第15話 猶予期間を与える
「なぜだ」
その声色に、ぞわ、と全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。
気分を害したのではないか、と思ったからだ。
何せ気まぐれな魔法使いなのだ。彼の気分ひとつでこの世界は跡形もなくなくなってしまうのである。彼にとって面白くない世界なら、存在する価値なんてないのだ。おれ達がどんなにあがこうとも、関係ない。世界のすべてはこの魔法使いの気分次第だ。
ごしごしと涙を拭って、魔法使いを見る。いま彼は、どんな顔をしているのだろう。怒っているのか、呆れているのか、ここから挽回するチャンスはあるだろうか。
が。
魔法使いは、何やら複雑そうな顔をしていた。本当に、理解しがたいものを見ている、といった表情で、しきりに首を傾げている。
「なぜだ、雲の方が好きなのではなかったのか。てっきり泣き叫んで、そいつを突き飛ばしたりするものかと思ったのに」
「お前にとって好ましい姿ではないはずだぞ。そこのやつなんて、毎日のように化け物と罵っていたではないか」
「そこのやつだけではない。街に住む人間も皆、化け物と言ってたのに」
ぶつぶつとそう言いながら、フリィの下まぶたを無遠慮に引っ張って眼球をまじまじと見つめている。
「もしかしてこれが嗜好というやつなのか? お前にとってはこの顔の方が好ましかったのか?」
「何だ、それなら本当にただの『礼』になってしまったな」
その言葉で気づく。彼は本当に『礼をする』つもりなどなかったのだ。やはり気まぐれに俺達を翻弄して欲を満たそうとしたのだろう。そう思い至ってゾッとする。
魔法使いへの畏怖でか、為すがままになっているフリィは、その状態で「私は」と口を開いた。すると、彼の方でも聞く体勢になったのか、彼女の下まぶたから手を離し、ふむ、と大きく頷いた。
「雲のオイでも、つぎはぎだらけのオイでも良いんです」
「なぜ」
「私が好きになったのは、彼自身ですから」
「それは雲の、だろう?」
「雲だからというわけではありません。見た目なんて、どうでも良かったんです」
「だがお前は、時計の人間と酒瓶の人間から逃げて来たではないか」
見た目がどうでも良いのなら、そこに留まれば良かっただろう?
魔法使いはそう言って首を傾げた。
「もし、出会った時に見たのがいまの姿だったら、怖がって逃げたかもしれません」
フリィがおれをちらりと見て、観念したように言う。それはそうだろうな。そう思ったから、特段ショックでもなかった。それはそうだ。だっておれは、化け物なのだ。魔法使いの方も「やはりそうだろう」と何だか満足気である。
「だけど、一緒に暮らしているうちに、私は、彼の優しさに触れました。彼の身体につぎはぎがあることは知っていましたから、きっと本当の顔は彼の言うように酷いことになっているのだろうと想像もしました。けれど、いまこうして本当の顔を見ても、ちっとも恐ろしくなんかありません。ただ、私が知ってしまったことで彼が傷ついているのが悲しいのです」
そう言って、おれの髪に触れる。艶なんてまるでない、パサついた髪だ。それでも昔よりは幾分かマシになった。櫛を通すようになったから。
「理解しがたいかもしれません。人間が皆こうであるとも限りませんし、こう思うのは私だけかもしれませんけど、私はどんな姿であっても彼のことが好きなんです。ですからどうか見逃してください。私達をこのまま放っておいてください」
祈るような声で、フリィは魔法使いに懇願した。何度も、どうか、と。
魔法使いは急激に興味を失ったようだった。つまらなそうな顔をして、ふーん、と一言。ただそれだけを発した。
「このまま帰るのは何だか癪だな。もう一興欲しい」
もう一興。
その言葉に、ぞくり、とする。
彼が求めるのは、例えば歌や踊りなどといった、そんなありきたりなものではないのだ。確かに人間達は彼を崇め讃えるために祭りと称してそんな捧げものをして来た。食べるかどうかもわからないのにご馳走を供え、歌い、踊り明かした。何らかの効果が、自分達にとって都合の良い効果があると信じて。だけど、恐らく彼には何一つ届いていなかった。そんなものでは、彼の退屈は埋められないのだ。こちら側の祈りも目論見もお構い無しに魔法使いは雨を降らせ、日照らせ、全てを覆い隠すほどの雪を落とし、花を芽吹かせた。全ては彼の気まぐれだ。
「な――、何をすれば」
どうにかお帰りいただくためには、何かをしなくてはならない。
彼を楽しませなくてはならないのだ。
そうだなぁ、と魔法使いは天井の方を見ながら顎を擦った。ふぅむ、としばらくの間考えていたが、やがて考えることそのものが億劫になったらしい。
「猶予期間だな」
「は、はい?」
「猶予期間をやろう。お前達はしばらく泳がせておくことにする。それで、ちょいちょい観察するから、せいぜい私を楽しませることだ」
「楽しませる、と言われても」
一体何をすれば良いのかがわからない。何が正解なのかなんて誰にもわからないのだ。
「お前達は割と意外性があって見ていて面白かったからな。好きに生きてみると良い。つまらなければまたその時にどうにかする」
そんなことを吐いて、やはり音もなくドアの方へと歩いていく。恐らく、ノブになんか触れずとも出ていけるはずなのに、彼はそれに触れようと手を伸ばした。そして「ほぉ」と少し驚いたような顔をした。金属の質感を物珍しそうに確かめて、「面白い」と呟き、そこだけ抉り取ってしまった。何が彼の琴線に触れるのかなんて、やはり人間には予想がつかない。
何の説明も、補足事項も、そしてもちろん挨拶も無しに魔法使いはその場から消えた。残ったのはおれ達と、ユータスだった球根のみ。
「二階の二人を保護して帰りましょう」
ドクドクと脈打っている球根から目を離せないでいるおれに、フリィがそう声を掛ける。あぁ、と短く返して、おれは立ち上がった。
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