雨音
ナロミメエ
1
「なんていうか、知らない方がいいってこともあるじゃないっすかぁ」
「ないだろ、そんなこと。大体、知らない女なんかとよくそんな関係になれるな、おまえ」
「いやぁ、そういうんじゃないんすよ、部長ぉ」
仕事を終えた六人の会社員。彼らがビルのエントランスに差し掛かかった、まさにその瞬間だった。
昼頃から夏を覆い隠していた雨雲が、蜘蛛の子を散らすように去っていったのだ。
地面に残された雨水はいくつもの鏡をつくり、反射した陽光が、呆然と並び立つ面々を照りつけた。
「なんすかこれ? 部長、晴れ男っすか? なんにしてもラッキーっすよね」
「予報なんてこんなもんだ。でもまだ向こうに雲がある。また来るかもしれないから急いだほうがいいな」
「そっすね。よし、じゃ、みんな駅まで気持ち早歩きってことで」
そうしてビルから出る男五人、しかし、女は一歩、後ずさりする。
「あ、私、傘、間違っちゃったんで、先に帰ってください」
「そんな事してたら降ってくるぞ」
「なので、皆さんは先に帰ってください。じゃあ、お疲れさまです」
小走りで戻る彼女を、柴田は睨むように見る。
部下らが呼びかけるも、柴田はそのまま返事もせずにビル内へと戻っていってしまった。
はてと、四人の部下らは顔を見合わせ、ほどなくして意図に気づくと苦笑い。そして、彼らもビルへと戻っていった。
入り口では、ガラス扉がゆっくりと閉まる。
陽の色は少し弱くなり、雲は静かに戻り始めていた。
古い六階建ての雑居ビル、エレベーターはひどく遅い。
「なんか、すみません」
「いや、捨て帰るようで心苦しかっただけ。全然、気にするな」
柴田は、今年入社したこの女性社員に気があるというわけではない。部下たちもそれはわかっていて、わざわざ戻る理由にも見当はついていた。
まもなく、エレベーターに乗り込むと彼女がつぶやく。
「久慈さん、一人で大変ですよね」
すると、部下らはばつが悪そうに柴田を覗いた。
「なにが。あいつが自分でやるって言ったことだろ」
「あ、すみません」
「いや、怒ってるわけじゃなくてな」
「そうっすよ、何気にサボってたりすんじゃないすか」
怪しい雰囲気を察知し、柴田の腰巾着はすかさず話の軌道を逸らした。
「サボってたら、ケツバットですね。久慈、アウトーって」
エレベーター内に笑いが起こると、おのずと柴田の顔もゆるみ、部下らは安堵した。
電灯を映す白の壁が安っぽい、柴田らのオフィスがある五階のフロアに着いた。カードキーで扉を開けると、狭くも広くもないオフィスであたりまえに仕事をする顔がポツンとあった。
真っ先に入室した腰巾着は「久慈、セーフー。あーあ、つまんねっ」と気怠げに叫んだ。
帰ったはずの面々に立ち上がる久慈、その姿を柴田は一瞥もせず、それでいて、声をかけられるのをポケットに手を突っ込んだまましばらく待った。まもなく、どうしたんですかと久慈に尋ねられると、満足げに露骨な無視を返した。
「わたし、傘、間違えちゃって。せっかく雨が止んでるのに」
久慈のそれに女性社員が悲しげな笑顔を作って答えると、そうですかと、久慈はそっけない返事。
そのやり取りを柴田は見逃さず、しっかりと舌打ちをした。
女性社員は久慈への好意を隠さないが、久慈は照れているのか、いつも無関心な態度。傍にいる身にしてみれば、まるで学生同士の恋を見せられているようで、柴田はとことん気に入らなかった。
高価な革靴のかかとを必要以上に踏み鳴らし、部屋の奥、エアコンの真下にある久慈のデスクへ回り込んだ。
体格のいい柴田が真後ろに立つとなれば、その圧迫感は凄まじい。
「久慈先生、仕事はもうお済みですか? でもボクたちじゃあ久慈先生の足手まといになるだけですもんね? ボクたちは今から残業代もなしにここで待機です。久慈先生、今日は何時間分の残業代を請求するんですか?」
おきまりのセリフだからか、久慈は言い返すこともなければ意味のない謝罪もしなかった。まるで、その謝罪が柴田の待ち受ける球だと見透かしているかのように。
振り向きもしないその背中に、柴田の鼻息は荒くなる。
そんな中、柴田の腰巾着は音に導かれるように、おもむろに窓に近づくとブラインドを上げた。
先ほどの晴れ間が夢だったかのように、黒雲が大群の雨を降らせていた。
それから十分ほど経ったが、雨の勢いに変化はない。確認せずとも音だけでわかるほどの雨量だった。
部下らは、ある者は久慈を眺め、ある者は柴田を窺い、届いたばかりの備品整理をしてみたり、申し訳なさそうにコーヒーを入れたり、ブラインドを遊んで外を眺めたりしていた。
柴田は、相変わらず応答のない久慈の後ろにいる。
嫌みに対しての返答要求はさすがに恥ずかしくてできず、およそ立ちすくむその姿は背後霊のよう。とはいえ、このままその場を去るのもプライドが許さなかった。
何かないかと次の一手を探す中、ふと、久慈のデスクに目が落ちた。なにを見るわけでもなかったが、その目は一番上の引き出しに入っているであろう退職願を透視。それをしたためる久慈を思い浮かべると、ようやく苛立ちは収まった。
冷静になった頭で以て、短いあご髭を撫でながら思案を始めてすぐのこと、柴田の顔に笑みが浮かんだ。
はたと気づいて笑みを隠すと、今度は備品整理をする部下へ歩み寄り、届いたばかりのロウソクを引ったくる。そのままライターで火を灯すと、部下に明かりを消せと命令した。
およそ、しかしまさかいい歳をした大人がそんなことは言わないだろうなと案ずる部下らをよそに、雰囲気めかした柴田は躊躇いもなく言った。
「夏といえば、怪談だろ」
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