ホムラと私3

 今日は、人生最悪が何度更新される日だろう。ストレスという意味では、これほど苦痛を感じたことはない。

 気分が悪い。

 吐き気がする。

 悲しい。

 ムカつく。

 イライラする。

 下らない。

 何もかも。

 破滅的な気分だった。

 腕に繋がれた鎖に引っ張られるままに、長い廊下を進んでいく。赤と黄色、宝石に飾られた悪趣味な宮殿だ。前と後ろにはあの狼たちがいて、くだらない無駄言を語り合ってはゲラゲラと笑っている。少なくとも、私が仲間を殺してしまったことなど歯牙にもかけられてはいないようだ。

 ギイっと石材を軋ませて、前方の大きな扉が開く。赤いカーペット、金の壺、緑のヤシ。一段高いところ、天幕のついたベッドに腰掛けていたのは、隆々とした筋骨で脂肪を支えているような、ずんぐりむっくりな体型のライオンのようなおとこだった。

「おお……おお……これが、女か」腰掛けたまま、そいつは前に乗り出す。年季の入った、湿気った声だ。尊大と怠惰、強欲、好色、いたずらな加齢……私が嫌いな「オヤジ」という方向性の寄せ集めのように醜い生き物のそれである。

ペコどもよ、よくやった。無駄な手出しはしていないだろうな? 女を最初に味わうのはわしであるぞ」

「はい、もちろん。全てはホムラ様のためでございます」部下の耳が赤い狼が得意げに嘘をつく。私の方を振り向きもしない。

 私はもう、何もかも真面目に考えることをやめてしまっていた。

 何が男だ、くだらない。

 何が女だ、くだらない。

 何が命だ、くだらない。

 ほんとに何もかも、しょうもない。

 全てを諦めざるをえなくなった今、殺人なんかで身動きが取れなくなってしまった自分の愚鈍さが、ひどく滑稽で間の抜けた事に思えた。もう何も考えたくない。ズブズブと泥のように沈んでいく思考を、ただ俯瞰者になったつもりでじっと眺めていた。

「女よ、ちこうよれ」

 促されるまま、背中を押されるままに、ホムラという大獣の前に立たされる。

「よいよい……よい衣装だ。美しい」太い手が、私のむき出しの腰を撫でる。部下の舌とよく似た、まとわりつく温度。「妖艶だ。絹のような肌だ。女よ、安心せい。お前は運が良い、我が宮殿に辿り着いたからにはもう安心だ。わしの名はホムラ、蛮族の知将ホムラである。わしと我が知と力にかけて、おぬしとその子を守ろうぞ」

 タンを吐きかけたくなるような言葉を話す獣の前に立っているのは、笑っちゃうくらい浅ましい下着みたいな服を着させられた私。太い腹に押し付けられ、倒れるように抱きとめられながら、ずっと止めていた息を諦めるように吸い込んだ。

 これで、私の旅は終わり。

 たどり着いた物語の結末だ。

 せっかく頑張って逃げて隠れて、たどり着いたのがこんな場所なんて、全く夢のないありふれた結果だと思う。こんなことならきっとあのクロネコという化け物に……いや、一緒さ。全部同じだ。わかってる。自分で何も決められなかったやつに待っている未来なんて、全部最悪に決まってるんだ。私は、この世界で私に与えられたどんな選択肢も選びたくなかった。この世界で自分の子どもなんて生みたくなかった。私の子宮だけをあてにして私を奪い合うこいつらに、捕まりたくなかった。

 結局私はどうすればよかったんだろう?

 人類の歴史が女に強いていた境遇の縮図みたいな体験に振り回された挙げ句、人を殺してしまった私は、だけど罪人としてすら扱われない。家畜がちょっと暴れて事故を起こしたってそれは家畜のせいじゃない。そういう価値観がヒシヒシと、ぞんざいかつ異常な執着として私に溶け込んでいく。

 やっぱり、真面目に考える気が失せていく。

「さあ、ものども、宴だ!!」でっぷりとクッションに腰掛けながら私の肩を抱き寄せ、ホムラが叫ぶ。狼たちが大皿にのせた肉の塊と果物を眺めていたら、忘れていた空腹が少しだけ、ノイズみたいに鼻をくすぐった。

 そうさ……ここにはだけど、食べ物がある。一人用じゃないだろうけどベッドもあるし、雨も当たらない。私はここなら生きていける。ここにすがらなきゃ、生きていけない。そんなやつに選択肢があると思ったことが間違いだったんだよ……。

 って。

 ほら、また真面目に考えようとしてる。

 馬鹿じゃないの?

 言うまでもなく、この世界は理不尽だ。力がないからってどんな自由も与えられないのは間違っているし、人をこんな気持ちにするような結果が正しいわけもない。当たり前だ。そんなの誰だって知っている。

 だから、なんだよ。

 この世界は正しくなくて、そこに私はいる。それだけの話なんだ。

 ああ嫌だ。本当に嫌だ。なんで私なんだ。私じゃなくてもいいじゃないか。どうして私が……。

 ザラザラと無意味な景色が目の前を通り過ぎていく。狼たちの楽団が奇怪な演奏をしていて、小さな豚が大道芸をして、何かが調理されて、果物がひっくり返って、アルコールの匂いが充満して、立たされて、寝かされて、見られて、うつむいて……何もかもが駆け抜けるように私の前に現れて、消えていく。何も見えない。見たくない。いろんな言葉が飛び交っていた気がしても、内容が頭に入ってこない。失語症ってこんな気分だろうか。ただずっと、頭の中だけで「ばーか、ばーか」とうわ言のように繰り返していたと思う。きっとホントにうわ言だろう。意味なんてない。

 とばりが落ちるその時まで、私はじっとしていた。

 やがて暗くなった部屋で、大きすぎるベッドの上に、座ったままの私と裸になったホムラがいることに気がつく。

 汗の匂い。

 高いところの格子戸の向こうで、虫が鳴いた。ぬるい隙間風とかすかに残る宴の残滓ざんし。呼吸の音。鼓動の音。両の手首に嵌められた木の拘束具は、鎖でベットの支柱に繋がれたままだ。

 ああ、やめろ。

 考えるな。

 真面目になるな。

 もう、逃げられないんだから。

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