1-7 いつまでもきおくにのこしたい

 午後。エレナから文字を教えてもらうべく図書室にやってくると、適当な席についた。テルミットの席の向かいにエレナが腰掛ける。


「それじゃあ、早速始めようか」


「お願いします」


 エレナが紙にペンを走らせた。向かいに座るテルミットが見やすいように上下逆さまに書かれているにも関わらず、お手本のような字をしている。


 それぞれの文字と対応する音を一通り教わったところで、テルミットがうんと背伸びをした。


「よく頑張ったね。今日はこの辺にしておこうか」


「まだ大丈夫ですよ」


「それじゃあ、残りは自習ということにしようか」


 そう言うと、エレナが席を立った。夕食の支度をするのだろう。


 エレナ一人に食事の用意をさせるのは気が引けたが、自習をするように言われたのだから、今は自習に集中しよう。


 教わった通りに、ひたすら順番に文字を書き並べる。が、これだけではやはり退屈だ。ついつい別のことを考えてしまう。


「……そうだ!」


 文字を書くだけでは退屈に決まっている。それなら、何か単語を書いて練習しよう。


 頭に思い浮かんだ言葉を、ひたすら紙に並べる。


 やがて、食事の用意ができたエレナがテルミットを呼びに来た。


「おや、まだ頑張っていたんだね」


「はい。次の授業までにできるだけ勉強しておこうと思いまして」


 いたずらが見つかった生徒のような面持ちでえへへと笑う。


「殊勝な心がけだね。それで、何を書いていたんだい?」


「あっ」


 エレナがテルミットの紙を覗き込むと、そこには汚い字で、自分のよく知った単語が書かれていた。


 エレオノーラ・レインブラッド


 エレナのフルネームが、紙一面にびっしりと書かれていた。


「あの、これは違うんです。普通に文字を書いても退屈だったので、頭に思い浮かんだ単語を書いてみようと思いまして」


「ふぅん、それでボクの名前が書かれていた、と」


「そうなんです」


「でもさ、それってテルの頭の中がボクで一杯ってことだろう?」


「あっ……!」


 頭に浮かんだ単語を書いていたつもりだったが、エレナの名前以外書かれていないということは、自分の頭はエレナのことしか考えていないことになる。


 しかも、それをあろうことかエレナ本人に指摘されるまで気づかなかったとは。


 テルミットの顔が熱くなっていくのを感じた。


「嬉しいなぁ。キミがここまでボクにベタ惚れだったなんて。もう少し早く教えてくれれば、おかずの品目を増やしてあげても良かったんだけどね」


 エレナが羞恥に悶えるテルミットを覗き込む。


「代わりと言ってはなんだけど、今日も背中を流してあげよう」


 予期せぬ提案に、鼓動が加速する。

 昨日に続いて、二日連続でエレナと風呂に入れるのか。

 一昨日は粗そうをしてしまい、面目は丸つぶれだった。汚名返上の機会をもらったが、はたして今日は耐えられるだろうか。


 いや、そういう問題ではない。なんとしても耐えなくてはならないのだ。


 エレナの裸体が脳裏をよぎり、身体が熱くなる。

 一度失った男の尊厳を取り戻すのならば、選択肢は一つしかない。


「……よろしくお願いします」


 テルミットは赤面しながらも力強く呟いた。






 夕食を終え、テルミットが先に風呂で待っていると、エレナがやってきた。あくまで平静を装いつつ、エレナの様子を観察する。


 タオル越しからでもわかる、力強く抱き締めたら壊れてしまいそうなほど華奢な身体。控えめながらもくびれた腰回りが、一人前の女性であることをアピールしている。雪のように白い肌に、うっすらとタオルに浮かぶ桃色の物体。


 初めて屋敷に来たときは、美しい調度品の数々に興奮してしまったが、なんてことはない。この屋敷で一番美しいのはエレナなのだ。エレナの前では、絵画も彫刻も、何もかもが相手にならない。


 まじまじと見てしまっていたのか、エレナが挑発するように見上げる。


「ん? ボクの身体になにかついていたかい?」


(ついています。桃色の物体が二つ!)


 心の中で声にならない言葉を叫ぶ。


 そんなことはお構い無しに、エレナがテルミットの隣に腰掛ける。


 鏡越しにエレナと目が合うと、エレナが微笑んだ。


 かわいい。――じゃなくて!


 心の中で平静を保つべく己の魂を奮い立たせる。テルミットが全神経を集中させた。


 昨日の粗そうは許してはもらえたが、二度目も許される保証はない。それどころか、今度こそ追い出されるかもしれない。それだけは耐えられない。


 何があっても、強くあろう。自分を保とう。それが自分の望んだ冒険者のあるべき姿なのだから。


 そんなテルミットの葛藤をよそに、エレナが湯気で白くなった鏡に指を走らせる。まっすぐな線。曲がった線。くびれた線。迷いなく描かれる線に、テルミットは見覚えがあった。


――これは文字だ。


 そこまで来て、エレナの考えが理解できた。なるほど、身体を洗いながら復習をしようという魂胆なのか。


 鏡に描かれた文字に目を通す。


『きょうはよくがんばったね』


 エレナの心遣いが心に染みる。


 返事を書くべく、テルミットも指を走らせた。

 エレナの文字に比べたら歪もいいところだが、拙い文字を紡ぐ。


『ありがとうございます』


 形も大きさもバラバラだが、テルミットの気持ちは伝わったらしい。エレナが満足そうに微笑んだ。


 続いてエレナが指を滑らせた。流暢な指運びで文字が紡がれる。


『テルミット』


 テルミットの名前だ。テルミットが練習にエレナの名前を書いていたことに対する異種返しだろうか。


 続けてエレナがさらに文字を書く。


『せいいっぱいていねいにかいてみたよ』


 誇らしげに報告するエレナがかわいらしい。すぐさま返事を書いた。


『とてもきれいですね』


 偽らざる本心を伝える。エレナが書いたテルミットの名前は、とても美しかった。できることなら、このまま持ち帰って額縁に飾りたいくらいだが、それはかなわない。


 せめてもの抵抗として、記憶に焼き付けるべく、鏡を凝視した。


 エレナが軽く頬を染めた。


『そんなにみつめられるとはずかしいよ』


 なぜか身体をくねらせるエレナ。


 エレナに返事を書きたいが、うまい言葉が出てこない。自身の貧弱な語彙力を呪いながら、精一杯文字を書き込む。


『とてもきれいだから』


 脳をフル回転させ、自分の気持ちを伝えるべく、ふさわしい言葉を絞り出す。

テルミットの指先が鏡面を踊った。


『いつまでもきおくにのこしたい』


 エレナの顔が真っ赤になった。恥ずかしそうに身体を隠しながら、鏡越しに恨みが篭った視線を送る。


『どこでそんなくどきもんくをおぼえたんだい』


 エレナがしたためた流暢な文字を読むも、何を言っているのかさっぱりわからない。


 エレナの顔を見ると、瞳の色と同じく赤く染まっている。


 もしかして、自分は何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。


 謝罪の言葉を考えていると、さらに書き加えたエレナの文字が目についた。


『すけこまし』


 すけこまし? 初めて見る言葉に、頭が固まる。


 エレナの方を向くと、プイ、と顔を背けていた。


「あの、すけこましってどういう意味ですか?」


 たまらずエレナに尋ねるも、エレナは目を合わせてくれない。


「エレナさん」


 再度声をかける。


 エレナとしても無視を貫くのは心が痛んだのか、少し申し訳なさそうに身体を戻した。


「……女たらし、って意味だよ」


 エレナの言葉を心の中で反芻する。


(女たらし? 僕が?)


 言っている意味がわからない。再びエレナに尋ねる。


「どういう意味ですか?」


「あとは自分で考えたまえ。これは宿題だよ」


 そう言われると、これ以上は訊けなくなる。


 それからは特に会話もなく、風呂を出ることになった。






 テルミットが自室に戻ると、ベッドに潜った。あれかしばらく考えてみて、エレナの言葉の意味がわかった。


 鏡越しとはいえ、異性の身体を眺めながら、『とてもきれいです』とか『いつまでもきおくにのこしたい』などと伝えれば、誰でも恥ずかしがるに決まっている。


 おかげで、羞恥のあまりしばらくの間悶絶する羽目になった。






 風呂から上がり自室に戻ったエレナは、椅子に座り1枚の紙を眺めていた。


 それは、テルミットが練習に使用した、エレナの名前がびっしり書かれた紙である。


 一文字一文字指でなぞるエレナ。

 不器用ながらも、しっかりと気持ちが込められているのが伝わる。


「テル……キミは、気づいているのかい?」


 受け取り人不在の問いかけが夜の闇に溶ける。


 丸々1枚堪能すると、シワがつかないように大事そうに机にしまった。

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