ストゥーピッドで華麗なる人生

北原小五

貧乏OLの華麗なる転機



『準備はいいか?』

 ふざけた台詞がテレビから聞こえてきた。俺はため息をつきながら流れているつまらない映画に目を向ける。

 準備? いいに決まっている。

 黒い覆面マスクをつけた俺は、ため息分の酸素を吸い込みボロアパートの扉を開けた。

 さあ、人生を変えてやる。


 ***


〈外苑前でお友達と食べた朝ごはん。フランス風の朝ごはんだそうです♪〉

〈お友達から誕生日プレゼントにもらったお化粧品。隣のお財布は大切な方からいただきました♡〉

〈今日はパパとママとエルメスでお買い物です〉

〈同僚の方からのアプローチがひどくて困っています。職場では恋人がいると公言しているのですが……〉

 私の名前は花園桃香だ。嘘だ。正しくは花園小夜子である。私はこの小夜子という古臭い名前がどうにも苦手だ。古風で可愛いという見方もできるが、こういう名前が似合うのは身長160センチくらいで黒髪ストレートの清楚系の女の子と決まっている。対する私は身長170センチ、高校時代のレスリング部で鍛え抜かれた身体、キューティクルは痛み、顔は乾燥してそばかすまみれだ。こんなのは花園小夜子という名前にふさわしくない。

 だから私はSNSの世界に架空の私、花園桃香を生み出した。

〈ユーザーネーム:のんびりOL桃香〉〈プロフィール:六本木で働くのんびりOL。きらきらしたもの、コスメ、美味しいものが大好きです。仲良くしてください♪〉

 桃香には外資系で働く彼氏がいるし、お金持ちの両親もいる。だが、私には彼氏はいないし、五歳の時からシングルマザーの貧しい家庭で育った。そう、何もかもが偽りだ。

「あと一人、いや二人?」

 深夜二時。私はPCの前に張り付き、のんびりOL桃香のインスタグラムのフォロワー数を凝視していた。フォロワー数は9998人のあたりを、魚釣りの浮き餌のように上下している。

 9999 10000

「やったー!」

 私は激安というラベルが貼られた缶ビールのふたを開け、ぼろアパートの中で祝杯をあげた。ついにやったぞ、のんびりOL桃子。お前は一万人のフォロワーを持つ人気者だ。

 こういうことをしているとみじめじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、わたしはちっともそんなことは思わない。そもそもそんなくだらないことを言ってくる友人もいないし。だってこれはすごく楽しいことなのだ。楽しいことをするのは悪だろうか? もちろん私が素性を偽り、人を犯罪に巻き込めば悪だろうけれど、そんなことはしていないし、するつもりもない。

「桃香ぁ、あんたは最高の女だよぉ」

 とろんとした声音で私はのんびりOL桃香の努力を褒める。努力というのは、恥を忍んで高級ブティックへ行きバシャバシャと買いもしない商品の写真を撮ることだとか、一日分の食事を我慢してホテルにお茶しに行ったり、試着室で永遠に撮影会をするだとか、そういうことだ。え、マナー違反? それくらいのことをしなければフォロワー一万人なんて到底達成できないのだから仕方がない。目をつむってほしいところだ。

〈花蓮さん、偽物だったらしいよ〉〈つぶやきも全部、嘘だったんだー。信じらんない〉〈やっぱり信じられるのはストゥーピッド〉

 むむむっ。マウスを動かしていた私の手がこれらのコメントではたと止まる。

 ストゥーピッドというのはこのきらきらOL界隈では有名な特定班の自称だ。特定班とはこういうきらきらアカウントが本物かどうかを、写真の小さな小さな欠点から見破っていくという超のつく暇人のことである。話題にあがっている花蓮という人は、ガラスに自分の顔面が反射してしまい、それがすごく不細工だったということを特定班・ストゥーピッドが解明し、ファンの間で炎上しているようだ。

 えーんがちょ。

 田舎で教頭先生に教わったやり方で私は花蓮との縁を断つ。花蓮とはSNS越しで話したことはあったが、とても洗練された話し方で私も投稿文の参考にしていたくらいだ。この人をなくすのは惜しいが、仕方がない。素顔がバレると、そのうち九割は叩かれ炎上するのがこのきらきらアカウント界隈での決まりなのだ。

 私はついでにストゥーピッドのアカウントを覗きに行った。ストゥーピッドは投稿文を書かない。代わりに写真を一枚、投稿する。今回は花蓮の顔を拡大したものと、彼女のアカウントのIDが記された写真を投稿していた。

 いつか私もこいつの餌食に……。

 そう考えると背筋がぞっとするのを通り越して、息が苦しくなる。のんびりOL桃香を失った私に残されたものは薄給なのに馬車馬のように働かされる仕事と家賃、光熱費、通信料の支払いくらいだ。


 ***


 のんびりOL桃香は朝の投稿も欠かさない。今日は時間がなかったので、空の写真と共に〈今日も元気に出社!〉と書いた。実際は、二日酔いで今にも吐きそうである。それでも会社にはいかなければならない。私は今にも潰れそうな四階建てのビル二階にある弁護士事務所の中に入っていく。

「おはようございます」

「おはよーございます!」

 眩しい笑顔で私を出迎えたのは、後輩の安西だった。安西は二十三歳の新卒で、茶色い髪をいつもくるりと巻いている。喋り方はなぜかワントーン高く、初めて会ったときセキセイインコを彷彿とさせた。

「せんぱーい。元気ないですね。どうしましたかー?」

 子犬のような、けれど明らかに〈私は可愛いです〉という気を含んだ瞳がこちらを向く。

「昨日、ちょっと飲んじゃって……」

「やけ酒ですかぁ?」

 なんで第一候補がやけ酒? お前、私のこと普段、どう見てんの?

 そう思いながらも、私は大人だ、ひきつった笑みを浮かべて否定した。

「いや、祝い酒」

「ええー! なんですか、なんですか。なにがあったんですかー!?」

 朝から叫ばないでくれ、頭に響く。

 私は適当に相槌をうち、とにかく早く会話を終わらせることに専念した。すると、事務所の奥から高井戸さんが現れた。

「おはよう。ちょっと声のボリューム、下げてくれるかな?」

 高井戸さんは二十八歳の若手弁護士だ。どうしてこんな小さな弁護士事務所に来てしまったのかというほど、爽やかで優しく、擦れたところがない。

「は~い!」

 安西が高井戸の方に振り向き手を振った。高井戸はそれにどう答えたらいいのかわからず、若干戸惑いながらはにかんでいた。そういう表情も素敵だった。

 のんびりOL桃香には外資系の彼氏がいるが、それは外資系を弁護士に置き換えると、出身地も血液型も星座も家族構成も高井戸さんと同じだった。実質、のんびりOL桃香の彼氏は高井戸さんなのだ。

「高井戸さん、素敵ですよねえ」

 このところ安西はこのフレーズを繰り返し、他の女性社員の前で多用している。

「そうね」

 つまりは、私が狙った獲物だというマーキングに他ならない。だが、残念だったね、安西。とっくの昔にあの人は、桃香の彼氏なのだ。

 含んだ笑いを残して私は業務につく。仕事をしながらも、考えているのはのんびりOL桃香の更新についてだ。朝に投稿したから夜は投稿しなくてもいいか。今月はお財布もピンチなので、あまり無理はできない。

 そんなことを考えていたお昼休憩。屋上でひとつ299円のお弁当を食べていたときのことだ。ストゥーピッドからダイレクトメールが届いていた。

〈あなたの住所を特定しました〉

「は……?」

 そんな文言と共に写っていたのは家で撮影した可愛らしいトルコ製のランプの写真だった。二枚目の写真はランプが拡大されている。よく見るとその背景には段ボールがあり、段ボールには宅配伝票、つまり私の家の住所が晒されていたのだ。

〈高級マンション(笑)ですね〉

 おそらくストゥーピッドはグーグルストリートビューなどで、実際に私の家を調べてみたに違いない。そして現実との差をこうしてあざ笑っている。

 呼吸が苦しくなる。今すぐ前のめりに倒れてしまいそうだ。どうしよう。私は立ち眩みがする思いだった。

〈取引しませんか?〉

〈取引って?〉

 震える指で返事を打つ。

〈十万円くれたら、これは削除して僕自身見つけなかったことにします。晒したりしません〉

 十万円という金額にめまいがする。だが、のんびりOL桃香を失うことに比べたら何倍もましだ。貯金をすべて使うことになるが背に腹は代えられない。

〈わかった。どこに振り込めばいい?〉

〈直接、会って渡してください〉

 会う? 嫌な予感がする。

〈私の写真でも撮ろうって魂胆なわけ?〉

〈違います。どうするんですか。来るんですか? 来ないんですか?〉

〈行く。行きます〉

 仕方がない。私は唇を噛みしめる。

〈では、19時に新宿駅アルタ前地下出入口に来てください。赤いコートを着ているのが僕です〉

〈わかった〉

 私は仕事を終えるなり、ATMで貯金を下ろして茶封筒に入れ、新宿方面へと向かった。電車から降りて、地下に行くと赤いコートの男がいた。男は私より少し年下の25、6歳に見えた。小太りでグレーの帽子をかぶっているがどの服もちぐはぐでまるでセンスというものが感じられない。

「あんたがストゥーピッド……?」

「あ、あなたがのんびりOL桃香さん……?」

 二人の間に沈黙が下りる。私はストゥーピッドをもっとシュッとしたクラッカーのような人物だと思っていた。映画とかでもハッカー役やクラッカー役の人は大抵オタクっぽいけど、有能なイケメンだ。けれど目の前にいるのは冴えないを具現化したような、ニートにしか見えなかった。

「信じられない。ちょっとは可愛いと思ったのに……」

 ストゥーピッドは落胆を露わにし、恨むようにこちらを見る。

「やっぱり全部、嘘だったんだ」

 ほんの少し良心が痛むが、私はあくまでも高圧的な態度を崩さないことにした。

「そうよ。悪かったわね」

「残念だ……」

 ストゥーピッドが帰ろうとするので、私は慌てて彼の腕をつかんだ。

「ちょっとどこ行くの!? 約束は?」

「あれは会うための口実です」

「は?」

「……はあ」ストゥーピッドが面倒そうにため息を吐く。「僕は出会うためにSNSを始めたんです。だけど現実は偽のアカウントばかり。ニートの僕を外に連れ出してくれるだけの美女はいませんでした」

「つまりあんたは美女と会うためにストゥーピッドを始めたの?」

「はい。偽アカウントに天誅を与えているうちに、SNS上では違う存在になりましたが。あの、放してくれませんか? 家に帰ります」

 突然、自分語りをした挙句、金をもらわずに帰るだと? どれだけ甘やかされて育ってきたお金持ちなんだ。いや、今はそれどころではない。

「待ってよ。私のアカウントはどうなるの?」

「晒します」

「困るんだってば!!」

「でもそれがストゥーピッドの使命ですし」

「美女に会えなかった憂さ晴らしでしょ! お金なら今の倍、なんとか払うから!」

 ストゥーピッドはやや懐疑的な視線をこちらに向ける。私にお金があるのか怪しんでいるようだ。

「あ、あるわよ。地銀にいくらかあったはず。二十万、いや、十五万なら。それでのんびりOL桃香を見逃してちょうだい」

「わかりました。いいですよ」

「でも今は手持ちがないから、ATMに行きましょう。あんたもついてきて」

 私たちは地銀のATMを探し、新宿をあちらこちらと歩き回った。どこにATMがあるのかさっぱりわからない。ようやく見つけたATMは金曜日の夜だけあって賑わっていた。列に並んでいる間、ストゥーピッドが言った。

「実はインスタ、やめようかと思ってるんです」

「なんで?」

 朗報だが、引っかかる。甘い話には罠があるものだ。

「就職するんです。この間、親が倒れて……。もう元気になったんですけど、いつまでもこのままじゃいけないなと思って」

 えへへと無垢な笑顔をストゥーピッドが浮かべる。数多の女を闇へ葬ってきた男の笑顔とは思えなかった。

「あっそう」

 きらきらアカウント界隈としては喜ぶべきことだ。邪魔者には消えてもらった方がいい。けれど何を私は引っかかっているのだろうか。

「満ち足りないんです」ストゥーピッドが言った。「どれだけのアカウントの真実を特定しても、どれだけの賞賛をあびても、たぶん僕は永遠に満ち足りない。そう思ったら、馬鹿らしく思えました」

〈桃香さんが憧れです!〉〈桃香さんみたいになりたい!〉

 そんなコメントが走馬灯のように頭に蘇る。満ち足りない。私はストゥーピッドの言葉が理解できるような気がした。フォロワー一万人はたしかに祝うべきことだった。楽しかった。楽しいことは悪ではない。けれど、他人に認められることだけを主軸に置いたとたん、人は強欲になるのではないだろうか。私は私が、わからなくなった。いいのだろうか。このままのんびりOL桃香だけが私の心のよりどころで、のんびりOL桃香として数多の人に褒められることだけを喜びとして。それで本当に私は幸せにたどり着けるのだろうか。何もかもを手に入れたとき、私はどうなってしまうのだろうか。

 想像してみると、なぜか上手く笑えなかった。私の幸せが何なのか、私は導き出せなかった。そのときだった。

「強盗だ! 動くな!」

 ATMの置かれた店舗に、ナイフを持った覆面の男が乗り込んできた。私とストゥーピッド、二人の客は思わず悲鳴を上げる。

「黙れ、騒ぐな! 金をあるだけおろして、置いていけ!」

 前に並んで機器を操作していた二人の客は恐怖で怯えた顔をしながら、男の指示に従った。

「お前らもだ!」

「ぼ、僕はここの口座を持ってないよ! この人について来ただけです!」

 ストゥーピッドが情けない声で言うと、男は吠えた。

「なら店から出てけ!」

 どたばたと四肢を動かし、ストゥーピッドは逃げていく。

「お前は口座があるんだな」

 指をさされた私は、額に冷や汗をかきながら、こくりと頷いた。ATMに近づこうとした瞬間、犯人が息も絶え絶えなことに気がついた。

 ふと思い出したのは、高校生の部活動の一場面だった。高校生のころ、私はレスリング部だった。

 チャンスかもしれない。チャンス? なんの?

 頭の中の二人の私がしゃべりだす。

今なら、勝てるかもしれない。勝つって、闘うの?

私が? 強盗と?

その瞬間、一筋の眩い光が見えた。それは高校生時代に私が勝ちへの軌道と呼んでいたものだった。光る軌道は真っすぐに犯人の胴を貫いている。見える。そして見えたときの私は、負けたことがない。つまり、今回も私は勝てるということだ。

相手はナイフを持ってる。けれどこのままでは、前にいたおばあさんのお金も私のお金も盗られてしまう。

行くしかない。

私は低く構えをとる。強盗はまだ私が何をするつもりか理解していないのか、間の抜けた顔をしていた。そのまま私は足を動かし、いっきに距離を詰めた。思いっきり足裏で床を蹴り、正面タックルをぶちかます。「うっ」という声を上げて、覆面の男が倒れこんだ。間髪入れずに私は彼の身動きを封じる。

「ストゥーピッド! ナイフ!」

自動扉越しにこちらを見ていたストゥーピッドが慌てて店に入り込んできて、男の手からナイフを取った。

「放せよ、くそ! もうこんな人生やってられっか!」

腕の中の強盗が泣きながら怒っていた。それを聞いた私はなぜかむくむくと怒りの感情がわいてきた。

「私のセリフよ! こんな人生、やってらんない! けど仕方ないじゃない。これは私の人生なんだから! 私以外の誰かに責任取ってもらうわけにもいかないじゃない!」

 自分の中のどこにこんな声量を隠し持っていたのだろうというくらい大きな声があたりに響いていた。強盗もストゥーピッドも目を丸くしている。それでも私の心は荒波の状態から抜け出せない。下手をすれば、今すぐ泣き出しそうだった。

 見えた勝ち筋。光の軌道。

 タックルをした瞬間、なにかが変わる気がした。立ち向かえば、運命が変わると思った。けれど、結局、変わらない。

世界は変わらないのかもしれない。漠然とそう思う。私は一生、冴えないOLなのかもしれない。けれど架空の世界ではのんびりOL桃香で、現実では強盗を倒したメダリストもどきかもしれない。

「人生は──」私は泣いていた。「自分で変えるしかないじゃない……」

 そうか。私は待っていたのだ。ようやく気がついた。

 弁護士事務所で働きながらも、のんびりOL桃香をやりながらも、いつか自分が本当の幸せと思えることと巡り合えてそのために辛い思いをしながらも生きることを選び取れる日を、待っていた。

 それが今日かもしれないと思った。なぜって、ストゥーピッドと会って、しかも強盗犯を捕まえたからだ。けれど明日になれば私は仕事場に行くし、またぶりっ子の後輩と清涼剤代わりのイケメンと会う。のんびりOL桃香を続けて、ハートマークをもらうためなら何だってする。けれど、そうじゃないのだ。私は、私の幸せは、きっとそれではないのだ。


 ***


 あの事件から半年がたった。しばらくは周囲をにぎわせた私の話題もすっかり風化した。あの日は、とくに運命を変えることはなかったけれど、私の幸せについて、人生について考える転機をくれた。

 のんびりOL桃香のアカウントは消した。表向きは、卒業という形を取ったが、実際は偽りの自分に飽きてしまったのだと思う。つまらなかった事務所も辞めた。高井戸さんのことは少し惜しかったけれど、あの事務所は私にはもともとあっていなかったのだ。今は田舎の農家の手伝いをしている。はじめは楽しかったけれど、これも私の幸せではなく、やはり東京に戻るつもりだ。

上手くはいかない。ままならない。私は私の幸せが何かについても、まださっぱりとわからない。

けれど、嗚呼、華麗なる人生。

それを掴むそのときまで、私は諦めないのだ。

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ストゥーピッドで華麗なる人生 北原小五 @AONeKO_09

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