第34話 茜の想い

「どこまで……って、一昨日はプールで会ったよね。普段はモールとかばっかりだけど。あっ、遊園地にも行ったかな」


 抜けた事を言う浩輔に頭を抱えながら茜は強い口調で言った。


「バカか君は。私が言っているのはそういう事では無い。男と女としてだ」


 茜の言葉にまた絶句してしまう浩輔。茜も随分立ち入った事を聞いてくるものだ。と言うより、まさかそんな事を聞いてくるとは微塵も思わなかった。浩輔が馬鹿正直に「まだ手を繋いだだけ」だと答えると、茜はほっとした様な、少し嬉しそうな顔を見せるとまた妙な質問をしてきた。


「男と女の違いを知ってるか?」


 これは禅問答か何かなのか? そもそも男と女なんて全然違う生き物だ。茜の意図が読めずに答えを出せずにいると、茜は浩輔の答えを待つ事無く早々と答えを口にした。


「女は男を受け入れると膜が……」


 そこで茜は顔を赤くして口ごもってしまった。だが、それぐらいの事は浩輔も知ってはいる……実践した事は無いけれども。要するに男は性体験を済ませても肉体的な変化は無いが、女はそうでは無いと言いたいのだ。茜は自分を落ち着かせる為にアイスコーヒーを口にした。そして思い詰めた顔で話を続けた。


「浩輔と真白が付き合う事に異存は無い。だが、真白はゆくゆくどこかの社長の家に嫁がねばならない。その際、純潔を守っていたかどうかで嫁いだ先での真白の扱いが変わってくるかもしれない」


 つまり茜は真白が結婚前に処女を失っていたら、純潔を守っていなかったと結婚相手にそれを咎められはしないかと懸念しているのだった。


「まあ、処女厨乙とでも言いたいところだが、そういう訳にもいかんからな」


 まだまだ日本人の処女信仰は厚いという事だ。茜は「真白と付き合うのは構わないが手は出すな」とでも言いたいのだろうか? 茜は『真白を傷付ける様な事をしたらただではおかん』と言ったが、『真白を傷付ける』というのは真白の心では無く、身体の傷、つまり処女を奪うと言う意味でしか無かったのか? だったとしたらあんまりだ。

 浩輔は茜に対し、強い憤りを感じた。それを知ってか知らずか茜は尚も話し続けた。


「キスぐらいなら構わない。だが、それ以上の事を浩輔が真白に望むなら……」


 ここまで言って茜は口を止めた。何か言いたそうにしてはいるが、口に出せない様だ。浩輔は予想した。『ただではおかん』とでも言うのだろうと。しかし、その予想は外れた。


「真白の代わりに私が君の欲望のはけ口となろう」


 浩輔は耳を疑った。今、茜は何と言った? 『欲望のはけ口』? 真白の純潔を守る為に茜が抱かれようとでも言うのか? 


「もちろん真白とは付き合っていてくれて構わない。ただ、君も男だ。性的欲求もあるだろう。その時は真白で無く、私の身体を使ってくれ」


 茜はもう一度言った。間違い無い、茜は自分の身を挺して真白の純潔を守ろうと言うのだ。真白の未来の為に。だが、浩輔にはそれが本気だとは思えない。いや、思いたく無かった。あの茜が、いつも自信たっぷりで、何かと言えば浩輔をからかい、翻弄して楽しんでいた稲葉茜がそんな事を言うなんて。もしかしたらこれはタチの悪い冗談では無いのか? そう思い、そう願いながら浩輔は言った。


「稲葉さん、何言ってるの? 冗談にしてもキツ過ぎるよ、笑えないな」


 しかし茜の目はいつもの様に妖しく笑ってはいない。それどころか今にも涙が溢れそうな目をしている。


「冗談では無い。それを証明する為にこの個室を選んだ」


 言うと茜は神妙な顔で制服に手をかけ、脱ぎ出そうとした。


「うわっ、ちょっ……やめてよ稲葉さん! ちゃんと服を着て!」


 浩輔が止めると茜は手を止めて答えた。


「なんだ、制服を着たままの方が良いのか? なかなかマニアックだな」


「違うよ! とりあえず落ち着いて!」


 浩輔の叫びに茜は乱れた制服を直すと悲しそうな目で浩輔を見つめた。


「私では……真白の代わりになれない……と言うのか?」


「いや、そういう問題じゃ無いでしょ。稲葉さんは稲葉さんだし、稲葉さんは稲葉さんでしょ……って、うわあっ、どっちも稲葉さんだぁっ!」


 完全にパニックに陥ってしまった浩輔は、もう何をどうして良いのか解らない。とりあえず落ち着こうと目の前にあったコップの冷たい水を一気に飲み干した。


「ふうっ……稲葉さん、ずっとこんな事してきたの?」


 落ち着きを取り戻した浩輔の口から漏れ出た言葉。それを聞いた茜の目に溜まっていた涙が一筋溢れ落ちた。


「浩輔……私は酷い事を言ったが、君も酷い事を言うのだな……」


 茜の目から涙が次々と溢れ、テーブルを濡らし始めた。


「好きでも無い男にこんな事が言える訳無かろう。私は君だから、浩輔だから覚悟を決めて言っているのだ」


「稲葉さん……」


 茜の口から浩輔を好きだと言う意味の言葉が出た。茜は涙を拭おうともせず、浩輔に向かって悲しく微笑んで言った。


「浩輔は真白の事をまだ『稲葉さん』と呼んでいるのだろう? 良かったよ。君が私を抱きながら真白の事を想って『稲葉さん』と呼んでも、私は自分の事を呼んでもらっていると勘違い出来るからな」


 涙に濡れながら微笑む茜は綺麗だった。可愛い真白と綺麗な茜。頭の中で二人の顔がぐるぐる回り、気がどうにかなりそうになった浩輔は思わず茜を抱き締めてしまった。


「やっとその気になってくれたか。ただ、一つだけ……実は私はまだ男性経験が無いのだ。初めてぐらいは優しくして欲しい」


 こんな事を言われて我慢出来る男など、存在するだろうか? いや、恐らくしないだろう。しかし浩輔は必死になって、やっとの思いで踏みとどまった。


「はあ……はあ……稲葉さん、どうしてそこまで真白ちゃんの事を?」


 息を荒げ、欲望と戦いながら浩輔が聞くと、茜は嗚咽を上げながら答えた。


「私と真白は姉妹の様に育ったんだ。いや、兄弟のいない私にとって真白は実の妹も同然だ。その真白が政略結婚など……望まない結婚など……あんまりではないか。ならばせめて学生の間だけでも普通の恋愛をさせてやりたいと思うではないか! その為なら、そして相手が浩輔であれば私は身体を弄ばれても構わないと……」


 茜は遂には泣き崩れてしまった。浩輔はただ、茜を抱き締め、気が済むまで泣かせてあげる事しか出来なかった。



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