港町の短い夏の一日

巴乃 清

本編

 綺麗に晴れた昼下がり。僕は函館駅前に到着すると、車を止めた。腕時計を確認する。待ち合わせの五分前だ。エンジンを止めて降りて、伸びをする。皺になるのが嫌で、ジャケットは脱いで後部座席においてある。半袖のTシャツ一枚では少し肌寒いが、湿度の低い心地よい風が気持ち良かった。

 気がつくと、彼女が足早にこちらに歩いてくるのが見える。手を振ってみた。すぐに気がついて、走ってくる。

「お待たせ!」

「そんなに待ってないよ」

 僕はそう言いながら、彼女の足下に気がついて目を落とす。

「そんな靴持ってたっけ?」

 彼女は途端に笑顔になる。

「ううん。新しいの。今日の為におろしてきちゃった」

 嬉しそうに笑うのにつられて、似合うよ、と言いながら僕も笑う。助手席のドアをあけながら訊ねる。

「今日はどこへ行こうか。行きたいところはある?」

 彼女が乗り込んだのを確認してドアを閉め、運転席に乗り込む。僕がドアを閉めるのを待って、彼女はこう言う。

「どこでもいいよ。どこに行っても楽しい」

 シートベルトをしながら言ってみる。

「あの海岸沿いに出来たカフェで、ケーキバイキングをやってるらしいよ」

 一応の下調べはしてきた。ランチを食べるなら湯川辺りまで行ってみようか、遠出をするなら大沼まで足を伸ばしてもいい。

「それも行きたいけど、あのね、お弁当作ってきたんだ」

 彼女が持っていたトートバッグを、照れ臭そうに見せる。道理でいつもに比べて、大きな鞄を持っているわけだ。

「そうか。ありがとう。……ならどこへ行こう。景色のいいところがいいよね」

 鞄を受け取って後部座席に置いてから、彼女が座り直すのを確認して車をスタートさせる。駅前のロータリーを出て、電車通り沿いに南東へ進む。

駅前と言うには寂しすぎる通り。パチンコやコンビニばかりが元気で、冬の間に荒れたアスファルトが、ごつごつと剥き出しの寒々しい印象を与える。国道二七八号線。ちらほらあるマンションやホテル以外は、建物の背も低い。住んでいた頃には気が付かなかったが、幅の広い車道と縦型の信号機に目が行く。

 突き当りを左折。大森公園がある。

「公園で食べる? まだ早いか」

「うん。まだいいよ」

 道路の脇には雪に埋もれる時期にもわかるように、停止線や中央線を示す標識があちらこちらに立っている。

 中学校を過ぎると建物が途切れ、海が見えてきた。

「今日、お天気が良くてよかったね」

「そうだな。空気も澄んでるみたいだ。青森がぼんやり見えるな」

「本当?」

 彼女が身を乗り出して、運転席の窓側から外を覗いてはしゃぐ。

「本当だ。すごいね」

「この辺りも、宿屋が増えたな」

「うん。観光客向けの食べ物屋さんとか、そういうのが増えたね」

「その割にはパチンコ屋も多いし、観光地として整備されてないんだよなぁ」

 照りつける日差しに気がついて、言う。

「暑い? エアコンを入れようか」

 彼女は首を振る。

「ううん。大丈夫。窓を開けてもいい?」

 頷いて、手元の操作で窓をあける。途端に風が入り込み、彼女の長い髪が日の光に透けてなびいた。潮の香りがする。

ミニスカートから出た白い膝が、夏の日差しを照り返している。信号で止まっている間に、後部座席に手を伸ばしてジャケットを取って、彼女に渡した。

「日焼けするよ。膝にかけておけよ」

「ありがとう」

 僕のジャケットを、細い足の上に丁寧に広げる。そんな仕草で、満たされた気持ちになる。

 漁火通りをひた走り、湯川漁港近くで道を折れた。海の方に車を入れる。

 磯の香りが強くなる。鴎が飛んでいる。エンジンを切ると、すとんと急に静かになり、波の音が迫って聞こえた。

「気持ち良いね」

「そうだな」

 僕はシートをスライドさせてやや倒す。彼女が振り返って、トートバッグを取って自分の膝の上に置いた。

「お茶と、おにぎりと、」

 赤いチェックの水筒と包みが出てくる。水筒にはきちんと氷が入れてあるらしく、置いたときにからんと音がした。

「あれ?」

 全部出し終えて、バッグの底をガサゴソと探している。

「どうしたの」

 しばらく探し続けていたが、観念したように顔をあげた。

「ごめん、お箸持って来るの忘れちゃった」

 僕は思わず吹き出す。彼女のそそっかしさと、玩具を取り上げられた仔猫のような哀しい顔に。

 ごめんね、と謝る彼女をよそに一頻り笑い終えると、僕はシートの位置を元に戻してキーを捻った。

「ちょっと戻った所にコンビニがあったろ。彼処で何か買って、箸を貰おう」

「うん。ごめんね、ありがとう」

 手早く荷物をしまい、シートベルトをする彼女。

「そう言えば、この近くに植物園があったね。小さい頃何度か来たの」

「行ってみようか」

 僕が言うと、犬なら尻尾が千切れんばかりに振っているだろうな、と思うほど目が輝いた。ころころと、小動物みたいに表情が変わる。

「じゃあ、箸を手に入れたらここに戻って来て、海を眺めながら飯を食って、それから植物園へいってみよう」

「うん!」

 僕は笑いを噛み殺して、車をスタートさせる。



 黄昏時。

 植物園を堪能した僕らは、漁火通を今度は函館山方面に向かっていた。窓の外に目をやっていた彼女は、ふと僕の方に向き直って言う。

「北海道の海って、海の色が冷たく感じるよね。もう夏なのに」

 北の海は、いつでもどこか冷たく、深い色合いをしている。東京の海とも沖縄の海とも違う、北海道の独特の色だ。

「そう言えば、日本の海の色は、群青と緑青を混ぜて作るんだって」

 僕が言うと、彼女が不思議そうな顔をする。

「東山魁夷の本に書いてあったんだ。孔雀石を砕いて作る色で、落ち着きと深みがあるんだってさ。これを絶妙な分量で混ぜ合わせることで、日本の海の色になるんだそうだよ」

 言われて彼女は、また海に目を向けた。群青の割合が濃い海に、白い波。遠くに船が見える。頭上高く輝いていた太陽も今は傾き、柔らかい光を投げかけている。北の港町の、ほんの短い夏。

鴎の声が聞こえる。

「綺麗だね」

「うん」

 信号に中々ひっかからないから、僕はあまりそれを見ることはできなくて、車通りの少ない道を安全運転で進んでいく。函館山のロープウェイがゆっくりと動いているのが、はっきりと見える距離になった。

「函館山、登ってみようか」

 僕は思いついて言う。

「たまには、夜景でも」

「そうだね、いいかも」

 のんびりお茶をカップに注ぎ足して飲みながら、無邪気な笑顔だ。僕はやっと止まった赤信号で、彼女の手からカップを奪い取って一口茶を啜る。氷はもう溶けてしまっていたが、まだ十分に冷たい麦茶が喉を滑り落ちていく。

 ウィンカーをあげて進路を変更。函館山の別名は、臥牛山。こんもりとした木々の緑が色濃く美しい。標高三三四メートル。極低く、だからこそ本当に巨大な牛が伏せているようで、身近に感じるからこそ大きく聳え立つ迫力を感じる。

「もうすぐ車は通行止めの時間になるから、ロープウェイで行こう」

 駐車場に車を置いて、ロープウェイの山麓駅へ行く。観光客に混じって、並んでチケットを購入した。彼女に一枚渡すと、

「ロープウェイ乗るのなんて久し振り」

 と言った。

「そうだな」

 地元の名所は却って行く事が少ないし、行くとしても車を使うことの方が多い。小学生の頃、遠足やオリエンテーションで散々登らされた山も、車で登ってしまうとあっという間だ。程なく葛折りの道が終わり、樹木が切れて景色が見えるようになる。木々の切れ間から見える景色も、はっとする美しさがあって良い。

 順番が来て、ゴンドラに乗り込む。窓際に立てたので、ふたりで外を見ながら上がる。

「リス、いないかな」

 きょろきょろしながら言っているので、

「マムシならいるんじゃないか」

 からかうと、不貞腐れた顔になるのが面白い。

 見る間に建物が遠く小さくなり、僕の車も見えなくなる。次第に遠くまで視界に入ってくるようになる。

 山頂駅に降りると、山独特の冷たく濃い空気が吹き付けてくる。展望台は賑わっていた。みんな楽しそうで、景色を見て声をあげたり、売店で土産物を見ていたりする。

「今日は良い天気だから、きっと夜景も綺麗だろうね」

 と、彼女が言った。標高が低いことと、三方を海に囲まれているだけあって、函館山には霧や雲がかかることも多い。

 僕らは混雑をさけて、やや景色が見えにくい位置に陣取った。

 暮れていく夕陽。増えていく町の光。

 函館には高い建物が少ない。航空障害灯が無い町の明かりは、白やオレンジが殆どだ。暖色系の光が次々と広がっていく陸地。刻一刻と暗みを増していく海が両サイドを縁取る。山に高さがあまり無いことと、陸の両端に黒い海があることで、余計に景色が迫って見える。

 箱庭のような風景がオレンジ色に染まり、やがて群青色が勝ってくる。それにつれて眼下に広がる光が徐々に強さを増していく。太陽が西の海に輝きの余韻を残しつつ沈み、やがてとっぷりと日が暮れて辺りが闇に包まれる。すると、途端に町の灯だけが鮮やかに煌めき始めるのだ。

「やっぱり、綺麗だね」

 彼女が呟くように言う。

「いろんなところで夜景を見たけど、私、やっぱり函館の夜景が一番好き」

「おれもそう思うよ」

 元町の教会。五稜郭のタワー。ライトアップされた建物と、民家。十字街の街灯の明かり。

 沖に浮かぶイカ釣り船。

「知ってるか? あのイカ釣り船の漁火は、宇宙からでも見えるんだってさ」

「そうなんだ。そんなに明るいんだね」

 西側にある函館港と、扇状に広がる町並みを挟んで東側の津軽海峡。その沖の船の白い漁火は、まるで舞台を遠くから照らすスポットライトのように神々しい。

 僕は、自販機でホットココアを買ってきた。少し身をすくめるようにしていた彼女に渡す。

「まだちょっと寒いな、山頂は」

「ありがとう」

 ジャケットを脱いで彼女に着せてやると、流石に半袖では寒く感じた。時折風が吹き、薄い雲が景色を遮る。

 ココアを分けあいながら、僕らは夜景を眺めた。函館山から全てを見下ろせる、小さな町。人口三十万に満たない、古く歴史があるのに、色褪せた町。しかし、今は全てが闇の中に沈み、ひとつひとつが光輝いている。それは、まるで夜空に広がる星のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る