第五章 ムーンナイト
それは繁華街からは隔絶された、静かな住宅街に有った。その駐車場には車は一台も停まっておらず、駐輪場に錆びて朽ちかけた自転車が一台、放置されているだけだ。そのハンドル部分に取り付けられた駕篭には、風雨にさらされてボロボロになったレジ袋の破片が絡み付き、風に揺らいでカサカサとした音を立てていた。
入り口には『開館中』のプレートがぶら下がっていたが、中に人影は見えない。開店休業中とはこのことなんだわ、と妙な言葉を思い出したカナリーは、クスリと笑って足を踏み入れた。
「あのぉ・・・ すみませーん」
館内には煌々とした照明が灯ってはいたが、返事は無かった。カナリーの声は幾重にも重なる本棚の森に吸収されて、反響することなく消えてゆく。もう一度 ──ただし、今度はもう少し大きな声で── 呼びかけようとした時、奥の方で微かに何かが動く気配を感じ、彼女は口をつぐんだ。
「どなたかいま・・・」
本棚の陰から、沢山の書籍を抱えた青年が現れた。青年は傍に有ったカートに抱えていた本の山を置くと、カナリーに向かって歩み寄る。そして受付用のカウンターの向こうに入ると、僅かばかりの笑みを湛えて静かに言った。
「いらっしゃいませ。どのような本をお探しですか?」
「オールから貴方のことを聞いてきたのよ、ムーンナイト」
青年は少し意外そうな顔をした。
「オールから? 彼のお友達なのですか?」
「友達という程ではないけれど・・・ 貴方に聞けば色々教えてくれるかもしれないと言われて」
ムーンナイトの目がキラリと光ったように見えた。
「ご用件をお聞きしましょう」
「あなたは色んなことを知っているんでしょ? オールがそう言っていたわ」
「それは彼の勘違いですね。図書館で働いているからって、何でも知っているわけではありませんよ。僕の仕事は、この図書館の何処にどんな情報が有るのかを検索するだけ。その中身までは関与していません」
「そうなの?」
「えぇ。そもそも本の中に書いてあるこは、その殆どを神が封印してしまいました。だから僕たちが気軽に読むことは出来ないものばかりなんです。もし貴方が、封印されたそれらの書物を読みたいとおっしゃるのであれば、特別な許可証が必要なんですが・・・ 失礼ですが、そんな物を持っているようにはお見受けできませんが」
「でも、もう神様なんていないんでしょ? だったら封印は解けているんじゃない?」
「そういうことですか・・・?」
ムーンナイトはカナリーの様子を見て、少し態度を変えたようだった。それは、カナリーのような存在が彼の前に出現することを予期していたからかもしれなかった。或いはそれを期待して待ち望んでいたのかもしれなかった。
「神様が居るのか居ないのか、僕には判りかねますね。確かにここ300年以上、僕を使って図書検索をした実績は有りませんが」
「でしょ? だからもう神様なんていないんだよ」
「だからと言って、封印が解けているということにはなりませんが」
「そりゃぁそうなんだけど・・・」ムーンナイトに指摘されて、カナリーは口ごもった。
凹んだり飛び上がったり。目まぐるしく上下するカナリーの素直な感情表現を見て、ムーンナイトは何だか嬉しくなった。でも、それは表情には表さず、あえてつっけんどんな態度をとって彼女の反応を楽しんでいる自分の悪戯心にも気付くのだった。
「じゃぁさ、神様が何処にいるか知らない?」
「知らないですね」
「んじゃぁ、それを知る方法は無い?」
「有りませんね」
「んじゃぁ、んじゃぁ・・・ それを知ってる誰かはいない!?」
「いな・・・ クックック・・・」
「???」
遂にムーンナイトが笑い出した。
「アーッハッハ。本当に君は楽しいよ、カナリー。こんな気分にしてくれたのは、君が初めてだ」
そう。それはムーンナイトにとっても初めての経験だった。300年以上この図書館に勤めていて、大声で笑ったのなんて。
「やっぱり君はそうなんだね、カナリー?」
いきなり笑われて、カナリーは膨れっ面だ。
「そうって何よ?」
「考えることを知っている」
「昔よく、オールとそんな話をしてたんだ。いつかきっと考えることのできる仲間が現れて、僕たちを解放してくれるんじゃないかって。300年かかって、やっと来てくれたんだね」
「私が解放するなんて、そんな・・・」
「そんなに重く捉えなくてもいいよ。何て言えばいいんだろう? 解放じゃなくて、導くでもなくて・・・ そうだ、希望だ! 希望を与えてくれるんだ!」
「やっぱり重いよ、希望だなんて・・・」
「クックック・・・ 君なら大丈夫さ、カナリー。だって君は考えたり悩んだりして、本当に必要なものを見つけ出すことが出来るんだから」
「でも貴方も神様の居場所は知らないんでしょ、ムーンナイト?」
「知らないな。でも彼らなら知ってるかも」
「彼らって?」
「駅前ターミナルにいる、タクシー運転手さ」
「タクシーですって?」
「彼らなら色んな所に行ったことが有る筈だから、何かを知ってるかもしれないよ」
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