第5話 新しい母さん
僕らは父のいる場所へと車を走らせていた。
相変わらず渉さんが運転で、助手席は光さんだ。龍さんと緋月様の間に僕は座っていた。龍さんが乗っていると、体格がいいので少し狭い。
僕は遠くを見つめている緋月様に、ずっと思っていた疑問を投げかけた。
「緋月様」
「なに?」
「いえ……あの、何故僕なんかの為に、こんなに手を尽くしてくれるのですか?」
僕がそう切り出すと緋月様は僕の方を見た。紅い瞳が僕をとらえる。
「あぁ、そのことね。今日、私が君に『私の元で働いてほしい』って言ったのは、君が他の人とは違う特別な存在だからなんだけど、そこは等価交換だと思うからさ。だから君に手を尽くすってこと」
他の人とは違う特別な存在? 僕が? 何もかもが平凡な僕なんかが?
なにがどう僕が特別なのか全く想像できなかった。
僕は別に特別な人生を送ってきたわけじゃない。ごくごく平凡な人生を送ってきた。
子供区01では成績も普通だったし、目立った問題もなければこれといって突起するべき優秀な点もない子供だった。
「特別とは、どういうことでしょうか……?」
緋月様は車の窓に肘をかけて、頬杖をつきながら外を見ていた。
「まぁ……簡単に言うとね。君は悪魔細胞の『完全適合者』のようなんだ。君が入院しているときに、血液を勝手に採取させてもらって、試験して発覚した」
「完全適合者……ですか?」
「そう。だからって君を私と同じ化け物にする気はない。でも悪魔細胞の研究をずっと行っているから、その実験に協力してほしいんだ。もちろん報酬は支払うし、赤紙の一員になるわけだからそれなりの覚悟は必要だけどね」
完全適合者といきなり言われても、突飛な話で僕にはついて行けなかった。
「そんなひ弱そうなヤツに赤紙の仕事が出来んのかよ。しかも緋月の下なんて激務だろ」
光さんは小ばかにしたように僕に聞こえるように言う。
「んー、まぁ荒っぽいことじゃなくて、情報収集みたいなことをしてほしいかな。荒っぽいの担当は足りているからね。ねぇ? レイ」
「お前が言うな」
光さんは悪態をつきながら、けだるげにしていた。
「まぁ、君がどうしても嫌だというなら、無理にとは言わないよ。別に今回のも仕事の一貫だし、君が赤紙に入るという事を断っても、私は自分の仕事を全うするだけだから。ものすごく残念ではあるけどね」
緋月様は優しげな顔をして僕の方を見てきた。それに悪意を感じなかった。
僕は、赤紙に入るということがどういうことなのか、考えた。
完全適合者……実験……覚悟……
命を捨てようとしていた僕には想像もできない選択肢の数々だった。
◆◆◆
金色区に限りなく近い1区に来た。
この辺りはそれなりの財を持っていないと住めない場所だ。
街中ですら豪奢な装飾が施されており、まるで異世界に来たかのような感覚に陥る。その壁の向こうの金色区は更にここよりも豪奢な所で、見学で1度だけ行ったことがあるが、まるで同じ人間が住んでいるとは思えないほどの優美さだった。
僕はこの辺りに父が住んでいることを想像したら憎しみがこみあげてきた。
母が懸命に働いて命を賭してまで作ったお金で父はこんなところに住んでいるのかと。
「このビルだね」
緋月様は携帯通信端末をポケットにしまった。
そして、そのビルから一人の初老の男性が出てくるのが見えた。
「これはこれは緋月様、お会いできて光栄です」
「こちらこそ。迷惑をかけて悪いね」
緋月様は鍵らしきものをその男から受け取った。管理人なのだろうか。鍵を受け取った緋月様たちはそのビルを進んでいく。
複雑な作りのそのビルは、内側の緩やかに上り坂で、その合間にいくつもの部屋があった。
中心部にエレベーターがあったが、点検中らしく僕らは緋月様の後ろをついて父の部屋へ向かった。
緋月様がどういう人なのか気になっていた僕は、僕の隣を歩く渉さんに小声で話しかけた。
「あの……渉さん」
「はい、なんでしょうか?」
少し冷たい声だった。でもけして棘がある訳ではない。
「緋月様は……どのような方なんですか?」
渉さんはその質問に対して、
「そうですね……誰よりもお優しい方です。裏表などありません。見たままです。しかし、仕事となれば厳しい一面ももちろんあります」
緋月様は光さんと龍さんと話しながら前を歩いていた。
何の話をしているかは聞き取れなかったけれど、楽しそうに笑いながら話をしているようだ。
「皆、はじめは怖がったり、奇異の目で見たりします。当然と言えば当然ですが、緋月様はあの強大な力を自分の私欲のために使いません。いつも誰かの為になるようにとしています。でなければ……あの方のお力なら略奪など容易く、悪の道に落ちているでしょう」
確かにこの国の歴史において、200年ほど前から緋月様は貢献してきている。
だからこそ今の地位にいてこんなことをしているのだろう。
とても200年も生きているようには見えないけれど……。
「現国王も緋月様ととても親しいのはご存知でしょう。前国王が幼少期の頃より、更に前から緋月様は赤紙として貢献し続けているのです。一辺のみの印象では推し量れない程、緋月様は色々なことを考えておられるのです」
そういう渉さんは緋月様とどのくらいの付き合いなんだろうか。
「渉さんは緋月様と、どのくらいのお付き合いになるんですか?」
「私は3年程度です。光は2年程度ですね。正直、あんな粗暴な男を傍に置かれることに対しては私は未だに反対ですが、光の事をおもんばかってのことでしょう。私も光の事情は分かっていますので、緋月様のご判断に相違はないと思います」
――光さんの事情? 恋人だからとかそういうことではないのだろうか
突然緋月様がチャラチャラとした若い男を側近にすると言い出したときは、相当赤紙内でももめたと聞いたが……。
「もし君が私たちと働くことになれば、いずれ解ります。とにかく、緋月様は非情にならなければならないときはあれど、お優しい方ですよ」
渉さんはそう言って足早に緋月様を追いかけていった。
僕が渉さんに言われたことを考えているうちに目的の階層へとたどり着く。
「えー……908号室……ここだね」
緋月様は
渉さんと光さん、龍さんも慣れているのか後に続いて入って行った。
僕は緊張で手に汗を握っていた。おずおずと一番後ろから入る。
中は小奇麗で、豪華そうな装飾が施されているのが薄明かりに照らされて見えた。奥の部屋は電気がついている。
そして中から女の声が聞こえたと同時に、その声がけたたましい悲鳴となったのを聞いた。
「赤紙でーす。こんにちはー」
緋月様が気の抜けたような声で挨拶すると、女は続けて話す。
声だけで姿は見えない。
「緋月様……どうしてここに……?」
若い声だ。甲高く、そして明らかに動揺している声。
「亮太君に用事があってきたんだけど、いる?」
「亮太が何かしたんですか!?」
「まぁ、座りなよとりあえず」
緋月様が女に座るように促している声が聞こえた。
僕は光さんに乱暴に腕を掴まれて、その女の前に押し出された。
僕は目を見張った。
染めている金色の髪、下着姿の女、化粧が濃く、素の顔は解らない。
母とは正反対の女がそこにいた。
「君の尋問もしなければならないんだよね」
緋月様が自分の髪の毛をくるくるといじりながら、興味なさそうにそう言う。
「あたし!? あたしは何もしてません!」
「あぁそう? じゃあ亮太が既婚者だったってことは知っていた?」
「し……知らなかったです」
緋月様が右手で女の肩を乱暴につかんだ。女は小さく悲鳴をあげて緋月様の顔を怯えながら見ている。
「念のため言っておくけど、裏は取ってあるから。嘘ついたらすぐわかるけど一応訊問してるってことは頭に入れておいた方がいいよ?」
「ひっ……知っ……てました」
「それで、どういう関係なの?」
「それは…………」
女が口ごもり、応えなくなったと同時に緋月様が掴んでいる肩を押えて痛がり出した。
「痛い! 痛いです!」
「解る? 尋問しているんだよね。答えないっていう選択はないってこと。わかる?」
「こ、恋人関係です!」
「それがいけないことだってことは、解っていたよね?」
「…………はい」
僕は涙が出てきた。
怒りか? 憎しみか? 悲しみか?
僕の視界は涙で歪んだ。
「随分いいところに住んでいるけど、仕事は何をしているの?」
「夜のお店……です……」
「違法なところじゃないよね?
「…………」
ボキッ。
聞いたことのある音が聞こえた。
それも今日だ。
これは骨が折れるときの音。アダムが人間を食べていた時にしていた骨の折れる音と同じ音だった。
「キャアアアアアアアアアアアアッ!!」
「わ子、この子からお店の場所吐かせて。あと一斉摘発しておいて。それと亮太君がいつ帰ってくるかも吐かせて」
「解かりました」
女は悲鳴を上げ、肩を押さえて泣きながら謝っていた。
それを渉さんが別の部屋へ連れて行った。防音性が高く、隣の部屋の声などはあまり聞こえなかった。
それも、がなり散らしているような声がかすかに聞こえるだけだ。
「いつもお通りと言えばいいのか……過激でいらっしゃいますね。緋月様」
龍さんが緋月様にいぶかしげな顔をして問いかける。
「第三者委員会としては駄目だったかな?」
「いえ、そう簡単に骨を片手で折れるのは緋月様だけですので、改めて独特の粗っぽさだと思いまして」
「おいヒゲ。骨折られただけで済んでるからまだいい方だぜ。こいつ、キレると何するかわかんねぇからな」
光さんは自慢げにも聞こえる口ぶりで緋月様のことをそう語る。
「レイ、人聞きの悪いこと言わないでよ。キチンと録画データを毎回提出しているけど、毎回妥当な判断だと判断されているでしょ。それに、キレたことなんてないじゃん」
「てめぇが怖くてゲンバツ処理ができないだけじゃねぇのか?」
「酷いこと言うね……レイは本当に」
緋月様は呆れたように苦笑いをした。
確かに、緋月様をどうこうできる人間は存在しない。檻も、拘束も意味をなさない。
まして悪魔のアダムと一緒にいるんだ。
処罰しようなんて恐ろしくてできるはずがない。たまたま緋月様が善であっただけだ。
これが悪だったらと思うと身の毛もよだつ悪夢だっただろう。
「大丈夫だよ、折れてもすぐに治るような折り方したし、あぁいうのには痛みが一番効くからね」
緋月様がどうでもよさそうに話をしていると、ガチャリ……玄関の方で音がした。
僕は緊張で身がこわばる。嫌な汗も噴き出てくる。
「
聞きなれた父さんの声。
そして、血色のいい父さんの顔。僕らを見て驚きを隠せない顔。
父さんは僕よりも光さんや緋月様を見ていた。顔から血の気が引いていくのが解った。
「赤紙の最高権力者が……な……なんのようだ……」
緋月様が立ち上がり、父さんの前に行く。
「君を連行しにきたんだよ。亮太君。君の恋人も連行する」
「亜紀に何かしたら許さねぇからな!」
僕は、僕を意識もしない父さんに絶望した。それに、亜紀というあの女性のことばかり気にしている。
僕は胸が苦しくなった。
――なんで……なんでだよ……
「もう『何か』しちまったけどな」
「何をした!?」
父さんは光さんの挑発に乗り、光さんに掴みかかろうとした。
しかし光さんは父さんの手をいとも簡単にいなし、転ばせた。
「そっちの部屋にいるから、見てきたら?」
父さんは一目散に女性が連れていかれた部屋に行った。
僕のことなんて、まるで見えていないかのようだった。
「亜紀! 亜紀無事か!?」
扉を勢いよく開けて、亜紀という女性を見た。
泣きながら、彼女はすでに腫れ始めている肩を抑えている。
「何をされたんだ、亜紀!?」
「亮太……痛いよ……亮太……」
父はその場にいた渉さんに殴りかかった。
しかし、渉さんはその拳を受け止めて捻りあげて組み伏せた。
「お前らみたいな……血も涙もない連中に好き勝手されてたまるか! 離せ!」
「血も涙もない連中だなんて、君には言われたくないね。自分の息子が見えていないわけでもないのに、どうして声すらかけないの? 見ようとすらしないね」
緋月様にそういわれて、父さんはようやく僕を見た。
それは、憎しみを込めた怒りに震える顔でだった。
僕は言いようのない感情で胸がいっぱいになる。
「お前が呼んだのか……お前が!」
「久々の息子との再会にそんな言葉、ないんじゃない?」
「うるさい! 俺たちが何をしたっていうんだ!? 第三者委員会に訴えるぞ!?」
「私が第三者委員会の者ですが。ここまでの不当性はございません」
もう僕には、会話が頭に入ってこなくて解らなかった。
この状況に、なんて感情を自分でも感じているのかわからない。
「君の罪状は『間接的殺人罪』と『不倫罪』と、さっきの『暴行未遂』、『公務執行妨害』ってところかな。他にも細かい余罪がたくさんあるみたいだけど。ひとまずは7区へ移動が妥当と考えているけど、智春君の意見によっては軽減されたり、もっと悪いことになるよ」
父さんはまた僕を見た。
やはり憎しみの目だ。
どうして……そんな目で僕を見るのか、僕は考えたくもなかった。
「智春、育ててやった恩を忘れたのか! 早くこいつらに帰ってもらえ!」
父さんがそう言いながら暴れだした。
渉さんが抑えるが、それを無理やり抜け出そうとしている。それでもしっかりと渉さんは父さんを押さえつけていた。
「暴れると腕の骨、折るよ」
「やれるものならやってみろ!」
緋月様が渉さんに目配せして、父さんを解放した。
それと同時に緋月様に殴りかかっていく。
緋月様は父さんの腕を掴み、軽々とその腕を折った。またあの骨の折れる音が聞こえてきた。そして叫び声。
父さんがうずくまっている中、緋月様は僕を見た。
「どう? 君の中で答えは出た? 君が望むか、望まないかだよ」
銀色の長い髪をかき上げながら、緋月様は僕にそう言った。父さんは僕のところまで這いずってきて僕を見上げる。
「智春……頼むよ、父さんのこと許してくれるよな?」
さっきまで強気な態度をとっていた父が、僕の脚元に縋りついている。腕を折られて明らかに自分の分が悪いと感じたのだろうか。
「智春、父さんが悪かったよ」
父が折れた腕を庇いながらも、僕のズボンを掴んで必死に緋月様を止めるよう、必死で目で訴えかけてくる。
緋月様は退屈そうに窓の外を見ていた。
僕はそんな父さんを見て、昔の優しかった父さんとの思い出を思い出していた。
母さんに怒られていた時に助けてくれた父さん。
テストでいい点数を取った時に褒めてくれた父さん。
家族一緒に出掛けた思い出。楽しかった思い出。
「父さん、家に帰ってきてくれるの……?」
「あぁ、そうだな。お前たちのことを放っておいて悪かった」
あぁ、父さんはやっぱり優しい父さんだったんだ。
もう腕も折られているし、十分反省してくれているんだ。僕は父さんを許そうと口を開いた。その直後の言葉に僕は硬直した。
「なぁ、新しい母さんもいるし、今度こそ幸せな家庭を築こう」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中は頭が真っ白になった。
――新しい……母さん……?
「新しい母さんって、なに……?」
「ほら、挨拶がまだだったな。父さんの交際している相手の亜紀だ」
父さんは部屋の隅でジタバタ恐れおののいて、悲鳴を上げている女の方を見た。
「だから、な? 智春。緋月様を説得してくれよ……」
僕は緋月様の方を見た。彼女は僕の目をその赤い眼で見つめ返してきた。
そして首を横に振る。光さんも、渉さんも呆れたような顔をして僕から目を離した。
「……るな……」
「え?」
「ふざけるな!!」
僕は父を思い切り殴った。
◆◆◆
手がジンジンしている。
自分の血なのか、父さんの血なのか解らない。
僕はマンションの外の生垣のレンガの上に座っていた。そして、管理人の人と話し終わった緋月様が僕の前に立つ。
緋月様がいるなんて、どこから聞きつけたのか大勢の人が緋月様を見るために集まってきていた。
無邪気に手を振る女性もいれば、声をかけようと躊躇っている男性もいたし、その近辺には何人かの人だかりができていた。
「温厚な君も、キレたりするんだね。ふふ」
緋月様は少しだけ笑いながら、座っている僕にそう言ってきた。
結局父さんは顔面と腕の骨折を。亜紀って人も肩の部分の骨を折られていた。
そして父さんは7区へ。亜紀さんは4区への移動となり、移動の手続きに光さんと渉さんは双方を連れていった。
「緋月様、智春様の暴行の件はよろしいのですか?」
龍さんがその人だかりを払い、僕と緋月様に話しかけてきた。心配そうに僕の方を見ている。
「あぁ、当事者の喧嘩は別にいいよ」
僕は放心状態になっていた。
父さんと彩さんは、渉さんと光さんがそれぞれ手続きに連れていった。
弟も、父さんも、そして母さんも……僕の家族はもうバラバラになってしまったんだ。
「これで一件落着したわけだけど、龍君、今回のことで異議申し立てがあったら赤紙に申請しておいて」
「んん……そうですね。骨を折るのは少々やりすぎであるとは感じましたが、暴行を加えてきた彼にも問題はありますし、亜紀さんの方も黙秘を続けてということで、致し方なかったと解釈します」
「別にいいんだよ、龍君。君が不適切だと思ったら申請しても。裁判するだけだし」
「いえいえ、滅相もございません。緋月様とはこれで数回目になりますが、少し過激なだけで真の悪というものの方向性は同じくしていると感じております」
龍さんは少しの談笑の末に、緋月様に深く頭を下げて去って行った。
それを僕がうつろな目で見送っていると、緋月様は僕の目を見て真剣な顔をした。
「で、だ。君はこれからどうする? 私のところで働くか、働かないか決まった? 別に、やりたくないなら無理強いはしないよ。見ての通り過激だしね」
僕はこれからのことを考えた。『これからのこと』なんて、僕には想像もできなかった。
だから僕は自殺しようとした。
こんな世界、嫌だったから。
それでも、僕のことを求めてくれる人がいるなら、その人のために生きることも悪くはないと思っていた。
――僕のように苦しんでいる人の手助けが少しでも僕にでもできたら……
それに緋月様は恐ろしいと噂で耳にする話よりも、光さんとふざけたりするそのギャップに驚かされた。
色々な噂を耳にするが、目の前にいる彼女は僕にとって少なくとも悪い人には見えない。確かに乱暴なところがあるのは否定できないが。
明らかに人間とは異なる部分はあるけれど、母さんが緋月様のことを優しい人だと言っていた。母さんのこと、覚えていたりするのだろうか。
「あの……母さんが緋月様と話したことがあるって聞きました。何を話されたんですか?」
「佳苗と?」
といっても、もう随分前だしさすがに覚えていないか。
「あぁ、あのときか。1区でネズミが大量発生して手に負えないと言われて、暫く私が1区に来ていた時に偶然話をしたんだけどね、できるだけネズミを殺したくなかったからかなり苦戦していたんだよ。佳苗も必死にネズミ焚きつけてくれたね」
まさか覚えていると思わず、僕は驚いた。
「なんでなるべく殺したくなかったんですか? 害獣と言えばその通りかと思いますが……」
「生きている命に変わりはないからね。それに具体的な実害と言っても、別にネズミは悪意がある訳じゃないし。0区に極力逃がしてあげたんだけど、その時に貢献した人たちの中に佳苗がいてね。智春君と同じ質問を私にしてきたよ。そのとき私は同じこと答えた。佳苗は納得してくれたようだったな」
母さんと同じ質問をしていると言われたとき、目頭が熱くなった。
それと同時に、母さんの言っていた通りの優しい人だってことが確信に変わった。
「もっと早く……というか、私が気づけばこうはならなかったのに。いつも後手に回ってしまって……遺族の人には悪いと思っているんだけど。私が謝っても亡くなった人はかえってこないから、困るよね」
緋月様は困ったように笑った。
その顔は母さんがよくしていた顔だった。緋月様と母さんの面影が重なる。僕はまた涙が出てきた。
――母さん、僕、緋月様と話せたよ。母さんの言った通り優しい人だった……
僕が緋月様の下で働くことになったら、母さんは喜んでくれるかな。
僕は緋月様の顔を真剣な眼差しで見つめた。
「一度捨てようとした命ですが、緋月様に助けていただきました。だから、緋月様の元で働きたいです。僕にもできることがあるなら」
「え、本当? ありがとう!」
緋月様は無邪気に笑った。
緋月様にお礼を言われる日が来るなんて思ってもいなかった。
「じゃあ、荷物まとめ終わったら赤紙の本部に来てくれない? これ、渡しておくから」
緋月様は僕に白い二つ折りになっている紙を渡してきた。何の変哲もない白い紙だ。
何も書いていない。
「なんですか?」
「それ、入り口の人間に渡してくれたらいいから。くれぐれも無くしたら駄目だよ。じゃあね、智春君」
緋月様は大きな黒い翼を広げ、羽ばたいた。
その羽ばたきに合わせて巻き起こる風に僕は目を細めた。そして羽ばたく音が小さくなっていくことだけは鮮明にわかる。
僕が目を開けると、緋月様はもうはるか上空に飛び去って行っていた。
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