Canary
大谷寺 光
プロローグ
都会の片隅。ジメジメした裏通り。ネオンのけばけばしい光も届かぬ、ビルとビルの隙間にそれは有った。行き交う人の姿は殆ど見られず、時折、ピザの宅配バイクが、青白い排煙を撒き散らしながら通り過ぎてゆくだけだ。そんな裏びれた一角に、一見すると見逃してしまいそうな錆びた鉄扉が、固く閉ざされたまま静かに眠っている。
まるで、室外機の唸り音が澱のように淀む街に、ジッと耳を傾けるかのように。
まるで、数ブロック彼方を走る車列から、大切な何かが聞こえてくるのを待っているかのように。
しかし、その日は違った。
明らかに何らかの目的を持ち、その錆びた鉄扉に近づいて来る人影が有ったのだ。スーツに身を包んだ3人が ──そのうちの2人は女のようだ── およそ15名ほどの機動隊を引き連れ、扉の前に集結した。
男が無線機に向かって話しかける。
「現着しました ─ ブツッ」
『20:31現着、了解。主催者側の拘束を第一目標として行動せよ。報告を待つ ─ ブツッ』
「了解。只今より踏み込みます ─ ブツッ」
そして男は引き連れていた者たちを振り返る。
「内偵では出口は二カ所。この表に面したドアが一か所と、裏の搬入口だ。どちらも地階から地上に続く階段のみ。手筈通り、まずA班が裏口から急襲する。残るB班はA班の突入後に踏み込め。既に会場には4名が潜入していて、出入り口付近にスタンバっている筈だ」
すると機動隊の一人が声を上げた。
「主任。もし踊る(激しく抵抗する)奴が現れたらどうします?」
「強硬手段に移るかどうかは、現場の状況を見て俺が判断する。その場合は、S弾(煙状催涙ガス弾)を使用した上で、我々は一旦引いて、炙り出されてくる奴らを一匹ずつ地上で確保。ゆっくり面帯(酸素マスク)を装着して、折を見て再突入だ。それまでは通常の対応を取れ。火器の使用は最終手段として、指示があるまで認めない。各自、無線に注意せよ」
機動隊員たちは黙って頷いた。そして男が右手で何かの合図を送ると、集団は瞬く間に二手に分かれ、夫々の持ち場へと静かに、ただし逆らうことなど許さぬといった威圧的な雰囲気を撒き散らしながら散っていった。
『B班、配置に付きました ─ ブツッ』
「了解。そこで待機せよ ─ ブツッ」
無線を通じて指示を返した男は、ゆっくりと近付いた裏口のドアに耳を寄せ、内部に支障となりそうな気配が無いことを確認し、そっとドアノブを回す。そして隙間から中を覗き、今度は一気に全開にした。
ドアを押さえたまま、男が後続の機動隊に合図を送ると、厳つい装備で身を固めた男たちが、次々に内部へと吸い込まれてゆく。その一連の動作を粛々と沈黙のうちに遂行する様は、日頃の訓練による熟練度を思わせ、かえって空恐ろしさを感じさせた。
男は無線に向かって吠えた。
「B班、突入!」
男がA班の最後尾から現場に足を踏み入れた時には、既に会場は混乱の極みに達していた。泣き叫ぶ者、呆然とする者、中には頭を押さえて床にひれ伏している者もいる。ステージ上では、既に数人の男女が組み敷かれ、後ろ手に拘束帯を付けられたまま転がっていた。
「ステージ上の大道具、小道具、音楽用メディアは全て押収しろ! 特に台本や原作本は絶対に見逃すな!」
男は大声を張り上げる先を、今度は狼狽する観衆に向けた。
「警視庁、公安警察だ! 適正な手順を踏まぬこの違法集会は、民衆扇動罪が適用されるものと判断された! 主催者側の者は全て身柄を拘束するが、参加していただけの者は、事情聴取の上開放される。大人しく我々の指示に従っていれば、手荒な真似はせん!」
するとステージ上で取り押さえられていた演者の一人が、そのままの姿勢で声を上げた。
「何が違法集会だ! 俺たちは演劇をしていただけじゃないか!」
その声に振り向いた男は冷めきった視線を返しながら、ゆっくりとステージに近付いた。
「それが違法なんだと、何度言えば解かるんだ、お前たちは?」
男の名前はエイティ。冷酷で無慈悲な男。社会風紀を乱す不穏な活動を取り締まり、国家転覆を企てる反乱分子を検挙するGメンだ。そういった悪の芽は、小さなうちに摘み取らねばならない。決して花咲かせてはならないのだ。どんなに巨大で堅牢なダムだって、崩落の最初はごく小さなひびから始まったはずなのだから。
そんな反社会的な組織を叩き潰すことこそ正義なのだ。そう信じて生きてきた。
それが彼の人生哲学だった。
その日の任務を終えたエイティは、自宅のある集合住宅の階段を上っていた。エレベーターを使ってもいいのだが、少しでも体を鍛えておきたいという思いで、地上7階まで階段を使うのが彼の日課である。今日のように、大人しくお縄を頂戴する連中ばかりとは限らない。いつぞやなどは、蜘蛛の子を散らすように逃亡を図った反乱分子を追って、大捕りものになったことも有る。やはり日頃からの体調管理を怠ってはならないのだ。
弾む息を抑え込みながら、エイティは自宅のドアの前に立った。腕時計を確認すると、昨日より3秒ほど速い到着だ。彼が満足げな笑みを溢しつつ、ポケットから鍵を取り出そうとした時、
最初は何か判らなかった。いや、判らないと言うよりもむしろ、全く予期していなかったために彼の脳はその意味を理解できず、ただの雑音として締め出したのだろう。しかし、彼の頭のどこかに巣くうGメンとしての本能が、警告インジケーターを真っ赤に染め上げたのだった。
「歌!!!?」
歌声だ。微かに聞こえるそれはエイティの鼓膜を優しく震わせ、背筋をゾクゾクさせるような旋律を奏でた。彼は本能的に腰をかがめ、鋭い視線を辺りに泳がせる。しかし、風がそよぐ程にしか聞こえてこない歌声は、その発信源を明確にはしてくれない。だが、上がっていた息は徐々に平静さを取り戻し、己の呼吸音に紛れていた歌声の輪郭が徐々に明瞭になってきている。
何処だ!? 向かいのビルか? それとも別のフロア?
そしてエイティは、その両目を大きく見開いた。まさかっ!
彼は握り込んでいた鍵をドアに差し込み、乱暴に解錠する。そして玄関に身体を素早く滑り込ませると、すかさず後ろ手にドアを閉めた。室内の音が外部に漏れないように。
間違い無い! 歌声は俺の家から聞こえてくる!
ズカズカと室内に上がり込むと、リビングに通じるドアをバンッと開ける。そこで彼が目にしたものは、生後八か月の息子をあやしながら、子守唄を歌う妻の姿だったのだ。
凄まじい形相で立つ夫の姿を認めた彼女は、「ヒッ」と声にならない息を漏らして固まった。二人の間に淀む沈黙を先に破ったのはエイティだ。
「何をやっている!?」
「あ、あなた・・・」
「何をやっていると聞いてるんだ! 歌うことがどれ程の重罪か判っているのか!?」
「ご、ごめんなさい・・・ つ、つい・・・」
「こんなことが知れたら、どうなると思う!? 俺もお前も、その子だって牢屋にぶち込まれるんだぞっ!」
「でも・・・」
「いい加減にしろっ!」
しかしエイティは、頭ごなしに妻を叱りつけながらも、心にふと湧いた不思議な感覚の虜となっていた。子守唄を歌う妻の姿を見て、こんなにも美しいものがこの世に有ったのかと思ってしまったのだ。歌う妻もスヤスヤと寝息を立てる息子も、彼が見たことも無い荘厳な美を纏っていた。彼女が口ずさんでいた子守唄は深くエイティの心に染み渡り、揺り籠のような心地良い振幅で彼を揺らし続けてすらいた。
シクシクと泣き崩れる妻を見下ろしながら、彼は何かが崩れ始めたような錯覚にとらわれるのであった。あれほど揺るぎ無いと信じていた筈のものへの不信。
俺は今迄、何を取り締まって来たのだろう?
そんな気持ちに取り付かれてしまった自分を発見した彼は、自身をどう処したらよいのか判らず、ただ茫然と立ち竦んだ。
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