3年生の時、学校の勉強には何の意味もないという結論を出し、高校を退学した。
「高校をやめるなら家を出て働け」
それが父の言い分だった。
私は家を出て、三畳一間の新聞配達の寮に入り、自活した。
しかし自活というのは、17歳の少年にはキツすぎた。特に私は苦しくて、孤独で、自分が生きてる理由を見つけられなかった。
新聞配達をやめ、貯めたお金でアパートを借り、アルバイト生活を続けたが、1年ちょっとで神経衰弱のようになり、やがて外国を放浪するなどして、21歳の時、ついに不安神経症を発症して、精神神経科に1月ほど入院した。
私は、壊れていた。
「あなたが選んだのよ。あなたが好き勝手なことをしたのよ」
母の言葉はこの事を言っているのだ。
「そうだよ、お母さん。僕がえらんだんだ。じゃあまた明日来るからね」
そう言って私は病院をあとにした。
冬の寒い夜で、夜風がひどく身に染みた。
勿論私は母親も、亡くなった父親もとうに許している。恨んでなどいない。
でも、何か押し切られてしまったような苦しさは拭いきれなかった。
できることなら、もしできることなら、甘えかもしれないが、「あなたも大変だったね」ーそんな一言でいいから、母の口から聞きたかった。そしたら私は、心から母を愛していたかもしれない。
その後母は回復し、退院した。
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