「ひとつめきょじんのおりでした」
満井源水
ひとつめきょじん
遠くで小猿の雄叫びが響き、フラミンゴの生臭さが生温い風に乗って漂ってくる。
空っぽの檻の前に僕がいる。
「ここはひとつめきょじんのおりでした」という看板が檻の前に立てられていた。力強い筆致の割にお世辞にも上手だとは言えない出来の文字が、右へ左へはみ出しつつ辛うじて列を成している。どの文字もどこかしら繋がっていて、本当にみみずの這った跡のようだった。
「ひとつめきょじん」が何かわからなかったが、「一つ目巨人」かと思い直した。ということは、この動物園は昔、一つしか目がない
檻の中を覗いた。土が敷き詰められた床は草が伸びっぱなしで、ところどころ禿げた草原のようになっている。サバンナを小さくしたものみたいだと考えかけたが、地理の教科書にあったサバンナの姿は、僕の脳内では今ひとつ朧げなため自信はない。ここに一つ目の巨人がいたのだろうか。
すみません、と声をかけて飼育員らしき女性を呼び止める。ここに巨人がいたのでしょうか、と問う。
「はい。今はもういませんが__」
死んだのですか、と訊いた。飼育員の目が一瞬伏せられたので僕はよくないことを尋ねてしまったと感じた。しかし飼育員はすぐに微笑を取り戻す。
「そう、ですね」と彼女は言った。続けた。「骨がありますよ」僕は少しだけ興味深げな顔をしたと思う。
バックヤードに通された。飼育員が手で示す先には、緑色の布を被った何かがあった。
「あれが、巨人の頭です」指をさされたものは、レジャーシートを被った1m近い高さの塊だった。骨特有の凹凸が、レジャーシートに反映されている。
布がめくりあげられると、少し縦長の頭蓋骨が顕れた。頬骨の辺りに出っばりがあり、真ん中の部分には大きな洞がひとつ、ある。口の辺りは幅の広い溝がなだらかに下っていて、その先に一対の牙が生えている。
巨人は、僕が思っていたよりもずっと恐ろしい
あの看板は、誰が書いたのですかと尋ねた。
「この子です」飼育員は巨人の頭を指差して言った。
「わたしの仕事の一つは、あの子の体調をノートに記録することでした」飼育員は、尻ポケットから半分に折り曲げられたノートを取り出す。あちこち破けた帳面は、日焼けからか褐色になっている。
「わたしが、あの子のことをノートに書き残していくのか不思議だったようでした。あの子は何度も問いかけてきました」
巨人は言葉が話せたのですか、と訊いた。
「いいえ、言葉は話せませんでした。けど、なんだか分かるんです。わたし昔、寝たきりのおばあちゃんの介護をつとめてたんですよ。おばあちゃん、あー、とかうー、とかしか言えなくて。でも寝返りが打ちたいんだな、とか痰を出してほしいんだな、とかなんとなくわかって。あ、話がそれましたね」飼育員は頭を掻いた。
「えっと、そういう言わなくても伝わることがわかるのって、いいなって思ったんです。それが好きで動物園の飼育員になって。動物ってしゃべれないけど、仲良くなると違う生き物同士なのに見えない何かが通うような感覚がうまれるんです。って、おばあちゃんと動物を一緒にするのもなんだか失礼ですね」
飼育員は小さくあはは、と笑った。彼女がおばあちゃんと動物を同列に扱うのはけしておばあちゃんを軽く見ているわけではなく、ただ彼女の向ける愛が平等である故だろうと思った。
「でも、あの子はそうじゃなかったみたいなんです。やっぱり目に見えてわかりやすいコミュニケーションをしたいと思っていたみたいで。わたしの知っていることを知らないもどかしさ、むずがゆさみたいなのもあったのかもしれません。それで筆と、キャンバスをかけた
見ると、たしかに部屋の隅には大きな筆と大量の画布、画用紙の束があった。
「やっぱりあの子は賢くて、少しずつですがひらがなを覚えていきました。だんだん簡単な単語も書けるようになって。でも体調の方は悪くなっていったんです。
飼育員は手慰みに、しわくちゃのノートを伸ばしている。
「この紙束があの子の形見になるかも知れない。そう思って。せっかく文字をかけるようになったんだから、あの子がいたことをみんなが忘れないような文章を書いてほしい、と思ったんです」
「あの子の誕生日が近づいたころ、あの子に言ったんです。『もうすぐあなたの誕生日だから、特別な一枚を書かない?』って。嘘つきました。本当はもうすぐ死んじゃいそうだから、あの子の記念になる作品が欲しかったんです」
「あの子は画用紙いっぱいの大きさで書きました。『うそ』って。ゾッとしました。わたしの考えが見抜かれたのかと思った。ごめんなさいごめんなさいって謝りました。でも何がごめんなさい、なのかは言いませんでした。言えませんでした。ずるいですよね。わたしの『ごめんなさい』は謝罪じゃありません。『ゆるしてください』の言い換えでしかないんです」
「するとあの子はその下に小さく、『かく お』って書きました。わたしは『うそ かく お』を『大きな嘘を吐きたい』だと解釈しました。『大きな嘘を書きたい?』と訊いたらあの子は頷いていました。わたしが頷いていると思いたかっただけかもしれません」
「『大きな嘘』の内容に悩みました。あの子の体調はどんどん悪くなっていって、結果展示をやめ、お客さんに見えないところで飼育することになりました。わたしはずっと、あの子が最後に書く内容に悩んでいました。それでわたしは嘘を__」そこまで言って、飼育員は一瞬考える素振りを見せた。
「ええと、嘘を、つかないことにしました。あの子のために。だからあの子のことを、そのまま書いて檻の前に立てておこうと思ったんです。『ここはひとつめきょじんのおりでした』って」
そうだったのですね、と相槌を打った。
実は僕は、これが象の頭蓋骨であることを知っていた。真ん中の大きな穴は目があった空間ではなく、ただの鼻腔だ。なだらかな坂は大きな口ではなく長い鼻だし、一対の牙は象の口から覗いている、いわゆる象牙だ。しかし言わないでおいた。それを口に出すことは、飼育員さんを今ここで殴って逃走するよりも悪いことに感じた。
「すみません、お客さんにこんな長話」飼育員は頭を下げた。
僕は構いませんと言った。飼育員の胸ポケットに収まっている通信機器から、小さな電子音が鳴る。別な仕事に呼ばれたようで、彼女は「すみません」と頭を下げて去ってしまった。僕と、大きな頭蓋骨だけが暗い部屋に残される。僕は巨人の骨に小さく一礼してから部屋を出た。
遠くから、小さな象の鳴き声がした。見やると昼過ぎのショーとして、「ぞうのおえかき」が行われている。小象が、キャンバスに黄色い花を描いているのが見えた。
もしかしたら、「ひとつめきょじん」の看板もああやって象が書いたのかも知れない。お客を楽しませるために?だとすればそれは成功だ。僕は君を、名も知らぬ象を好きになっている。いや、象ではなく、本当に巨人が描いたのかも知れないが。
財布を開くと動物園の入場券の他に、いくらか小銭が入っていた。花を買いに行こう。「ひとつめきょじん」の頭の骨に、ぴったりな白い花を。
「ひとつめきょじんのおりでした」 満井源水 @FulmineMaxwell
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