3-3 千夜一夜

 テルミットが走り去ってから、その場に残されたエレナは一人呆然と立っていた。


(また、一人になってしまったな……)


 無理のないことだと思う。テルミットは人一倍臆病なのだ。伝えるにしても、もっと慎重になるべきだった。


 もしかしたら受け入れてもらえるのではないか、という淡い期待はあったが、今となってはどうしようもない。


 テルミットが走っていった方を見つめる。もう後ろ姿も見えなくなった。今ごろはもう正門に到着しているだろうか。


 追いかけようとも思ったが、足が止まる。その場でふっと目を伏せた。


 追いかけて、どうなるというのだろう。


 テルミットのことだから、説得すれば戻ってくれるかもしれない。ただ、それではテルミットに負担を押しつけているだけにすぎない。


 依然としてテルミットに恐怖される存在であることに代わりはなく、問題の解決にはならない。それどころか、側にいることを強要させることになる。


 いや、そもそも拒絶される可能性も否定できない。


 去り際の、恐怖にひきつった彼の顔が目に浮かぶ。胸の奥が締めつけられるような痛みが走った。


 時間をかけて外堀を埋めてきたが、エレナは最も重大なことを隠していたのだ。


 テルミットはどう感じているだろうか。裏切られたと思っただろうか。実際のところ、そう思われたとしても仕方ないと思う。


 あれこれと考えを巡らせるも、悪い想像ばかり思い浮かんでしまう。こういう時ばかりは歳を取り過ぎたことが恨めしい。


 どうするべきか。思案に暮れていると、不意に何かが聞こえた気がした。


 屋敷の正門の方向、もっと言えば、テルミットが走っていった方向で、何やら騒がしい音が聞こえてくる。


 エレナも正門に向かいつつ、その場に使い魔の小鳥を急行させる。


 使い魔の視界と聴覚を共有させることで、状況が掴めてきた。


 どうやら、騎士たちが屋敷を襲撃しようとしたところで、テルミットと遭遇してしまった、といったところか。


 何かを話しているようだ。使い魔を接近させ、様子を探る。


 若い騎士の男が、落胆したようにため息を吐いた。


『憐れな……心の底から吸血鬼に魅了されてしまっている。君の魂が救われるには、もう死ぬ以外にない』


 毅然と言い切る騎士に対して、テルミットが啖呵を切った。


『僕はもう救われている。エレナさんに出会って、エレナさんのおかげで!』


 テルミットの叫びに、胸の奥で熱いものが込み上げていくのを感じていた。


 いったい自分は、何を迷っていたというのだろう。


 答えはすぐそこにあったというのに、何を迷う必要があったのだろうか。


 エレナの中から想いが溢れだす。今すぐに、彼を力一杯抱き締めたい衝動に駆られる。


 テルミットの元へ向かう足が自然と速くなる。






 正門までやって来ると、倒れたテルミットが騎士たちに攻撃されていた。全身を槍で貫かれており、いつ死んでもおかしくはない。


 無意識に日傘を握る手に力が籠る。


 エレナが風魔法を発動させた。テルミットを囲む騎士たちが、突然の暴風になすすべもなく吹き飛ばされていく。


 飛ばされた騎士たちを尻目に、テルミットに駆け寄る。


「テル! テル! 大丈夫かい? しっかりしてくれ!」


 テルミットの容態を見るも、状況は芳しくない。全身に負った傷から血が溢れだしている。特に、腹と胸に負った傷が大きい。


 このまま放っておけば、いや、手当てをしても助かる見込みは低い。


 もちろん、助かる見込みが低いというのは、人間の生命力での話だ。不老不死を司る吸血鬼の生命力を持ってすれば、時間はかかろうと確実に治すことができる。


(……やるしかないか)


 テルミットを自分の眷属にすることでしか、彼を助けることはできない。


 本来であれば、本人の同意はもちろん、儀式などの手順を踏んでから行う習わしだが、この際そうも言ってられない。


 血色が悪くなった首に牙を突き立てる。


 皮膚を貫き、その向こうの血管に、己の力の根元たる血を流し込む。一定量流し込めば、肉体が吸血鬼のものに変質するはずだ。


 血を流し込むのと平行して、土魔法を発動させる。エレナとテルミットを被うように、土の小屋が出来上がった。


 これで、吸血鬼になった瞬間、直射日光で焼かれる、なんてマヌケな事態は防げる。


 一定量流し込んだところで、首から口を離す。あとは、眷属化を待つだけだ。


 エレナが騎士たちの迎撃にあたろうとしたところで、テルミットの身体が微かに動いた。まだ眷属化は完了してはいない。ということは、この深手を負ってなお、自分の意思で動こうとしているのだ。


「動いちゃダメだ。テル、頼むからおとなしくしていてくれ」


 エレナの言葉が聞こえていないのか、テルミットはなおも動こうとする。力を振り絞って、唇が動いた。


 ━━傷つけて、ごめんなさい。


「……っ!」


 恐らく、エレナに最期の言葉を残そうとしたのだろう。


 吸血鬼のエレナにしてみれば、死とは最も縁遠いものだが、そんな彼女でも死に際に残す言葉の重さは理解している。


 あろうことか、テルミットが選んだのはエレナに対する謝罪の言葉だった。


 その事実が、エレナの胸の奥をどうしようもなく熱くさせる。


「……こんな時くらいは、弱音を吐いてもいいんだよ」


 テルミットの髪を撫でる。癖っ毛が指に絡んで心地いい。


 吸血鬼化が始まった。血液が逆流して傷口がふさがろうとしている。これならば、放っておいても問題はない。


 土の小屋に魔法で出口を作る。


 外へ出ると、体勢を整えたらしい騎士たちが待っていた。


「これはこれは、大層なお出迎えだね」


 エレナが騎士たちを軽く一瞥する。負傷をしているものや、動けなくなっている者もいる。風魔法で実力の差を見せたつもりだが、彼らの瞳からは闘志は消えていない。まだ、彼らの心は折れていないようだ。


「出たな、悪魔の化身よ!」


 リーダー格とおぼしき騎士が、部下の騎士に肩を貸してもらいながら吠える。


「ずいぶんな物言いだね。騎士と言えど、武芸にかまけてレディの扱い方を知らないらしい」


「あいにくと、異形の者に対する扱いは心得ている」


 リーダー格の騎士が合図をすると、騎士たちが一斉に盾を構えた。


 何のつもりだろうか。そんなもの、すぐに魔法で蹴散らして、いや━━


 反射的に手で顔を覆おうとするも、遅かった。


 磨き抜かれた鋼鉄の盾の表面が、日の光を反射する。痛い。熱い。顔を焼かれ、ドロドロに溶けそうになる。


 手袋をした手で顔を覆うと、すぐに修復が始まった。皮膚の修復はすぐに完了したが、もろに日光を浴びてしまった眼球だけは、そうもいかない。修復しているものの、時間がかかりそうだ。


 使い魔の視界に切り替えると同時に、風魔法を発動。周囲に突風を生み出し、騎士たちを牽制する。


 空気の塊で殴られたらしい騎士たちが、一斉に吹き飛ばされた。


 これで距離は稼げた。


 日傘を持ってない方の手に火魔法の火玉を作り出す。


「森に被害が出るから、あまり使いたくないんだけど」


 エレナがさらに魔力を込める。火の玉の中に、さらに火の玉を作る。


 エレナの周囲の空気が歪んだ。幾重にも火を重ね作り出された炎の塊は、金属すら融かしかねない熱量を秘めている。


 盾を構えた騎士たちが思わず後ずさった。これが放たれればどうなるのか、想像に難くない。


 鋼鉄の盾を装備しているとはいえ、あの炎の塊の前には紙切れ同然で、自分たちの命をそんなか弱い装備に委ねなければならない現実に、涙を流す者さえいた。


「ボクを怒らせた、キミたちが悪いんだからな!」


 使い魔の視界越しに騎士たちへ照準を合わせる。


 炎の塊を放とうとしたところで、突然身体に激痛が走った。


「ぐっ!? な、なんで……」


 身体が痛い。全身の肉という肉にダメージが与えられるような感覚。


 口の中に血の味が充満して、思わず吐き出す。


「何の準備もせずに、吸血鬼を倒そうなどと来るものか。当然、毒くらいは仕込んである」


 リーダー格の騎士がエレナを睨む。額に冷や汗が流れながらも、どこか安堵した様子だ。


「くっ……!」


 エレナが思わずその場に膝をつく。血を吐き出しながらも、肉体が修復されていく。身体中を引っ掻き回されながら、それでも強引に元に戻っていく感覚。


 毒で頭が朦朧としながらも、全力で思考を巡らせる。


 いつ毒を仕込まれた。そんな暇はなかったはずだ。


 ガスのような物を使ったのだろうか。いや、それならば騎士や使い魔にも影響が出る。武器に毒を仕込んだのだろうか。しかし、どこにも傷つけられていないどころか、触れてさえいない。


 いったいどこから━━。


「あのときか……」


 一つだけ心当たりがあった。それは、テルミットを卷属にした時のこと。もし、彼らの武器に毒が塗られているとしたら。それで傷つけられたテルミットにも毒が回っており、卷属化したときにエレナも取り込んでしまったとしたら。


 自分で作り上げた土の小屋の壁面にもたれかかる。


 日の光が入らないようにしたため、中の様子は一切うかがえない。だが、中ではきっとテルミットが毒で苦しんでいるはずだ。


「テルを傷つけるだけじゃ飽きたらず、毒まで盛るなんて……」


 思考が怒りで塗り潰されていく。


 軽く血を注入したエレナでさえ、これだけ苦しいのだ。きっと、小屋の中ではテルミットが血反吐を吐きながら苦しんでいることだろう。


 彼らは、大切な人を傷つけただけでなく、毒まで用いて殺そうとした。その行いは、万死に値する。



「貴様らは絶対に許さない!」



 毒を盛られてなお、敵意をむき出しにして睨み付けるエレナに、勝利を確信したのか、騎士たちが武器を構えて接近してくる。


「見せてあげよう。吸血鬼の奥義を」


 リーダー格の騎士が周囲に警戒を促した。騎士たちが一斉に盾を構える。


「血界、“千夜一夜”!」


 エレナが叫ぶと、先ほど吐き出された血液が、空気に溶けるように蒸発していく。


 どす黒い煙のように空へ昇ると、快晴だった空を黒く染めた。


 青い空は完全に黒く覆われ、地上には太陽の光さえ届かない。そして、夜を象徴するように、どこからか赤い満月が昇った。


「なんだ、これは……」


 騎士たちに動揺が走る。ざわめきだした騎士たちを、リーダー格の騎士が諌める。


「うろたえるな! 夜になったから、なんだというんだ。ヤツは毒で弱っている。冷静に対処すれば、倒せるはずだ!」


 リーダー格の騎士を嘲笑うかのように、悠然と歩を進めるエレナ。


 騎士たちの顔がひきつる。とてもではないが、毒で弱っているようには見えない。


 エレナがリーダー格の騎士の前に立つと、騎士の懐に手を伸ばした。


「なっ……」


「毒があるなら、当然解毒薬も用意してあるよね?」


 騎士の懐からそれらしい小瓶を取り出し、ニヤリと笑う。


 我に帰ったリーダー格の騎士が叫んだ。


「何をしている! 速くコイツを八つ裂きにしろ!」


 上司から命令を下されるも、騎士たちは動けない。逆らってはいけない相手なのだと、本能的に理解してしまっている。


 それほどまでに、今の彼女との力の差は歴然なのだ、と。


 リーダー格の騎士も、当然それを理解していた。だが、このまま待っていても、自分たちに待つのは確実な死のみで、生き残るには死に物狂いで抵抗する他ない。


 だが、頭では理解していても、身体が言うことを聞かない。


 騎士たちの様子を見て、エレナは自分がその場の主導権を握ったことを確信していた。


 千夜一夜の効果は、大きく3つ。その場を強制的に夜に変えること。自身の能力を上昇させること。そして、敵意を向けてくる相手の恐怖を増大させること。


 その思惑通りに、騎士たちは恐怖のあまり動けなくなってしまっている。


 エレナが手の中に魔法で火の玉を作り始める。


「吸血鬼は日の光を浴びると、焼かれるような痛みと共に、身体が溶けていく。吸血鬼を殺そうとしたキミたちにも、是非とも同じ気持ちを味わってほしいものだね」


 ありったけの熱を込めた火の玉を、騎士の一人に放つ。


「ひっ」


 震えながら騎士が盾を構える。まっすぐに飛来した火の玉が、彼の盾に直撃した。


 まばゆい閃光が辺りを包む。騎士たちが思わず目を瞑った。


 恐る恐る目を開けると、彼の姿は消えていた。


 肉片どころか、鎧の破片さえ残さず、遺言どころか悲鳴さえ上げる間もなく、一人の人間が消滅した。


 あとには黒く焦げた土と、肉の焼けた匂いだけが残った。


「き、消えた……」


 呆然と呟く騎士の言葉をエレナが訂正する。


「蒸発したんだ。鋼鉄さえ蒸発させる熱でね」


 エレナの手には、再び火の玉が現れる。既に次の攻撃の準備を始めていた。


 両手に現れた火の玉が、エレナの顔を不気味に照らす。


 どうしようもない力の差を目の当たりにして、騎士たちの心が折れた。


 その気になれば、いつでも殺せたのだ。ただ、そうしなかったのは、守るものがあったから。そして、彼女の大切な人を傷つけてしまった自分たちに待っているのは、地獄しかない。


 腰を抜かす者。その場で失禁する者。這うように逃げようとする者。


 その一人一人に、エレナは火の玉を放る。威力は弱めてあるが、その分苦しみは長く続く。皮膚という皮膚を焼き、眼球を炙り、肺の奥まで燃やされる。


 部下たちが生きたまま燃やされていくのを、リーダー格の騎士が呆然と見つめていた。


 死ぬことはおろか、悲鳴を上げることさえ許されず、苦しみが永遠と続く生き地獄。


 死が救済と思えてしまう惨状が、そこにはあった。


 その地獄にあって、彼女は歌うように口を開く。


「教会の聖典というやつを少しだけ読んだことがある。煉獄に送られた魂は、炎によってその原罪を浄化するのだそうだけど、キミたちの罪はそんな物じゃあ清められない。微力ながら、手助けをさせてもらおう」


 奥歯が震えていたリーダー格の騎士が叫ぶ。


「吸血鬼の分際で、神を語ろうとは片腹痛いわ!」


 威圧感はどこにもなく、もはや精一杯の虚勢にしか聞こえない。


「人の身でありながら、神の手先を名乗るのは、それこそおこがましい」


 虫でも見るような目で見下ろすと、手の中で作り上げた火の玉を手向けた。避ける間もなく、防ぐ手段もなく、最後の騎士が炎に飲まれた。


 これで、すべての騎士に報いを受けさせることができた。


 あとは土の小屋の中で苦しむ彼に、一刻も速く解毒薬を飲ませてあげなくては。


 自分も毒でフラフラになりながらも、まっすぐにテルミットの元へと歩みを進めた。

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