先輩①

「行ってきまーす……」


 僕は誰もいない部屋に向かって独り言のように宣言すると、玄関のドアに鍵を掛けて重い足取りで大学へと向かう。

 こよみさんは、今日は朝から司令本部でミーティングがあるとかで、すでに出掛けている。


「はあ……憂鬱だ……」


 一緒に住むようになってから、こよみさんに叱られて大学にも復帰したけど、できればアリスとは遭いたくないなあ……。


 でも、同じ学部の上に、ゼミも一緒だし……。


「でも、もしここでサボったのがバレたら……」


 絶対こよみさん怒るだろうなあ……。


「仕方ない、覚悟を決めるか……」


 僕は陰鬱な心を無理やり奮い立たせるために両頬を叩くと、大学へと再び歩を進めた。


 ◇


 ――キーンコーン。


 一コマ目の授業が終わり、次の講義を受けるため、教室を移動する。


 教室に着き、授業のための教科書と、先日図書館で借りた本……『ヒトと動物の遺伝子組み換えによるキメラ・ハイブリッドについての考察』を取り出す。


 この本との出逢いは、高校二年の時。


 あの頃、世界的な賞を取った科学者が発表した研究……それが、動物の細胞でヒトの細胞を作り、それを医療に役立たせる、といったものだった。


 テレビでそのニュースを見た僕は少し興味を持って、図書館でその分野の本を読んでみようと思ったんだけど、その時、たまたま目に着いたのがこの本だった。


 僕が生まれた年に出版されたもので、著者はその世界的な賞を取った人のものでなく、別の人……名前は“反町一二三”という人なんだけど、その内容がすごかった。


 倫理的な問題はあるものの、決して歪んだ思想に基づいたものではなく、むしろヒトと動物の細胞を繋ぐための新たな細胞の可能性だったり、医療技術への応用など、よく読み込めば社会や医療への発展を念頭においたものとなっていた。


 僕はこの本を手元に置いておきたくて、先生にも頼み込んで、中古でこの本を譲ってもらったのはいい思い出だ。


 そして、僕はこの本がきっかけで、生物工学という分野に興味を持ち、この大学に入ったんだ。


 この著者の他の本も読んでみたいんだけど、残念ながらこの本しか出してないみたいなんだよなあ……。


 などと考えていると。


「ええと……君が“上代耕太”くんでいいのかな?」


 突然、隣から声を掛けられた。


 見ると、ウェーブのかかったボブカットの女性で、左目下にある泣きぼくろが印象的な、ものすごく綺麗な人だった。


 僕と同じ一七○センチはありそうな身長に、メリハリのついた身体つきをしており、ボディラインに合わせたサマーニットとデニムパンツが、そのスタイルをさらに際立たせていた。

 この人がヴレイピンクの中の人だって言われたら、十人が十人信じるだろう。


「え、ええと……失礼ですが……?」

「あ、ゴメンゴメン。私は“紫村由宇”、生物学部の四年生よ」


 そう言って、彼女……紫村先輩は右手を差し出してきた。


「は、はあ……」


 僕は困惑しながらも、差し出された手をつかみ、握手を交わす。


「ええと、それで紫村先輩はどういった……」

「ん? あ、そうだったね。実は本町先生から面白い学生がいるからって教えてもらったの」

「本町先生の?」

「そう。それで、どんな子かなあ、と思って見に来たってわけ」

「はあ、そうですか……」


 うーん、僕と同じ、本町先生の生徒なのかなあ?


「あ、そうか。どうも私は説明を省いちゃう癖があって、ゴメンね? 私は本町先生の教え子の一人で、来年から院生になって本町先生の研究室に入る予定なの」


 多分、僕は怪訝な表情をしていたんだろう。

 紫村先輩は慌てて補足して説明してくれた。


「ああ、そうなんですね。ようやく理解しました」

「うんうん……あれ? その本……」


 気になったのか、先輩が机に置いてある本を見て尋ねる。


「あ、これですか? 高校の時に見つけた本で、それ以来、お守り代わりみたいに持ち歩いているものなんですけど……」

「へえー、どうだった?」


 先輩は興味津々な様子で、瞳をキラキラさせて聞いてきた。


「すごく面白いですよ。特に、ヒトと動物の遺伝子を繋ぐ細胞の存在について、その可能性と発展性についての考察に関する部分が非常に興味があります」

「そう! いやあ、確かに先生の言う通り、見どころがあるわね! どう? せっかくだし授業を抜けてその本について語り合わない?」

「ええ!?」


 僕が本を褒めると、なぜか先輩は嬉しそうにして授業をサボるよう提案してくるけど、アリスとのことがあって講義の出席日数が足らないし、さすがになあ……。


 その時。


「へえ……耕太のくせに、もう次の女に手を出してるんだ?」


 一番聞きたくない声、一番遭いたくない奴が絡んできた。


「…………………………」

「あれ? ダンマリ? ねえ、なんとか言ったらどうなの?」


 アリスは口の端を吊り上げながら、蔑むような、馬鹿にするような視線で僕を見る。


「? ねえ上代くん、この女、誰?」

「あ、ええと……」

「オイオイ、こんなパッとしない奴が君の彼氏だったワケ?」


 アリスの背後から、金髪色黒のチャラい男がヘラヘラしながら現れる。


 いくら僕でも、コイツは知っている。


 コイツの名は“草野一馬”。

 うちの大学の四年生にしてサッカー部のエース。

 確か、年代別の代表にも選ばれてて、Fリーグからスカウトが来てるんだっけ。


 そんな奴が、アリスと一緒にいるのは一体……?


「ウフフ……ニブい耕太でも、彼は知ってるでしょ? 私、彼と付き合うことにしたの」


 そう言って、アリスは草野一馬に蕩けるような表情を見せる。

 草野一馬もまんざらではないようで、アリスに微笑み返した。


 ……要は、僕への当てつけってことか。


「……ふうん。ま、私達には関係ないから。上代くん、早く行こうよ」


 すると、紫村先輩は興味なさそうに二人を一瞥した後、僕の腕を引っ張ってせがんだ。

 いや、僕、まだ行くって……。


「……なあアリス、なんかコイツ、スゲエムカつくんだけど?」

「でしょ?」


 草野一馬の言葉にアリスは嬉しそうに反応するけど、一方の草野一馬自身は、僕を睨みつける。

 なんで!?


「……ププ」


 その時、紫村先輩が吹き出した。

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