サイコロ・テスト

千歳 一

サイコロ・テスト

 最後の物資を運ぶ便が夕日の向こうへ消えていく様を、俺は突き出した岩場から眺めていた。この時間帯は海沿いが涼しくていい。それに、たまには一人になる時間も必要だ。

 俺はアロハの胸ポケットから敵国産紙巻ラッキーストライクを取り出すと、周囲を確認してから火を着けた。このご時世、嗜好品は厳しく規制される。饅頭まんじゅうだって大っぴらに食べることが憚られるほどだ。

 だが俺は、俺たちは違う。最も尊い方法で国への忠誠を誓う我が分隊は、多少の贅沢には目をつぶってもらえる。むしろそれぐらいの優遇がないとこんなことはやってられないだろう。だがこの煙草は……見られるとマズいことになるな。

 汚い色の煙が波打ち際の潮臭さと混じる。大して美味くはないが、何かを咥えていないと気が済まないのだ。大きく吐いた紫煙の向こうに本土の影が見える。もう、あの土を踏むことはない。


「何をしている、森下少尉!」

 突き刺すような声で反射的に振り向いてしまった。

「よう、こんなとこで何してんだよ」

「冗談はよせ、水野」

 後ろには丸刈りで小太りの男が立っていた。子供の頃から変わっていないような丸顔を悪戯っぽく歪めている。

 俺はとっさに口元の筒を指で弾き、箱をベルトの尻に挟んだ。煙の臭いをごまかすために立ち位置を変えようとしたところ、目の前の坊主頭は目ざとく違和感を捕らえた。

「何だこの臭い、煙草か? 腐ってんじゃねえのか」

「……かもな」

 こいつは勘は良いが頭は悪い。俺は動揺が顔に出ないように短く答えた。

「ところでよ、今日こそはお前も来いよ。『牡丹ぼたんの会』」

「……」

 俺は何も答えなかった。水野は大袈裟にため息をつくと、近づいてきて俺の両肩に手を置いた。

「お前なぁ、いい加減隊の奴らとも仲良くした方がいいぜ。例えばほら、瀧本中佐なんかは士気と統率性を何より気にしてる。その辺上手くやんねぇと、お前次の飛行機で送り返されるぞ」

「その便ならさっきので最後だ。もう俺たちは返されないし、帰れない」

 水野は何か言いたそうに口を開いたが、酸っぱい息を小さく吐いただけで俺から二歩ほど下がった。

「とにかく、一回ぐらいはお前も顔を出せ。二十時から、牡丹の間だ」

「まぁ、考えとくよ」

 俺は上の空で返答する。水野は呆れたように頭を掻いた。

「……言っとくが、俺だっていつもお前の欠席理由をでっちあげるの大変なんだぞ。俺って嘘が顔に出るだろ? 先週は食あたり、先々週はひどい頭痛、その前は……って、おい!」

 俺は話にうんざりして宿舎の方へ歩き出した。岩場で躓きながら慌てて後を追う水野に、俺は軽く右手を挙げて答えた。

『心配するな』。その思いが届いたのか、彼はそれ以上何も言わなかった。


 この島に召集された当初から、この『牡丹の会』という存在は聞いていた。駐屯地となる旅館『空蝉荘ウツセミソウ』の大広間で週に一回行われるこの集いは、水野曰く「決起集会と称した下衆話の会」らしい。本来なら不敬罪だの公序良俗壊乱だので拘禁されること間違い無しの集まりだが、どうやらこの場に限っては大目に見られているらしい。どうせ彼らがどれだけ無遠慮に騒ごうが、一週間後には皆灰燼かいじんに帰すのだから、その行為を咎める必要はないというのが中佐の判断だった。

 自室の窓から外を見ると、陽は完全に落ちているが空は少し明るい。約束の時間まではまだ一時間ほどあるはずだ。煙草を吸いに外に出ようかと思ったが、下手にうろついてまた水野あたりに見つかったら厄介だ。俺は鉛筆を手に取って机に向かった。

 考えること一時間。紙に向かって頭を抱えるが、一文字も言葉が出て来ない。手紙を書こうと思ってから一週間は経つだろうか。両親への感謝の気持ちが無い訳ではないが、文字にすることは非常に難しい。意を決して鉛筆の先を紙に押し当てた途端、読み書きをすべて忘れてしまったような感覚に幾度となく囚われるのだ。

 ふと顔を上げると、外は完全に黒一色になっていた。

 まずい、俺は鉛筆と紙を脇へ押しやり、煙草の箱を机の隠し扉に投げ入れると、『牡丹の間』へ急いだ。


 広間のふすまを開けると、長机を挟んで十人ほどの同僚がいた。端に座っていた水野がこちらに気付くと、のそのそやって来て俺を輪に引き入れた。

 落ち着かない様子で席についていると、向かいに座っている小柄の出っ歯が薄ら笑いを浮かべながら尋ねてきた。確か小池とか言う男だ。

「森下クン、きみ来週の出撃が怖くて怖くてずうっと便所に籠りっきりって話、ほんまか?」

 爆笑の渦が起こった。俺が何も言わずに黙っていると、小池の発言を皮切りに茶化す声があちこちで沸いた。便所に机を移動させた、いかだを作って本土に帰ろうとした、海外に気触かぶれてメリケンの煙草を吸っている……。

 ちらと横を見ると、水野も周囲に合わせて薄ら笑いを浮かべている。根も葉もない噂で盛り上がるのは一向に構わない。最初は俺も笑って聞き流すつもりだった。しかし、『出撃が怖い』だけは聞き捨てならない。

 俺だってこの国の男児として生まれ、そしてこの国の烈士れっしとして死んでゆくことぐらい覚悟はできている。それが望みだとさえ思っている。この部屋の奴らと仲良くするつもりはないが、愛國心なら誰にも劣るつもりはない。その心を馬鹿にするだと? 到底許される所業ではない。

 頭に血が上ってきた。これは明らかに侮辱行為だ。誇り高き魂をけがされたまま死ぬことなどできない。俺は黄色い歯を出してニヤニヤ笑う小池を睨みつけた。


 険悪な雰囲気に気が付いたのか、机の端にいた大柄な男が声を上げた。

「まあまあ、怖いのか何だか知らねえが、どうせ一週間後にはここにいる奴らは全員死ぬんだ。今ぐらい仲良くやろうや」

 そう言って長机の真ん中に何かを放った。

「何だこれ?」

 全員の視線がそれに注がれる。一人が手に取り、そして大声を上げた。

「これ……敵性語エメリケンの雑誌じゃねぇか! 沼田お前こんな物をどこで……」

 そう言って食って掛かる男を、沼田と呼ばれた男は手で止めた。

「まあ聞けや。そいつは今日来た補給便の操縦士から貰ったんだ。南方戦線へ届け物する時に拾ったのを、隠し持ってたんだと」

 男たちは雑誌を見ようと周囲に集まり、代わる代わる手を伸ばして少しふやけたページをめくった。敵国の言語を見て露骨に嫌な顔をしていた奴らも、次第にその鮮やかな色使いの中身に目を奪われ始めた。

 水田も後ろの方で肥満体を揺らし、肩越しに中身を見ようとしている。俺は少し離れた場所から冷めた目で彼らを見ていた。全く以て馬鹿馬鹿しい。

 大和男児やまとだんじとは思えない色めき立った歓声が沸き起こった。そんな下品に肌を露出した女のどこがいいんだ。金髪に碧眼、玩具の人形ではあるまいし、色気を感じる要素など何処にも見当たらない。

「これは何だ?」

 一人の男がある箇所を指差した。無数の短文がページの中に列挙され、それぞれが矢印で結ばれている。村の互助会ごじょかいで配られていた火災時の指南書に似ているような気がする。

「何だこれ……ちぃ、あいす、ぷしくほぅ……おい、誰か読めんのか!」

「川原! お前これ読めるだろ! 何て書いてる?」

 以前に帝国陸軍の暗号予備学校で学んでいたという川原が、むりやり群衆の中心に引っ張り出された。痩せ身で挙動不審なところのある川原は、文章を指でゆっくりなぞりながら震える声で読み上げた。

「こ、これは、人間が今考えていること、もしくはその人の性格を、し、質問によって、判断できる問答集です……だ、そうです」

 全員がはあ? と言いたげに顔を見合わせた。

「どういう意味だ、そりゃ?」

 沼田は怪訝な顔をするが、別の男が何か気がついたように言った。

「そういや、あっちの兵隊の間で流行ってる暇潰しゲエムがあるって聞いたことある。もしかして、それのことじゃないのか?」

「ゲエム?」

「ああ。確か、心理問答サイコロ・テストとか言うんだ。簡単な質問にいくつか答えて、その回答によってそいつの性格とか、考えてることが読めるっていう遊びさ。いかにもきな臭い、陰湿な奴らの戯れだよ」

 へえ、という無関心な空気が流れる中、手を挙げたのは小賢しさでは隊一の小池だった。

「ほなら、そのテストで森下クンを試してみるっていうのはどうや? ほんまに怖ない言うんやったら、このゲエムがそれを証明してくれるよ?」

 半ば挑発のような言い方だった。周囲もそれに乗り出して煽る。もはや選択の余地はないようだ。

「……分かったよ」

 こうして、南蛮渡来の奇妙な遊びが始まった。

 長机を挟んで俺と相対するのは英語が読める川原。そして、俺たちを取り囲むように男たちが野次馬となっている。

「じゃあ、始めるよ……」

 俺は小さく頷いた。川原が質問文を読み上げる。

「一つ目、『あなたの目の前に、赤色と黄色と青色の扉があります。どの扉を開けたいと思いますか?』」

「……本当にそう書いてあるのか?」

 俺は思わず尋ねた。そんな質問で人の心の内が分かるはずない、そう怒鳴ってやりたい気分だった。

「え? う、うん、そうだね……。間違いないよ」

 川原は何度も文を指で辿る。俺は諦めたように低く答えた。

「……青」

 周囲からおお、とどよめきが起こった。どれを選ぼうが大して変わらないだろ。

 川原の指は、Blueと横に書かれた矢印の上を滑った。

「じゃあ二つ目、『あなたは車を運転しています。途中で道が二手に分かれ、左は山へ続く道、右は海へ続く道です。どちらへ進みますか?』」

「車など乗ったことない」俺は即答した。

「向こうじゃすでに一般的な移動手段だからね。なら徒歩でもいいんじゃないかな」

「右だ」

 こうして意味不明な問答を続ける事十回余り。いつまで続くのかと呆れ始めた時、ようやく質問が終わった。

 男たちが固唾を飲んで見守る中、川原は次のページの結果を読み上げた。

「……『質問の回答から読み取れることは、あなたには臆病者の性質がある。人を傷つける事を恐れ、大切な者を悲しませる事をひどく避けるあまり……』」


 すべて読むまでもなく、広間は喧騒で溢れかえった。

 脇腹を肘で小突く者。口笛を吹き、手を叩いて囃し立てる者。巫山戯ふざけて教育に関する勅語を大声で暗唱し始める奴までいた。

出鱈目デタラメだ!」

 俺は雑誌を投げ飛ばして絶叫した。そんな俺を見て、小池も沼田も薄汚く笑う。これ以上こんな与太話に付き合ってられるか。俺はまとわりついてくる同僚の一人を張り飛ばして立ち上がった。

 部屋を後にする俺の背中に、汚い言葉が次々と投げかけられる。「片道の燃料であいつは故郷に帰るらしいぞ」。

 好奇の目を遮るように、俺はふすまを乱暴に閉めた。


 部屋に戻ってからも、俺のやり場のない思いは収まらなかった。机に置いてある白紙を破り捨て、鉛筆をへし折って床に投げた。しかし、どれだけ机を殴ろうとも、椅子を蹴飛ばそうとも、向けられた悪意は消えない。

 息を切らして肩を落とした。時刻はもう十時になろうとしている。明日は早朝から上官を交えた会合があることを思いだした。

 今日はもう寝よう。布団を引っ張り出す気力もなく、俺は板敷きの床に横になった。



 ……俺は狭い操縦席の中にいた。訓練で何度も乗った一式戦闘機ハヤブサだ。だがこれは訓練ではない。これは俺に課せられた最後の作戦。この厚い雲の先には、確実な死が待っている。

 俺の心の中には微塵の恐怖もなかった。爆散する四肢も地獄の痛みも、全てを受け入れる覚悟があった。

 何が『臆病者』だ。何が『心理テスト』だ。あんな児戯で人の心理を測ろうなど笑止千万に他ならない。

 機首を下げ、雲を抜けた先には黒く波打つ海面が広がっていた。遥か遠くに目標の軍艦が佇んでいるのが見える。あの場所が人生の終着点だ。操縦桿を握る手に力が入る。

 船の全体像が明瞭になってきた。心臓の鼓動が早くなる。異様な集中力のせいで、小さな影の細部まではっきりと分かる気がした。甲板に人はいるが機銃はまだこちらを向いていない。突撃するには、この機会は逃せない。

 限界まで高高度を維持し、上から襲撃する。何度も頭の中で思い描いた航路を確認し、軍艦との位置関係を窓越しに確かめる。

 やがて視界から軍艦の姿が消えた。距離はあと千二百。急降下まであと五秒。俺はかんを奥に倒し、機首を強引に下に向けた。

 操縦席からの景色が急転し、曇天を映す灰色の海と黒い船影が中央に据えられた。狙いはただ一点、中央の機関部、檣楼しょうろうだ。

 極限状態の脳が俺に無数の情報を提供する。装備の種類、人員の数、彼らの向いている方向と恐怖におののく表情……。


 不意に、俺の目がある情報を捉えた。

 船内に逃げ込む船員の中に、一人の少女の姿を見つけた。男たちの走る速度に付いていけずに、突き飛ばされて転ぶ。

 それに駆け寄るもう一つの影。母親だろうか、少女を抱き抱えるようにして歩きだした。しかし、中へ入る鉄扉は残酷にも目の前で閉じられ、二人は船外に取り残された。

 迫り来る音で気が付いたのか、二人と目線が合った、気がした。両者の距離はみるみる近づく。

 燃え上がるような集中力が、そこで途切れた。憎きつわものは鳴りを潜め、代わりに力を持たぬ市民と対峙する構図。

  迷いは次第に心を埋めつくし始めた。この攻撃で真っ先に犠牲になるのは彼女らだ。敵国の人間といえども、銃後の市民を巻き込むことを俺は躊躇ちゅうちょしていた。

 機体の振動が大きくなる。計器類は異常な数値を警告している。前方いっぱいに軍艦が迫る。もう猶予はない────。

 俺は操縦桿が曲がるほど右に倒した。戦闘機は急旋回し、艦の国旗を掠めて飛ぶ。

 だが立て直す余裕はなかった。目の前にただ広がる海面。間に合わない。俺はきつく目を瞑った。

 気を失うほどの衝撃と、顔面を叩く硝子ガラス片。瞬時に赤く染まる視界。



 そこで俺は飛び起きた。消し忘れた部屋の白熱球の灯りで、やっと夢から現実に引き戻されたと理解できた。

 布団で寝なかったせいか、肩や腰が痛い。シャツは汗で重くなっていた。

 外はまだ暗い。夜明けまでは幾分か時間があるが、もう一度寝る気にはならない。このまま明日を待とう。俺は窓を開け、夜風を部屋に取り入れた。

 汗が引いてゆくのを感じながら、俺は椅子に腰掛けて考えた。


 あの夢は何だ?

 『本番』は幾度となく想像したことがあるが、ああまで真に迫った体験は初めてだ。そして、飛行機からでも視認できた、少女と母親。

 総力戦における軍人の覚悟とは、『人間の心を捨てること』。戦場に行く者、そうでない者。銃を持つ者、そうでない者。全員を皆殺しにして初めて、その兵士は英雄と讃えられる。そして……俺は、


 俺は、英雄にはなれなかった。

「クソッタレ……全部、あいつらのせいだ」

 馬鹿みたいに笑う同僚の顔が浮かんでは消えた。あの輩にさえ馬鹿にされて、どこか気が触れたのかもしれない。

 俺は大きく溜め息をつくと、考えるのを止めたように机に突っ伏した。

 どれだけ恨みと憎しみを募らせようとも、あと数回日が昇って沈んだ後には、全てが無に帰す。無駄に精神を病んで死ぬよりも、残り僅かな『生』を享受するべきだ。

 そして最後は英雄になる。俺は心に誓った。


 翌朝の会合では寝不足のため、数度張り手を喰らった。俺は周りの連中の顔を見ないようにして列に並ぶ。前日のことが尾を引き、俺を見ては周囲の奴らが噂する。

 瀧本中佐の言葉は大して俺の心には染み入らなかった。国のために尽くせ、敵国の人間は容赦なく皆殺しにする憎しみを持て、生き残ることを考えるな。どれも当たり前の精神だ。今さら怒鳴られるまでもない。

 会合中も、自室に戻ってからも、俺の意識は一つの事柄に傾倒していた。昨夜の夢だ。いやに現実的でどこか示唆的な夢は、俺の集中力を奪うには十分だった。

 だが、俺は余計な夢想に踊らされるほどではない。そう自分に言い聞かせて、手紙の執筆に取り掛かった。昨夜破った紙片は風に乗せて海に捨てた。相変わらず文面は一文字も進まないが、これを考えている間だけは、俺は余計なことを一つずつ忘れていける気がした。



 ……まただ。俺はまた操縦席に座っている。積乱雲の中を突っ切る戦闘機。乱気流の振動が怖いほど迫真めいていた。

 これは夢。手紙を書いている途中で眠りに落ちたんだ。そして、

 雲のとばりを抜け、眼前に戦艦を見た。前と同じだ。高い位置から急速に接近を試みる。

 俺は想定通りに操縦桿を倒した。機体は急制動で向きを変え、真っ逆さまに目標へと落ちる。

 全てが同じだ。俺は動揺を隠しきれない。夢だと分かっている。でも、逃れることができない。もどかしさに俺は唇を噛んだ。

 すでに、予想はできていた。甲板には逃げ遅れた女子供。そこに向かって一直線に落ちてゆく。昨日よりも細部が鮮明に見えた。彼女らの恐怖に震える目、子を抱く親の細い腕、敵へ向けられた憎悪の視線。

 俺は再び、反射的に軌道を変えてしまった。以前と全く同じ、艦の真上を通過してその向こうへ。しかし高度回復が間に合わず、海に叩きつけられる────。

 

 目が覚めた。

 まるで本当に溺れていたように息苦しい。真新しい夢の残響が、暗い視界にチカチカと瞬いている。俺は吐き気を感じて、窓を開け放した。

 ふと見ると、無意識に紙を握り潰していたようだ。クシャクシャになったそれを丸めて外に投げ捨てる。

 何なんだ、あの夢は……。昨日と全く同じ状況、同じ流れ。俺の行動まで何一つ変わらない。まるで俺の行動が運命づけられているように、自然に体が動いてしまう。

 時刻はまだ深夜にもなっていないはずだが、もう寝る気にはなれなかった。手紙の続きを書く気も沸かず、俺は布団を敷いた。

 かび臭い三畳一間で仰向けになって考える。夢の中での俺の行動。決して行ってはならない独断の挙動。あれは否応いやおうなく体が動かされたのだろうか。

 。まさか本当に、俺は恐怖で舵を切ったのか? 

 真意を確かめるためには、もう一度、あの夢を見るしかない。俺は目を閉じて呼吸を落ち着かせた。しかし一向に眠気は訪れない。

 結局、一睡もできぬまま空が白み始めるのを見た。もう『本番』まで時間がない。その時までに、またあの夢を見なければ。


 その日の夜、俺はまた夢に引きずり込まれた。夢の中だが意識は明瞭にある。一式戦闘機ハヤブサを駆り、一直線に敵めがけて突っ込む。

 しかし、艦上のその姿を見た途端、俺の意識は大きく揺らいだ。

 本当に殺していいのか? 別の自分にそう問われている気がした。全身に冷や汗が流れるのを感じる。

 気がつけば、俺は手を動かしていた。戦闘機の軌道を捻じ曲げ、ギリギリで衝突を回避する。それ以上は手の筋肉が固まったように動かず、そのまま水面へ────。


 ……まただ。また俺は避けてしまった。暗い部屋に荒い息遣いだけが響く。

 今日の夢で、一つ分かったことがある。

 俺は殺すことを恐れている。戦闘に無関係な弱者を巻き込み、諸共もろとも爆散することを避けたのだ。

 言いようのない絶望が押しよせる。あの『心理テスト』の通りだったのだ。

 俺は、人を殺すことが怖い。


 その日から、俺は考えることをやめた。一日中部屋の机で虚ろな意識に身を投じ、茫漠ぼうばくとした日々を送った。そして夜になれば、あの夢を見る。

 何度体験しても同じことの繰り返しだ。むりやり操縦桿をあらぬ方向に動かそうとしても、俺の脳がそれを許さない。いや、もっと深いところ。深層の心理が俺の挙動を操っているようにさえ感じた。

 一度、水野が部屋を訪ねてきたことがあった。以前にも増して塞ぎ込むことが多くなった俺を案じてのことだ。部屋の外では俺の噂は下火になり、代わりに『きたる日』に対する張り詰めた空気が満ちているという。

 しかし、流石に水野と言えども夢の話をするわけにはいかない。俺が何も答えず戸を閉めようとしたところ、彼は最後にある提案をした。

 一度、軍医に診て貰ったらどうだ。この島には常駐の医師が一人だけ居る。ここでは戦闘は起こらないから病気や疾患の治療が主になるが、話をするだけでも良くなるかもしれない。そう言っていた。

 話半分に聞いていただけだったが、水野が去った後に俺は考え直した。この島に来た初日、一度だけ顔を合わせたことがある。雨宮とか言う柔和な顔をした壮年の医師だ。それ以来一度も出会っていないのは、おそらくここにいる益荒男ますらおたちが病気などとは無縁だからだろう。

 逆に言えば、彼ならば信用できるかもしれない。俺は深夜になるのを待って、静かに自室を抜け出した。

 二階の廊下の突き当りに医務室は位置していた。戸の隙間から光が漏れている。俺は呼吸を整えると、戸を引いて中に入った。

 奥の丸椅子で雨宮は書籍を読んでいた。俺の来訪に気が付くと、本を閉じて対面の椅子を手で示した。

 神妙な面持ちで腰掛けると、待っていたように彼は口を開いた。

「心労だね。軽い神経衰弱ノイローゼになっているかもしれない。やはり、『あの日』のことかい?」

 雨宮の口調には緊張を解きほぐす効果があるように思える。俺は恥を承知で、今までに見た夢と俺の行動を包み隠さず話した。ただ、『牡丹の会』での出来事だけは伏せた。

 雨宮は顎を指で撫でながら数秒考えると、俺に尋ねた。

「夢の中だと恐怖心が働いて身体が言うことを聞かなくなる。そして作戦に失敗したところで目が覚める……か。では、起きている君はどうなんだい?」

「と、言いますと?」

「君が今すぐ飛行機に乗って、そのまま敵陣に特攻を仕掛けるとする。そこに夢の中と同じ女性と子供がいた時、君はそのまま突っ込むか否か、ということだよ」

「勿論です! 躊躇などあり得ない」俺は身を乗り出してそう言おうとした。

 だが、喉まで出かかって言葉にならない。散々上官から、国から訓示された帝国軍人としての覚悟を、俺は口にすることができなかった。

「……分かりません」

 俺は椅子に座り直し、小さく呟いた。

「鬼畜敵国の兵ならば一人残らず八つ裂きにする信念があります。しかし、無辜むこの市民を灰にすることは、……自分には正しいのか判断できません」

 雨宮は優しく微笑んで見せると、俺に寝台ベッドで横になるように言った。俺を簡単な催眠状態にし、気分を落ち着かせるのだと言う。

「今さら出撃志願の撤回は出来ないだろうが、私が君に丁種判定疾患ありの診断を下せば、本土にだって帰れるだろう。あまり自分の選択肢を狭めない方がいい」

 俺は仰向けで横たわり、指示通りに上半身の服を脱いだ。雨宮は俺の胸や腹に小さい湿布に似た物を貼った。その部分を中心に小さな痺れが生じる。

「一種の灸だ。心配することはない」

 頭上から声が聞こえた。やがて痺れは胴から四肢に渡る。頭まで到達した時、上から覗く雨宮の顔が歪んで見えた。周りの景色も色が溶け合うようにして崩れる。

 意識が遠のいてきた。毒でも盛られたか、そう思った時には視界は暗転していた。指の一本も動かせない。息が苦しい。どうなってるんだ……。



 暗闇の中、遠くの方から喧騒が聞こえてきた。多くの人間の会話、慌ただしく歩き回る音、何の楽器か分からない優しい音楽。

 意識が戻ってきた。相変わらずベッドで寝ているようだ。必死に目を開けようとするが、視界が戻らない。あと息苦しさもそのままだ。

 周囲に人の気配がした。雨宮先生か。声を上げようとしても口が塞がったように喋れない。

 ベッド脇の人間が何か話している。雨宮先生ではない。声が違う。そして、

 急に目の前が明るくなった。眩しさに思わず目を細める。

 僕を見下ろしているのは立派な髭をたくわえた白衣の男。タブレット端末を手に何やら操作をしている。横にはヘルメット状の装置を手に看護婦ナースが立っている。

 看護婦の介助で僕は上体を起こした。そして、我が目を疑った。

 果てが見えないほどだだっ広い空間に、無数のベッドが並んでいる。そして気持ち悪いほど整然と列を成すベッドの全てに、人が横たえられている。その傍らには冷蔵庫ほどの大きさの装置が据えられ、色とりどりのランプが絶えず点滅し続けている。照明が乏しく薄暗い雰囲気と合わさって、まるで死体安置所のような雰囲気だ。

 その隙間を縫うようにして、白衣を着た人たちが右往左往動いている。リノリウムの床を踏みしめる甲高い音があちこちで響いていた。

 訳が分からず戸惑う僕に、白衣の男が口を開いた。

「驚いたかね? 今が西暦何年か分かるかい?」

 面食らいながらも千九百……と呟く僕を、男は手で制した

「いや、やっぱりいい。恐らく本当の事を言っても混乱するだけだろう。文字通り、桁が違う話だからね」

 はあ、と僕は気の抜けた返事をした。

「何せ二十五年分の人生を数時間で追体験したんだ。無理もない。だが君には即座に理解してもらう必要がある。

 簡潔に言おう、君は『不合格』だ」

 唖然とする僕をよそに、看護婦がタブレット端末の画面を見せた。宇宙空間で巨大な星をバックに、大量の戦闘機のような物が乱舞している。鋭角で直線的なフォルムをした機体は青色のレーザー光線を断続的に発射し、画面奥の星を攻撃しているようだ。

 しかし星の一点が煌めいたかと思うと、そこから発した巨大な熱線が宇宙空間を一薙ぎし、戦闘機は次々と撃墜された。

「これは実際の宇宙戦争の様子だ。全部を説明する暇は無いが、人類は興味本意で版図はんとを広げ過ぎた結果、触れてはいけない存在に出会ってしまった。私たちの数十倍の文明を持つ彼らに、地球の兵器などまるで歯が立たなかったんだ。

 しかし、地球人には彼らにも負けないほど強い『意志』と『怒り』がある。それが憎き異星人を撃滅する唯一の突破口だと、我々は可能性に賭けた。

 効果は予想以上だった。性能スペックでも威力パワーでも負けている人類が、もっと根元的な根性ガッツで対抗する。何とも燃える展開だろう?

 そこで我々は、敵に対して極限まで怒りを燃え上がらせる者を選別することにした。なあに、単純な心理テストサイコロジカル・テストさ。遠い昔にとある国で行われていた思想教育と戦法を追体験させ、正しい方向に怒りを拡散できる人材を選別したんだ。そう、君がさっきまで体験していた人生だ。

 テストの結果、君には直接的な敵は殺せても、その背後にいる無関係の市民までは手を出せないという傾向があるようだ。それでは困るんだよ、生きとし生けるもの全てを焼き殺す覚悟じゃないと、ね。

 ……さて、話はこれで終わりだ。わざわざ受けに来てもらったのに悪いね。さあ、肩を貸そう。寝ていた時間は数時間とはいえ、体感では数十年に及ぶ。まともに立てないのも無理はないよ」

 そうして僕は別の隔離室のような場所に連行された。ここでしばらく滞在して健康状態をチェックされた後、家に帰れるのだという。


 その後、小さな部屋で日々投薬などを受けて過ごす中、僕はふと考えた。あの世界にいた僕の同僚、彼らは実在した人物なのだろうか。もう今となっては、名前も思い出せないけれど。

 そして、その中で確かに生きていた『僕』は、その後どうなったのだろう……。


 半月後、施設を出ることになった僕は職員から車のキーを返却された。とても久しぶりに乗る気がして心配だったが、ハンドルを握ると案外何とかなるもんだ。車で帰る先も無意識で分かっていた。僕はハンドルを右に切り、海岸沿いの道を進んだ。

 やがて、海辺に立つ小さな一軒家の前で車を止めた。白を基調とする素朴な木造は、どこか見慣れたような、懐かしいような感じがした。

 玄関の青く塗られたドアを軽くノックする。ごく自然な動作だった。

 そういえば、そうだったよな。

 やがてドアが開いて顔を出したのは、最愛の妻と最愛の娘。命に代えても惜しくない、この世で最高の宝物だ。

 たとえ夢の中であろうと、二人を殺すなど神に誓ってもしない。僕は久しぶりに再開したかのように妻と娘を強く抱き締め、言った。







「森下少尉、只今帰還致しました!」

 





 





 

 


 

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サイコロ・テスト 千歳 一 @Chitose_Hajime

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