7.そこにあった日常
目を開けると空が見えた。日はすっかり沈んで青い空が向こうから暗くなっていっている。体の節々に若干の痛みを感じながら起き上がる。草むらに寝転がっていたせいで至るところが蚊に刺されていた。上を見上げると落ちてきた丘が見えた。家の影はない。空き地だ。
鈍る頭を回転させて状況を整理する。あの丘から足を滑らせてこの草むらに転落した。そして暫く気を失っていた。落ちた時は確か日が暮れる前だったから一時間は気を失っていたということになる。このことは前にも考えた覚えがある。本当に気を失っていただけだろうか。何かがあったような気がする。何だっただろうか、あの丘は本当に空き地だっただろうか。家があった気がする。しかし家なんて無いし、なぜそんな気がしてしまうのかが分からない。
気を失っていたせいか頭の中に靄がかかっているかのようだ。考えようとしても上手く脳が働かない。取りあえず暗くなったし家に帰ることにする。立ち上がって体を見たが鈍い痛みを感じるものの特に怪我は無いようだった。ポケットに入れたスマホを取り出して電源を押す。液晶に"19:12"と表示されている。問題なく動く。どうやら壊れてはいないようだ。今頃はもう夕飯だろうな。母は怒っているだろうかなんて思いながら暗がりを小走りで後にした。
その後も頭の中に靄がかかっているかのような感覚は続いた。夕食中も、入浴中も、寝る前も何時間経ってもそれは変わらなかった。何かを忘れている気がする。何かがあった。あの丘から転落した後に何かがあったような気がする。しかし肝心のそれが何なのかがどうしても思い出せない。夢の内容を思い出すかのようだ。もしかして夢なのだろうか。分からない。夢なんて見てもすぐに忘れる。思い出すことなんて出来るはずがない。
しかし、そのまま忘れてはいけないような気がする。忘れることは簡単だが忘れてしまったら二度と思い出せなくなるだろうという危機感が襲う。正体のわからない感覚に悩まされながら一晩を迎えてしまう。
朝から気分が優れないまま朝食を終えて居間で休んでいると香織がどこからともなく出したアルバムを机の上で広げ始める。見覚えのある古びたアルバム、確か昨日の祖父のものだ。
「まだ見てんのかよ?」
香織にそう聞くと当の本人は楽しそうに答える。
「おじいちゃんがね、欲しいの持って帰っていいよって言ったから選んでるの~」
欲しいの持って帰るって、祖父の写真なのだから本人が持っておくべきだと思うが違うのだろうか。
「じいちゃんの写真持って帰ってどうすんだよ。じいちゃんのものなんだからじいちゃんが持っておくべきだろ。」
「だっておじいちゃんが良いよって言ったし」
香織はつまらなさそうに口を尖らせて言う。すると台所から「香織はおじいちゃんの若い頃の姿が気に入ったのよねー」という母の声が聞こえてきた。叔母も同じように「若い頃のお父さんかっこいいもんね。」と笑って言う。二人はどうやら妹擁護派のようだ。
「あれ、何これ?」
香織がアルバムをめくって首をかしげた。どうやら最後の頁に何かが挟まっているようだった。香織がそれを手に取って見せる。
色は薄い茶色で何かの植物が萎れて変色したもののようだ。何かの花だろうか。濃い色の花のように見える。花びらと思しき部分は形もかなり崩れてしまっているがどことなく見たことのあるものだった。
何かが脳裏に過る。何だっただろうか。この花も知っているはずだ。そしてもう一つ何かを思い出そうとしている。もう少しで分かりそうなのに分からない。もどかしい。何なんだろうか、この感覚は。
「ね、このおじいちゃんの隣にいる女の人誰だろう?」
香織がアルバムに一枚だけ挟まれている写真を指差す。古い写真だがそこには今より30歳ほど若い祖父と隣に女性が立っている。その女性は40代ほどで女性自体には一切面識がないはずなのに顔立ちはどこか見覚えがあった。その女性を見ただけでまたしても奇妙な感覚が襲う。そして祖父と女性の背景を見た途端鼓動が速くなるのを感じた。
背後にはどこかの家の玄関のようだった。少し古びてはいるものの広くて高級そうな内装だ。これにも見覚えある。この家の玄関ではない。しかし間違いなく"この玄関に足を踏み入れたことがあるはず"だ。
そこであることに気づく。咄嗟に香織がちょうど開いているアルバムを取ってページをめくる。ほぼ奪取するような形だったため香織が驚いて抗議する声が聞こえるがそれを無視して先頭の方の頁をひらく。
そこには昨日見た若い頃の祖父が海軍にに入隊した時の集合写真だ。祖父の隣に立つ青年。祖父よりも頭一つぶん背が高く祖父のようなはっきりとした顔立ちではないものの、どこか惹きつけられる。
その青年、志木敏郎だ———―
ようやく全部を思い出した。そうだ、忘れていたのはこれだ。あの丘から転落したあと81年前の昭和14年8月へと行ったのだ。そしてそこでまだ18歳だった志木敏郎と出会って数週間共に過ごした。犬に助けられたこと、不審者扱いされたこと、怪我を手当てしてもらったこと、志木家の人たちに良くしてもらったこと、法恵との散歩の一件で和解したこと、敏郎と日本橋の百貨店に出かけたこと、敏郎と行きつけのコーヒー店に行く約束をしたこと、敏郎とあの丘で千日紅の押し花の作り方を教えたこと————
確かにあの時代に行ったことは予想外だったし非日常のはずだった。しかしこれから戦争に向かっていく中の生活とは言え、あそこにあるのは確かに"日常"で片時の"平和"だった。時代が違えど敏郎は自分と同い年の18歳で普通のどこにでもいる少年だったのだ。ただ数年後に戦争に行かなければいけなくなるというだけで、普通の少年だったのだ。
なぜ忘れてしまったのだろうか。忘れてはいけないことだったのに。ほんの数日でも、数週間でも敏郎と共に過ごしたことは事実なのに。まさかあれは全て夢だったのだろうか?夢だから忘れようとしていたのだろうか。昭和にタイムスリップするなんて現実的じゃない。あれは夢じゃないというのならきっと他に説明がつかない。だけど、あの日々を"夢"の一言で片づけてしまうのはあまりに悲しいことじゃないかと感じる。本当にあれは夢だったのだろうか。確かめる術がないだろうか。
「にいちゃん!」
横からの突然の香織の声に驚いてびくっと反応する。香織を見ると眉をひそめて睨んできた。
「勝手にとらないでよー。どうしたのいきなり?」
「あ、あぁ…いや、ちょっとな。」
誤魔化すように返答をしてその頁から祖父と敏郎が写っている写真を抜き取った。再び最後の頁を開いて先程の30年前の祖父と女性が写った写真を出す。女性の顔の横に敏郎の顔が来るようにして双方の顔を見比べる。やはり、似ている。この女性の顔立ちといい、二人の背景の場所といい、関係が分かったような気がする。
そうと決まれば、あとは本人で確認するだけだ。
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