(14話) 優しい追憶


 病室の窓から見える景色はいつも味気ない。十二月だから、病院に来る人はみんな厚着をしてる。でも、私には関係ない。どうせ外には出られないから。


 カーテンを閉めようとしてランドセルを背負う小学生の集団を見つけた。



(私と同い年くらい。私も本当ならあんなふうに友達と小学校に通ってるはずなのに)



 学校はおろか外も出歩けない。いつも、いつも、いつも、原因不明の発作に苦しめられている。頭が割れたように痛くなって息ができなくなって、気づいたら意識を失っている。


 発症したのは三歳くらいで、それまでは活発な子供だったってお母さんが言ってたけど、そんなのは気休めにもならない。毎日発作が起きて、そのつど意識を失ってしまう。一日中、目覚めなかったこともある。こんなんじゃ外に出られないのも頷ける。



(どうして、私だけ……こんな…………)



 カーテンを乱暴に閉める。ほとんど同時に病室のドアが開いた。



「やあ、結樹菜。元気にしてた?」



 お兄ちゃんだった。名前は瑞穂みずほ総司そうじ。髪は短めで丸眼鏡を掛けていて笑顔が優しい。右手にはいつも白い手袋をしてる。右手だけ荒れやすいんだって。私より三つ上で中学一年生なんだけど学校終わりに必ずお見舞いに来てくれる。



「カン君も元気そうだね」



 お兄ちゃんが私の枕元を見た。私が両腕でようやく抱えられる大きさのパンダのぬいぐるみがある。こないだの九歳の誕生日にお兄ちゃんがプレゼントしてくれたものだった。



「それじゃ、今日の授業を始めようか」



 お兄ちゃんがお見舞いに来た際は必ず授業をしてくれる。それは病院に缶詰めな私にとって数少ない楽しみだった。でも、今日は乗り気になれなかった。準備を始めない私を見て、お兄ちゃんが困ったように笑った。



「結樹菜、なにか悩んでるね?言ってごらん」


「…………別に、ないけど」


「隠さないで。最近は少し様子が変だった。父さんも母さんも心配してた。けど、無理に聞き出すのはよくないと思って黙っていたんだよ」


「……お兄ちゃんは凄いね。そんなこともわかるんだ」



 お兄ちゃんはすごく頭が良くてお父さんの知り合いの大学教授のところで勉強をしている。私は優しくて勉強もできるお兄ちゃんが大好きだったし、お兄ちゃんは私の自慢だった。でも、最近はお兄ちゃんと自分を比べて落ち込むことが多くなった。



「私なんかと……全然違う」



 立派なお兄ちゃんと発作のせいでなにもできない私。これが月とすっぽんってやつかなぁ。



「誤魔化さないで。本当に悩んでることを話してごらん」

「……やっぱりお兄ちゃんは凄いね」



 お兄ちゃんと自分を比較して落ち込んでしまうのは本当だった。でも、それは一番の悩みじゃない。


 私が悩んでるのは発作のことだった。もっと正確に言えばその治療法について。


 家族も医師せんせいも『絶対に治るよ』って言ってくれる。でも、治し方は教えてくれない。完治するはずの病気が一向に治らない。むしろ、悪化している。目覚めると医師せんせいたちが怖い顔で私の顔を覗き込んでくる。そういうのとか周りの雰囲気でなんとなくわかってきた。なによりも自分の体のことだから。



「…………私の病気、治るの?」



 お兄ちゃんが顔色を変えた。



「急にどうしたの? 調子が悪いの?」



「今は平気。でも……悪くなってる気がする。前は発作が起きない日もあったけど、今は毎日だし、眠ってる時間が長くなってるよね?」



 答えを聞くのが怖くて私は両手をぎゅっと握った。でも、聞かなきゃ後悔する気がした。だから勇気を振り絞った。それなのに、



「絶対に治るから安心して」



 お兄ちゃんが笑顔でそう言った。でも、私にはそれが嘘だってわかった。お兄ちゃんの事情は知らない。だけど、ちゃんと答えてほしかった。なのに、どうして平気な顔で嘘つくのよ⁉



「嘘言わないで……治療法なんてないんでしょ⁉」

「結樹菜、それは…………」

「わかってるんだから!」



 そう、わかってる。お兄ちゃんは悪くない。秘密にしてたのも理由があるはず。でも、それでも駄目だった。耐えられなかった。



「いい加減なこと言わないで……なんでみんな嘘つくの⁉」



 もう止まらなかった。止められなかった。本当に完治するのか不安で堪らないのに、周りが『治る』って言うなら『治らないのが怖い』って誰に打ち明ければいいの? 


 私には家族以外で頼れる人がいない。病気が治らないのも怖いけど、自分の気持ちを誰にもわかってもらえないのはもっと辛い。なのに、どうしてわかってくれないの?



「結樹菜、聞いて」



 お兄ちゃんの声を遮るように私は耳を塞いだ。



「聞きたくない。帰って……もう帰ってよ!」

「わかった。今日は帰るよ。でも、これだけは聞いて。病気は必ず治る。医者が駄目なら僕が治す方法を見つける。結樹菜を治す方法があるなら僕は自分の命を犠牲にしたって構わない」



 驚いて顔を上げる。お兄ちゃんが笑っていた。今度は嘘をついてる時の顔じゃなかった。



「本気だよ。大事な妹を助けてやれないお兄ちゃんなんて情けなすぎるでしょ? 僕だけじゃなくて先生も父さんたちも結樹菜の病気が治るように頑張ってる。だから、絶対に治る。良くなったら外出しよう。動物園でも遊園地でもいい。前に本物のパンダを見たいって言ってたよね。それなら、動物園が先かな…………父さんも母さんも一緒に行くよね?」



 お兄ちゃんがドアを見る。扉の陰からお父さんとお母さんがこっそり覗き込んでいた。



「な……んで?」

「二人とも結樹菜が心配で仕事も家事もできないとか言い出してなだめるの大変だったんだよ」



 お兄ちゃんが呆れたように笑う。



「結樹菜……」

 恰幅かっぷくのいいお父さんがおどおどしながら私を見ていた。



「あなたしっかりしてください」



 お母さんがお父さんの背中を叩いた。お母さんはお父さんに厳しい。それはいつも通りだけど、普段からしゃんとしてるお母さんが今日は上着のボタンを掛け違えていた。



「僕たちはすぐに病気を治せない。でも、これだけは信じてほしい。結樹菜が大好きなんだ。治療法が見つかってないことを黙ってたのは謝るよ。ごめん……それと、こんな時に言うのもおかしいかもしれないけど伝えておくね。僕は勉強ができるほうだけど、そんなことよりも結樹菜の兄として生まれたことのほうが誇らしいと思ってるよ」



 お兄ちゃんの言葉に息が詰まった。私だって大好きだもん。ただ、どうしても不安で苦しくて、その気持ちをわかってほしかっただけで……。



「わかってる。話せないのが辛かったんだね」



 私の心を見透かすようにお兄ちゃんが笑った。言い返そうとしたら、抱きしめられる。



「辛い思いをさせて、ごめんね。結樹菜はよく頑張ってる。それが辛くなる時があったっていいんだ。でも、次からは僕に教えてほしいな」

「……さっき、帰るって……言ったのに……」



 お兄ちゃんは小さく『ごめんね』と謝って、子供をあやすみたいに私の背中をぽんと叩いてくれた。とっても温かくて愛されてるんだなって実感が沸いてきて涙が溢れてくる。



 扉に張りついていたお父さんたちも駆け寄ってきて抱きしめてくれた。私はいろんな方向から抱き締められてしまった。正直、息苦しかった。お父さんは少し汗臭い。お母さんからはお日様の匂い。その温かさにますます涙が溢れてくる。



「結樹菜。僕がついてる。大丈夫だよ」

「そうだぞ。お父さんもついてるぞ」

「お母さんもいるからね」

「ひっく……ううっ……うわああん……ッ!」



 私はお兄ちゃんとお母さんとお父さんに抱きしめられながら叫ぶように泣いた――

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