第8話 逃げて来たフリィ

 それからどれくらい経っただろうか。

 体感としてはほんの数週間なんだが、採れた作物などから考えるに、どうやら数ヶ月は経っているらしい。だんだん温かくなってきて、もうすぐ庭にはあの黄色い花も咲くだろう。小さなつぼみを見つけたフリィはその日を心待ちにしているようだ。


 ニカとアルマは、あれからずっとこの屋敷にいる。


 ニカは畑仕事を手伝ったり、街へ行く時には荷物持ちを買って出てくれたりする。アルマはフリィと一緒に家事をしている。最近ではパンの焼き方も覚えたといって得意気だ。


 彼らの服もたくさん揃えた。

 そのついでにと、おれの服も少しだけ増えた。フリィには新しいエプロンも買った。例のあの店でだ。ニカとアルマを連れて行くと、店主はぴょんと飛び上がっておれ達を歓迎し、店の奥から、「これは古着ですけど、きれいなものばかりですから」と箱一杯の子ども服を持って来たのだ。


「何です、お兄さん。こんな可愛いお子さんまでいらっしゃるんじゃないですか」


 ニカとアルマに次々と色んな服をあてがいながら、店主はそう言った。もちろん否定はした、おれの子どもではない、と。


 すると店主は、「ははぁ、引き取って育てておられるというわけですね」と言った。てっきり「どこでさらってきたんです」と言われると思っていたので驚いたものである。何せ、店に辿り着くまでに何度そう呼び止められたかわからない。


 正直にそう言うと、店主は何がおかしいのかアッハッハと腹を抱えて笑い出した。


「そりゃね、何も知らない人はそう思うかもしれませんがね、アタシにはわかりますよ。お兄さんは、そんな人じゃないって。それにね、お子さん達を見ればわかります。ほら」


 ほら、と言われてもわかるわけがない。首を傾げているとそれも店主のツボに入ったようで、尚もアッハッハと笑う。


「ずぅっとお兄さんばかり見てる。大好きなんですよ。むしろアタシみたいな知らない大人のところに連れて来られて不安なんでしょう。ね、足の先がお兄さんの方を向いているの、わかります? いつでもお兄さんの方に駆け出せるようにしてるんですよ。お子さん達にしてみればアタシの方が信用ならない大人なんですよ」


 言われてみれば、ニカもアルマもずっとおれから視線を外さない。往来を歩く時だって、ちらちらとおれの方を見てくるものだから、「ちゃんと前を見ろ、危ないぞ」と何度注意したことだろう。


「どんな事情があるのかなんてアタシにはわかりませんし、詮索する気もありませんけどね、だけど、素敵な家族に見えますよ、アタシにはね」


 そんなことを言われてしまうと、また胸がじわりとして、鼻の奥がつんとする。


 たぶんおれはいま、幸せなのだ。

 だけれども、その身に余る感情をどうしたらいいのかわからない。おれは『幸せ』なんて贅沢品を知らずにここまで来たのだ。それは屋敷の外にあるもので、暖炉の火よりも温かいもので、自分以外の人――動物の場合もあるらしいが――からもたらされるものなのだ。おれにはもったいない。たぶんおれが持ち続けていいものではない。


 手放した方がいい気がする。

 この幸せはきっと、ここにあっていいものではないのだ。

 おれなんかが持っていたら、きっといまに、おれみたいに醜くなってしまう。もっときれいな、フリィのようにきれいな人に持っていてもらわなければ。


 そんなことばかりを考える。


 おれはただ、この屋敷に一人で住んで、旦那様を待つだけだったのに。

 

 それはきっと、旦那様を待ち続けた年月の方がまだ長いからで、それよりも四人で暮らす時間が長くなれば、きっとそれが普通になるとフリィは言った。そういうものなのかもしれない。それより長くいてくれるのかと問うと、「当たり前じゃないですか」とフリィは笑った。


 その頃になると、フリィはぽつぽつと自分のことを話すようになった。もう隠すような間柄でもありませんから、と。


 あの日、フリィを追っていたのは、彼女の叔父だったらしい。


「両親が亡くなりまして、叔父に引き取られていたんです。学校にも通わせてもらいましたし、何不自由なく暮らしていたんですけど」


 そこで、声を詰まらせる。


「ある日、学校から帰ると、知らない男の人が家にいたんです。かなり年上の方のようでした。恐らく、叔父とそう変わらないくらいの」


 それで、と言って、フリィは、しばらく黙り込んでしまった。


 話すのが辛いんだったら、無理しなくても、と彼女の背中に触れる。フリィはふるふると首を振って、「私、無理やり結婚させられるところだったんです」と絞り出すような声で言った。


「結婚させられる? 誰と?」

「その、男の人と、です」

「だって、叔父と変わらないくらいなんだろう? 年が離れすぎてる」

「そうなんですけど」


 決して珍しいことではないらしい。

 彼女の学友も、学校を卒業したら結婚が決まっているものが多く、そのほとんどは彼女らよりも一回り――下手をすれば二回りは年上だったりもするらしい。どれも決まってかなり裕福な家のようで、要は、様々な理由で婚期を逃した息子に、金で若い嫁をあてがう、ということなのだとか。 


 学友達はみな、本の中にあるような恋愛に憧れを抱きつつも、家のためにと諦めているようだった。フリィもまた、それまで育ててくれた恩があるからと、受け入れるつもりだったのだという。


「いざ婚姻関係を結ぶ、という段になって――」


 が、変わったのだという。


 それまで、叔父の顔は時計だったらしい。彼の顔は、チクタクと正確に、そして穏やかに時を刻んでいた。それが、急に速くなった。音もまた、カッチコッチと大きくなり、ものすごい勢いで秒針を回し出したのである。


 フリィが大人の頭を正しく認識出来なくなったのはここ数年と、比較的最近のことだったため、彼女は自分の目がおかしくなっただけだと思い、周囲にはそれを隠していたらしい。けれど急に叔父の顔が変わったことに驚いて、彼女は叫び、伴侶となる予定の男性に助けを求めた。


 と。


「その人もまた、変わったんです。その人は、お酒の空き瓶だったのですが、空っぽだったその中が急に、どろりとした真っ黒い液体で満たされたんです。煮詰めてでもいるように、瓶の中でぐつぐつしていて。とても怖くて」


 それで、怖くなって、その場から逃げたんです、とフリィは言った。とはいえ、屋敷を飛び出したわけではない。結婚はしない、出来ない、と書類をその場でビリビリに破いて、部屋にこもったのだという。


 その時こそ、若い花嫁にはよくあることだと叔父も笑っていたし、落ち着くまでは待つと男の方でも悠然と構えていた。しかし、フリィの意思が固いと見るや、焦り出したらしい。特に叔父の方では何がなんでもその家とのつながりが欲しかったのである。


 けれども、フリィが首を縦に振ることはなかった。


 叔父の顔はどんどんと大きくなって針の音もけたたましくなり、彼が近づいてくるのが部屋の中にいてもわかるようになった。それでも彼は殊更優しい声を出してフリィの部屋の戸を叩き、必死に彼女を説得するのである。そこに時折、きぃきぃとガラスをひっかいたような音と、ちゃぷちゃぷという液体を揺らすような音が混ざるようになった。それが例の酒瓶の男だということはすぐにわかった。


 だんまりを決め込んで、数週間が経ったある夜のことである。

 喉の渇きを覚えて、フリィはこっそりと炊事場へ向かった。


 うっすらと光のもれる応接室から聞こえて来たのは、時計の叔父と酒瓶の男の会話である。


「もう待てない。明日、無理やりにでも連れて行く」

「それがいいでしょう。――そうだ、学校の帰り、ここへは戻らずにそのままお屋敷へ向かうよう、運転手に伝えておきます。それなら逃げられません」

「いい考えだ。こちらに来さえすれば、あとはどうとでもなる」


 それで。

 

 それでフリィは、学校を抜け出してここへ来たのだった。

 

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