親愛の果て
1-37 夢の景色
少年は、何もすることなく白い壁を見つめていた。それだけしか許されていなかったとか、そういうわけではない。ただ、他にやることが無かた。
彼には名前が無く、敢えて言うなら『識別番号一番』。
右手の甲に刻まれた数字で、少年は、人の形をした実験動物は区別されていた。
毎日同じような実験を繰り返し行われてきた。痛く、辛かったのは最初だけで、後からはその強烈な痛みにも耐性が出来ていた。
しかし、少年以外の実験動物達はそうではなかった。毎日の過酷な人体実験に耐え切れずに死んでいく者が殆んどで、同時期に造られた五人は全員死に、次に補充された追加の五人も十日以内に全員で死んでいった。
別に悲しくはなかった。知識だけを埋め込まれ、道徳というものを教育をされていなかったからというのもあるが、少年にとって他にいた十人の少年少女は皆、自分と同じ姿をした肉人形にしか見えていなかった。
何かが欠落していると思った。その何かが分からなくて、余計苛ついたことも覚えている。
そんなときだった。『彼女』が現れたのは。
『ヤッホー! こんにちは! 君が識別番号一番かな? 早速だけど、君に名前を付けてもいいかな? 呼びにくいったらありゃしない』
白い髪の少女だった。
少年はこの少女のことも、最初はやけにうるさい肉人形だとしか思っていなかった。
それに、きっと彼女も数日中に死ぬ。名前を付けて呼びあった所で、そんな物に意味はない。そう考えていた。
しかし彼女は生き残った。二日目も、三日目も、十日後も、二十日後も。
そしてその度に、彼女は少年にこう語るのだ。
『ボクは君に名前を考える。だから君も、ボクの名前を考えてくれないかな?』
少年はそれから一ヶ月後も、二ヶ月後も無視し続けた。しかし、少年は遂に三ヶ月目で折れた。折れてしまった。
『……じゃあ、フィリアで』
『ヤッターッ! 遂にジンが喋ってくれたーッ!』
『うるせえ。てか何だよ。そのジンってのは』
『君の名前さ。おおう、凄く嫌な顔してるね。じっくり考えた甲斐があるよ』
『うるさい』
名を得たばかりの少年は嫌そうに顔を歪ませてはいたが、少女が付けてくれた名前は、何故か深く心に響いていた。
それから三年が経ち、ジン達は十歳になった。
そして、遂にその日がやって来た。二人の運命の岐路とも言える、その日が。
その日の実験は、いつもとは違った。何かは分からないが透明な液体を、いつもの白衣を着た研究員が首に注射するだけ。それだけでその日の実験は終わった。
今日は随分と楽だなとジンは思っていたが、そう思っていたのは自分だけだったのだと、すぐに思い知らされた。
『ガ……アアアッ! 痛いッ! 痛いよッ! 助けて、ジンッ!』
いつもの実験を普通に耐えられる筈のフィリアが、注射器の中身を打たれた瞬間、全身の血管を浮き上がらせながら苦しみ始めたのだ。
その苦しみ方は尋常ではなく、今すぐフィリアの傍に駆け寄りたかったが、実験室は各部屋が厚さ三十cmの対衝撃ガラスで遮られているため、ジンはガラスを叩きながら苦しむフィリアを眺めることしか出来なかった。
『フィリア、フィリアッ!』
錯乱して叫ぶジンの姿を見て、フィリアは何がおかしいのか、苦痛の中一瞬だけ微笑んで、
『……ごめんよ』
ジンが手を伸ばそうとした瞬間、フィリアは口から大量の血液を吐き出し、そして遂に動かなくなった。
『…………そんな、嘘……』
フィリアが、死んだ。
三年間一緒に過ごした彼女が、こんなにも呆気なく。
研究者達は、動かなくなったフィリアに近付くと、まるでゴミでも捨てるかのように彼女を片付け始め――
『やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!』
プチンッと何かが自分の内側で弾けるような音がしたと思った瞬間、気付けばジンは目の前の透明な壁を突き破っていた。
目を見開く白衣の男達の頭部を砕き割り、ジンは血塗れの少女を抱き締める。
『フィリア! フィリア!』
死んだと思われていたフィリアだったが、微かにまだ息がある。
その事実にジンが安堵したのも束の間、警報を聞きつけ、武装した職員が一斉に部屋に雪崩れ込んできたのだ。
降参し、フィリアを助けるように懇願するジンに対し、だがその連中のリーダーと思しき者は無慈悲に、ジンにではなく味方に対してこう告げた。
『代わりならいくらでもある。その女の実験体は殺せ』
代わ……り……?
コイツらは何を言っている。フィリアの代わりなど、そんなもの、この世界の何処を探したところで見つかるものか。
『撃て』
合図と共に、銃弾の雨が迫る。鉛の豪雨が降り注ぐ。
――ああ、そうだ。やっぱりそうだった。
やはり幾ら考えても、ジンの考えは変わらない。
世界なんざ、お前らなんざ糞食らえだ。死ね。皆死んでしまえ。
貴様ら全員、死んでしまえ――!
《力が……欲しいですか……?》
その思いに応えるように、突如己が内側からナニカの音声が響き渡った。
――ああ、欲しい。欲しくて欲しくて仕方がない。
ジンは答える。
未知の体験を前に一切臆することなく、心の雄叫びをその声に叩きつける。
《その望む力とは、一体……?》
決まっている。コイツら全員皆殺せるだけの力を。
その力を、オレに寄越せッ!
《……了解。これよりあなたを我が主と認めましょう》
――さあ、皆殺しなさい。
その無機質な声を境に、その燃えるような激情を境に、ジンの意識は闇に落ちた。
次に目覚めたときには、ジンは塔の外にいた。
体が鈍りのように重い。記憶が曖昧だ。
吹く風をその身に浴びながら、ジンは意識を失う前の記憶を整理しようと――
「そうだ、フィリアは!? 何処に――――は?」
ジンがフィリアを捜そうと辺りを見渡した瞬間、入り乱れていた筈の思考が一瞬だけ全て消え去った。
在るのは壁。十年間ジン達を閉じ込め続けた、越えることの叶わない囲いの壁。
今ジンは壁の中にいる。しかしこの見覚えのない景色は何だ。塔は一体何処に――
「まさか、これが、そうなのか……?」
そこでようやく、自分の下にあるものが白亜の塔のなれ果てであることに気が付いた。今は変わりきった瓦礫の集合体にしか見えないが、所々に塔の内装が見え隠れしている。
「何……なんだよ……。そうだ、フィリア、フィリアッ!」
困惑しながらも我に返ったジンは、瓦礫の大山を掘り、唯一の家族を探し続けた。
一日が経ち、二日目が経過しても、彼女は生きていると信じて瓦礫の山を掘り続けた。
そして三日目になって、ようやくジンは彼女を見つけた。
「フィリ……ア……?」
右腕だけになった、彼女の亡骸を。
真っ赤な染みの中に遺された、「十二」の刻印を押された彼女の右腕を。
「ハハ、ハハハハハ……」
もう笑うしかない。
唯一の大切な人を亡くした。亡くしてしまった。
他の誰でもない、自分のせいで。
自分しか彼女を助けられなかった。技量云々ではない。そう動けるのはジンただ一人だけだった。
だがそれをしなかった。あの訳の分からない声を鵜呑みにし、彼女を助けるという道を自ら放棄した。
お前が。
お前のせいで。
お前が助けようとしなかったから。
お前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がッ!
お
慟哭と共に、ジンはその事実を受け止める。
「そうだ。オレのせいだ」
ありのままを、そのままの形で。
「オレはいたのに。そこにいたのに。誰よりも、あいつの近くにいたのに……!」
それでも助けられなかった。
一緒に生きていこうと心に誓っていた者一人として、助けてあげることが出来なかった。
「助けて」と彼女は求めていたのに。手を伸ばしてきたのに。
何も出来ぬままに、彼女を見殺しにした。
こんな世界に、彼女のいない世界に、一体何の意味があるというのか。
いや、違う。責任から逃れようとするな。彼女が確かに存在していた世界に、お前如きが意味を問うな。
寧ろ、意味がないのは、意義がないのは、お前の方じゃないのか?
彼女を助けられなかったジンの存在の、一体何処に、存在していい理由があるというのだ。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
既に、ジンには何も残されていなかった。彼の体の中を満たすのは、空っぽの虚無。唯暗いだけの空間が、そこには出来上がっていた。
とっくに狂ってしまっていた。狂いすぎてしまったが故に、正しいと思っていた心の在り方を見失った。
この日、ジンの心は死んだのだ。
《……いつ見ても酷いものですね。あの塔から解放されたのに、あなたの心はずっとここに囚われたまま》
幼き自分を俯瞰していたジンの耳に、トワの声が響く。
ジンと同じ景色を眺める彼女の声は、とても憂鬱げだった。
《こうして夢に見るのは一体何回目ですか? 幾ら見ても、結果は変わらない。彼女が居なくなったその結果だけは、どう足掻いてもひっくり返しようがないのですよ》
あの日からすっかり背が伸びてしまったジンに、トワは言い聞かせる。
《過去を忘れろとは言いません。ですがあなたには、前を見て今を生きて欲しい。自分を大切にして、生きていて欲しいのです。――すみません、この言葉は流石に酷でしたね。だってあなたの寿命は――》
それを聞き終える前に、ジンの意識は現実へと切り替わる。
だがそれを聞かなかったからといって、現実が変わるわけではない。
自分に残された時間は、あと僅かだという現実は。
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