10. 恋人ゆえに

 暖房の効いた電車に揺られていると、うつらうつらとしてしまうことがある。別に眠くなくてもそんなことはある。別にそれが揺れの少ない新幹線であっても、そんなことはある。

 そう、その不思議な現象は今のあたしに起きている。


「…………ねむいわ」

「寝てもいいよ」


 隣の恋人に頭を預けながら、ぽつりと呟いた。すっと返ってくる声が耳に心地いい。

 窓の外は薄暗く、青空は雪雲に覆われている。飛ぶような速さで通り過ぎていく景色は緑が多く、都会から遠く離れた場所まで来たなと、ぼーっとした頭で思う。


「……ん」


 身体の力を抜く。返事はせず、全身を預けて目を閉じた。少しの話し声と電車の動く機械音だけが耳に留まる。

 さっきまで二人で昔話をしていたからか、なんとなく、今までの思い出がぽつぽつと頭に浮かんでくる。


 初めて会ったときのこと。

 歌劇の会場で会ったときのこと。

 二人で偶然会ったときのこと。

 相談をしたときのこと。

 二人でお出かけしたときのこと。

 プレゼントをもらったときのこと。

 一緒にご飯を食べたときのこと。

 デートをしたときのこと。


 しゃぼん玉みたいに次々と思い出が浮かんでは消えていく。

 一緒に笑って、一緒に泣いて。楽しいこともたくさんあったし、大変なこともたくさんあった。喧嘩はほとんどしてこなかったのに、悲しいことはいっぱいあった。不安になって、不安にさせて、二人で後悔して。上手く言葉が言えなくて、気持ちが伝えられなくて、もどかしい思いもいっぱいした。他の人に迷惑をかけたことだってたくさん……はないか。ちょっとはある。

 二人で時間を重ねていくうちに、あたしも変わったと思う。

 昔より素直に感情が出るようになった。嬉しさも、苛立ちも、悲しみも、楽しさも。それこそ言葉通り喜怒哀楽がよく表に出てくるようになった。

 それに何より、人を好きになることの幸せを知った。


「―――」


 ねえ、覚えてる?

 なんて心の中で聞いてみる。

 "何を?"


「何を?」


 とか返ってくるはずのない声が聞こえて、自分への呆れと喜びにちょっぴり笑いそうになる。

 何を、ってわからないの?と聞き返したくなった。


「わからないよ」


 そりゃそうよね。だってあたし何にも伝えてないんだもの。第一、あなたが答えられるはずないのよ。あたしがいつあなたを好きになったか知ってる?なんてわからないでしょう?


「うん、それはわからないね」


 あたしでも答えられないんだから、あなたも答えられなくて当然よ。

 こんな風に心で会話をしていてちょっとだけ思うのは、実際のところあたしが郁弥さんを好きになったのはいつなのかってこと。

 意識し始めたのは、たぶん人生相談した頃くらい。というか、本当の根っこのところでは既にその頃には好きになっていたのかもしれない。

 彼の仕草を目で追うようになって、彼の声に耳を澄ませるようになって、彼の表情に意識を奪われるようになって。会うたびに印象が変わっていったような記憶がある。


「恋人になってからは?」


 恋人になってから?それは……どうなのかしら。好きなのは変わらないし、むしろもっと好きになったから。恋人になる前よりも安心感はある、かな。デートであなたから手繋いで指絡めてきてくれたり、外でもデート中に抱きしめてくれたりするようになったし。たくさんってわけじゃないけど、公園とかで人目もあるのにぎゅってされるのは、結構びっくりする。いつもあたし顔真っ赤になってるでしょ?


「そうだね。やめた方がいい?」


 やめなくていいわよ。嫌じゃないもの。公園の広場の真ん中で映画みたいにハグしてくるのとか、そんな勇気あたしにはないけど、してもらったらすっごく嬉しいの。恥ずかしいけど。

 でも、それ以上に恥ずかしいことがあるわ。


「ん、何かな?」


 いきなり不意打ちでキスしたりしてくること。


「あぁ、なるほど」

「なるほどじゃないわよ」

「あ、聞いてたの?」

「白々しいわね。途中から普通の会話になってたじゃない」

「あはは、そうだね」


 二、三回返事が来てすぐわかった。最初は本当に気のせいかと思ったけど、途中で全部声に出してるって気づいた。自分のことながら、頭がぼんやりしていて声になっているかどうかすらわかってなかったみたい。自覚してからは、小声でお話よ。普通の会話になったわ。眠気も完全に飛んでなくなった。


「あなたの家の近くの公園あるじゃない?」

「うん?うん、あるね」


 眠気も飛んだので、目を開けて問いかける。

 いつの間にか体勢が変わって、恋人に肩を抱かれるような形になっていた。妙に恥ずかしくて、そっと彼氏さんの腕を外して椅子に座り直した。横を見れば黒色の瞳と目が合う。全部お見通しとでも言いたげな瞳に頬が熱くなった。


「あの公園でもぎゅーってされたじゃない」

「あー、そういえばそうだった。あそこ、結構大きい広場もあったね。お花見スポットしか頭になかったよ」

「思い出してくれたならいいわ。休日で家族連れもそこそこいたのに、わざわざ見通しのいいところに行って思いっきり抱きしめたことも思い出した?」

「うん、思い出した。いい思い出だよね」

「それは、そうだけど……」


 "悪い思い出"だなんて到底言えなくて言葉が途切れる。事実あたしもいい思い出だと思っているし、そこを否定する気はない。だけど。


「その、一つ聞きたいのよ」

「なに?」

「郁弥さんは恥ずかしくないの?」


 じーっとお隣に座る恋人を見つめる。


「恥ずかしくないよ。僕なりに時間と場所はわきまえているからね」

「そうなんだ……」


 意外と言うべきか、それとも彼らしいと言うべきか。堂々とした態度を見ていたら、あたしも別に気にしなくていいような気がしてきた。


「それに、恋人ならあれくらいできなくっちゃね」

「ふふ、そうかもしれないわね」


 "恋人なら"。

 あたしたちは恋人だから。恋人になるまでたくさんの失敗があったから。だから、今はお互いに相手のことを想って言葉にして行動に移せる。

 昔の郁弥さんと、今の郁弥さんの言葉を聞いて比べてみてちょっと笑っちゃった。これだけあたしのために変わってくれたんだと思うと、なんだかふわふわとした気持ちになる。

 こてりと身体を崩して彼の肩に身を寄せる。なんとなく、くっつきたくなった。


「いーくやさーん」

「はい」

「あたしと一緒に旅行できて楽しい?」

「めちゃくちゃ楽しい」

「うふふ、あたしもー」

「それはよかった。到着までしばらくかかるし、もうちょっとお話でもしていようか。それとも何かしたいことある?」


 問いかけられて、ぽーっと考えてみる。

 今やりたいこと、やりたいこと、やりたいこと……。


「なんにもしたくないかも。今はこのままぼーっとしてたいかな」

「そっか。じゃあ少し、このままでね」


 微笑む恋人の顔を視界の隅で捉え、ゆっくりと目を閉じる。

 ゆらゆらとした優しい揺り籠のような新幹線の中で、あたしと郁弥さんは二人、静かに過ごす。こんな時間も悪くない。そんな風に思いながら、あたしは人の温もりに身を任せてそっと意識を手放した。

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