第3話 大きな子猫

 午後7時。夏真っ盛りとはいえ、流石に辺りは薄暗い。依然として蒸し暑いが、吹く風は少しだけ涼しい。


 沙織たちのもとを半ば強引に去った後のこと。行きそびれた図書館の代わりに、行きつけの喫茶店で読書にふけった。いつまでも居たくなるような素敵な場所だが、コーヒー1杯で何時間も居座るのはあれなので、頃合いを見てその場を後にした。


 家に帰る道中で電気量販店やスーパーに立ち寄った。都会は暇つぶしの手段が豊富であり、人の多さを差っ引いてもかなり気に入っている。


 夜ごはん用の食料が入ったスーパーの袋を片手に住宅街を通り抜ける。


 今日もある程度は有意義な時間を過ごしたつもりだが、何をやるにしても笹葉のことが頭によぎった。天斗は笹葉に対して終始冷たい態度をとっていたが、別に嫌いなわけではない。ただ、間違っていることを間違っているといっただけなのだ。


 天斗は笹葉のパパではなく、迷子は引き取るのではなく警察に任せる。すべて正論。不確かな希望は、時として人を傷つけてしまうことを天斗は知っていた。


 頭の中でぐるぐると笹葉のことを考えているうちに、見慣れたアパートに辿り着いた。今年の春から住み始めた激安アパート。外観並びに内装はお家賃通りだ。


 錆び切った階段をゆっくりと登って部屋に向かう。足元からはギシギシと心もとない音が響いた。


 1点に体重をかけ過ぎないように気を付けて、3階に辿り着く。その時、目指す先に何か見慣れない物体が置いてあるのが見えた 。


 いつもは殺風景な廊下に、1匹の猫。天斗の部屋の扉の前でうずくまるそれは、猫にしては少しばかり大きすぎる。


「にゃ、にゃー……」

「何してんだ、笹葉」


 その猫、改めネコミミをつけた笹葉は、おずおずと立ち上がった。猫の鳴きまねを完全無視され、耳まで真っ赤だ。


「パパのお家に泊めさせてもらいたいです」

「駄目だ」

「そう、ですか……」

「……」


 笹葉はすんなりと天斗の言葉を受け入れた。てっきり足に引っ付いてわめきながら引き下がると思っていた天斗は、少々拍子抜けだ。


 笹葉は下を向きながら階段へ向かう。その足取りはおぼつかなかった。天斗の横を通り過ぎようかとしていた時、笹葉がバランスを崩して前のめりに躓いた。


「……っぶねぇ」


 天斗は袋を持っていない手で笹葉を抱きとめる。笹葉は息が上がっていて、全く汗をかいていなかった。いくら夜になったとはいえ、夏に外を出歩いて汗を一つもかいていないというのはおかしい。


 軽度の脱水症状の疑いがあると天斗は思った。


「動けるか……いや、いい。安静にしていろ」


 スーパーの袋をその場に置き、笹葉をお姫様抱っこした。ポケットから出しておいた鍵を器用にさしてドアを開ける。座布団を枕代わりにして笹葉を床に寝かせた。


 天斗はスーパーの袋を取ってくるついでに、アパートの前にある自販機でスポーツドリンクを2本買った。


 部屋に戻ると、笹葉は既に起き上がり、正座でテーブルの前に座っていた。履いていた靴はきちんとそろえてあったので、意外と礼儀正しいのかもしれない。


 天斗が無言でスポーツドリンクを1本渡すと、笹葉は「ありがとうございます」と言って受け取る。すでにネコミミはつけていなかった。


「大丈夫なのか?」


 天斗がようやく心配の声をかけると、笹葉はコクリと頷いた。


「はい! 朝から何も口にしていなかったので助かりました」


 昼間の炎天下の中、水分を取らなかったというのは自殺行為だ。今までなんともなかったことが奇跡に近い。


「ところで、神楽はどうしたんだ? 笹葉はなぜここにいる? 警察に連れて行ってもらったんじゃないのか?」

「何個もいっぺんに答えられないです……」


 眉をひそめて困り顔だ。


「悪いな。じゃあ、1つずつ。神楽はどうしたんだ?」

「かぐらさんは、ええと……パパがどこかに行ってから、すぐにどこかへ行ってしまいました……」


 笹葉は俯きがちになってそう答える。しかし、天斗は違和感を覚えた。あの沙織が笹葉を見捨てるだろうか。


 その違和感を払しょくするために笹葉の顔をじっと見つめた。すると、笹葉は照れたように視線をそらした。


「そんなに見つめないでください……恥ずかしいです」


 しかし、天斗はとあることに気づいた。それは、さっきの違和感に関係していそうなものだったので、笹葉を軽く泳がせてみることにした。


「今日は特に暑かったな」

「そうですね。とっても大変でした」

「暑いとどうも食欲がなくなりがちだが、しっかりと食べることが夏バテ防止に大切なんだ」

「そうなんですね。パパは物知りです」


 笹葉は手を膝に置き、ふんふんと相槌を打ちながら話を聞く。


「笹葉はどんな食べ物が好きなんだ? ちなみに僕はナポリタンが好きだ。あと、僕はパパじゃない」


 いつまで笹葉はパパと呼び続けてくるのだろうか……。


「私もナポリタン好きです! 今日のお昼もナポリタンでした!」

「そうかそれは奇遇だな。……で、誰がそのナポリタンを食べさせてくれたんだ?」

「え? かぐらさんですよ? ……はっ!」


 笹葉は慌てて両手で口をふさいだが、発した言葉は取り返しがつかない。時すでに遅しだ。


 天斗はティッシュケースを机に滑らせて笹葉に渡した。笹葉の口の周りに薄くついている赤いひげを拭かせるためだ。沙織とはすぐに別れたはずの、今日1日何も口にしていないはずの笹葉にはあるはずのない赤いひげ。


「顔にナポリタンを食べたと書いてあるぞ」


 笹葉はおずおずとティッシュで口を拭いた。やはり、笹葉は沙織とすぐに別れたわけではなかったのだ。


 ではなぜ、笹葉はそんな嘘をついたのだろうか。

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