お嬢様とナメクジ
和史
お嬢様とナメクジ
「わたくしの頭の中には、カタツムリが住んでいるの」
深夜、電話口から聞こえてきたのは奇妙なセリフだった。
「……うずまき管のことでございましょうか?」
執事は一呼吸おいたものの、慌てた様子もなく問い返した。
「違うわ。殻があって、角のあるカタツムリのことよ。殻の無いナメクジではないの」
相手も当たり前のように話を続ける。
「それは……誠におめでとうございます」
執事は机の上に置いた銀食器を再び磨き始めた。
「だからきっと今ならバランス感覚は冴え冴えなのだと思うの」
「それはやはり三半規管……」
「だからこれから歩いてみようと思うの」
執事は再び手を止めると、分厚いカーテンのすき間から少しだけ外を確認した。きっと「歩く」とは単に地面であるはずがない。向かいに見える窓には明かりが灯り、人影が見える。念のためベランダや屋根に目をやるが、人影は見えなかった。
「お嬢様、それは得策とは思えません」
「あら、どうして?」
「ナメクジはカタツムリとは別ものだからでございます」
「それぐらい知っていてよ。それにナメクジの話はしていないわ」
お嬢様と呼ばれた少女は電話の向こうで少しだけふくれてみせる。
「カタツムリの殻の中には心臓も肺も肛門も詰まっているのだから。殻には何も詰まっていなくて、ドゥルンとむけると思っていたら大間違いだわ。殻を取ってしまえば内臓スプラッタの無残なカタツムリが残るだけでナメクジにはならなくてよ。ちなみにあたくしはナメクジではなくてよ」
やはりそうか、と心の中で呟いたあと、執事は今日の出来事を反芻する。迎えの車に乗るや、聞こえないほどの声で、自分はナメクジではない、と言ったのを執事は聞き漏らさなかった。
お仕えする
眉目秀麗、成績優秀にも関わらず、普段から不思議ちゃんで通っているお嬢様は、肝心なところが抜けている。その所為もあって、友人がほとんどいない。
というか、いない。
屋敷内でもまともに話ができるのは――相手をしてくれるのはこの執事ただ一人だけだった。
「いいえ、お嬢様はナメクジでございます」
その執事が酷いことをスパっと言い切る。電話の向こう側では元々大きな瞳が、より大きく見開かれた。彼は淡々と話し続けた。
「殻を無くし身軽になったナメクジでございます」
「……でもその分、敵からのダメージはクリーンヒットだわ」
「いいえ、それは両手ダラリ……つまりノーガード戦法と同じでございます」
「……無理があるわ、ジョー。ナメクジが弱いことに変わりはないわ」
「いいえ、お嬢様」
執事は気にせず続ける。
「どちらも
「退化したのに進化……」
電話口でお嬢様は繰り返した。
「そうです、殻を退化させ体内に取り込み、身軽になったのがナメクジ。重い邪魔な殻があるのでは早く狭いすき間に入れません。そしていまだ重い殻を背負い続けているのがカタツムリ。つまり、小さく身軽なナメクジに合った……お嬢様に合った、もしくはお嬢様にしかできないやり方というものがあるのです」
「わたくしにしかできない……」
「そう、平均台で体が右に傾く前に左に重心を置く、右足が落ちる前に左足を出す」
「それはナメクジではなくバジリ……」
「いいえ、殻を持たない身軽なお嬢様にしかできない『技』でございます」
「技……!」
「ただし」
有無を言わせず言葉をかぶせ気味につなぎ、ここが肝心と、執事はわざと言葉を区切った。
「この技は分析とイメージトレーニングが大半を占めますので、次の体育の時間まで絶え間なくトレーニングする必要がございます」
これもあながち間違いではなく、疑う事を知らないお嬢様にとっては、「思い込む」ということと「イメージする」ということは最大の武器になった。
元来おっとりとしているだけで、運動神経は人並みであることも執事は把握している。そう、ただおっとりとしているが故に、グループ対抗で平均台の上を走り抜けるとなると、もっと早くと
どちらかと言えば塀の上を疾走する猫などが体の中に宿ったとイメージする方が早く走れると思うのだが、そこは独特の思考回路。ナメクジから蝸牛管へといったのだろうと、あくまで執事はお嬢様に合わせた。
「運動能力という殻を捨て、体が軽く頭脳明晰、想像力無限大を手に入れられているお嬢様だからこそできるトレーニングでございます」
「わたくし……。わたくしにはわたくしにしかできない……わたくしが得意なトレーニング方法……。もうカタツムリに頼るのはやめだわ。今晩からさっそくイメージトレーニングをしなくては」
つまり本気で右足が落ちる前に左足を出す、というイメージトレーニングに励むことになった。
問題が解決し我に返ったのか、
「あら、大変、わたくしったら。とてつもない時間外労働を。この件は明日お父様に言って、ちゃんと手当をつけるようお願いしておくわ」
「いいえ、それには及びません。お嬢様付きになってから
「あら、そうなの? でもそれはそれ、今日は今日だわ」
なぜだかこういうところはきっちりしている。
「痛み入ります」
お嬢様らしいと、執事は自然と笑顔になる。
「ごきげんよう、そしておやすみなさい」
「お休みなさいませ、お嬢様」
受話器を置くと、執事は
お嬢様とナメクジ 和史 @-5c
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