1-36 ありがとう

 街灯無き暗闇を歩く中、もう少しで到着というところでジンは足を一瞬止めて、背負うアリサを一瞥する。


「なあ、アリサ。寝ているならいい。起きていても、聞き流してくれて構わない」


 寝息を立てる少女から反応はない。どうやら、本格的に寝てしまったようだ。

 そしてそれを確認すると、ジンは己が胸の内を曝け出した。


「オレは、お前という人間を尊敬している」


 嘘偽りの無い、ジン・ソルレイドの本音を。


「髪が緋い。たったそれだけのことで、そんな下らない理由で蔑まれて、迫害されて、辛かった筈だ。泣いた数も、きっと十や二十どころじゃないだろう。それでも自分は間違っていないと、決して折れなかったお前の強さを、オレは素直に尊敬する」

「…………」


 アリサは何も答えない。だが気のせいでなければ、力無く垂れる腕が、ピクリと微かに強張ったように見えた。


「このご時世、髪の色を誤魔化す方法なんて幾らでもある。身分を偽って、誰も自分を知らない場所で生きていく手もあった。それでもそれをしなかった。隠しはしたが、逃げようとはせず、最後までそれだけは守り通した。強いな、アリサは」

「…………」


 反応はなかった。眠ってしまっているのだから、それが道理だろう。

 故にジンは、心置きなく本音を吐露することが出来た。


「初めてお前の髪を見たとき、綺麗だと思った」

「……ッ!」


 今度は、気のせいではない。

 その言葉の破壊力を前に、とうとう無反応を貫くことが出来なくなった背中の少女が息を呑む気配が、確かにハッキリと感じられた。


 それでも気付かない振りをして、ジンは語るのをやめなかった。


「本当だぞ? オレの髪を見てみろ。ガキの頃からのストレスですっかり色が落ちてしまった。だからかな、男の癖に綺麗な色の髪が羨ましかった。お前の髪みたいな色がな。だからさ、身勝手かもしれないけど、お前にはこれからも負けないでいて欲しい。……はは、寝てる奴相手に何言ってるんだか」


 自分の奇行をおかしそうに笑うと、ジンはそれ以降何かを語ろうとはしなかった。

 言いたいことは全て言ったとでも言わんばかりに、温かな無言を貫き続けた。


「―――――」


 ふと、声が掛けられる。

 小さな、本当に小さな声だった。地面を踏む足音で掻き消されてしまう程小さな声。


 だがそれでも、ジンの耳にはしっかりと届いていた。

 素直でない少女の「ありがとう」の声が、しっかりと。


  ◆  ◆  ◆


 微かに、夢を見る。

 自分の原点とも呼べるあの日の夢を。


『ヒクッ……ヒクッ……!』


 この日も、私は泣いていた。

 理由なくお母さんに叩かれ、お父さんに叩かれ、「お前のせいだ!」と叫ばれて、家から追い出された。


『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい』


 前までは、ここまで酷くなかった。

 悪いことをしたときは怖かったけど、それでもいつもは優しいお父さんとお母さんだった。


 だけど、この光る木の枝が私のところにやって来てからは、お父さんとお母さんはいつも怖くなった。


『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい』


 叩かれた私のほっぺたがすぐに元の色に戻ると、お母さんは『悪魔め!』と言ってもっと私を叩く。

 お父さんはお酒を沢山飲むようになって、私の顔を見るたびに殴ってくるようになった。


 だけど、すぐ治る。

 お父さんやお母さんがどんなに酷いことをしても、私の体はすぐに元通りになる。


 けど、痛い。叩かれたら痛い。殴られたら痛い。何より、心が痛い。

 二人の泣きそうな目を見る度に、胸が苦しくなる。


『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい』


 そう謝りながら、私は見張りの人に気付かれないようこっそり夜の村を出て、森の中に入っていった。


 私がいなくなれば、お母さんたちはもう泣かないでいい。苦しまないでいい。


 だから、遠くに行こう。誰もいない、何処か遠いところに。

 森を抜けた。全然道が分からなかったのに、まるで森が私を助けるように開いてくれたお陰で、簡単に抜けることが出来た。


 次に、川を下った。目的地なんてない。ただ何となく、川に沿って歩いていった。

 そんな、歩いていたときだった。


『……あれ? 人が、倒れてる……?』


 川の側で、血だらけになった人が倒れている。


 私は急いでその人の元に駆け寄った。

 酷い大怪我だった。頭のてっぺんから足先まで血で真っ赤に染まっていて、生きているのか死んでいるのかも分からなかった。


『……ぅ……ぁ……』


 その人は生きていた。今すぐ死にそうなくらい弱々しいけど、確かに生きていた。


『ど、どうすれば……』


 だけど、私にはどうしようもない。こんな怪我を治すことは出来ない。


『どうしよう、死んじゃうよ……。この人死んじゃう……!』


 私はただ泣くことしか出来なかった。

 村に戻って助けを呼ぼうにも、そんなことをしている間にこの人は死んでしまう。


 かと言って、私では何もしてあげられない。


『ごめんなさい。ごめんなさい……!』


 謝ることしか出来ない。助けてあげられなくてごめんなさいと、ただ泣くことしか出来ない。

 お願い。誰か、誰か、


『この人を、助けて!』


 そう願った。声を上げてそう乞うた。


“――――――――”


『え…………』


 その願いに、答える声が聞こえた。

 頭の中に直接響くその声は、私にこう語り掛ける。


 掲げ、念じよ、と。

 私には、その声を手に持つ光る枝が発しているのだということが理解出来た。


 理由はない。理屈も分からない。ただ何となくそうなのだと分かったのだ。

 私は言われた通りに、その枝を真っ赤な人に近付けて、そして念じた。


『この人を、治して!』


 枝から発せられる光が、もっと大きく、より眩しくなり、その人を光で埋め尽くす。

 光で照らす度に、私の中から何かが出て行く感覚があったが、不安はなかった。


 その人の傷はどんどん閉じていって、青ざめていた顔色が回復していく。


『す、すごい!』


 こんな凄いことを自分がしているというのが信じられなかった。


 怖くなかったと言えば嘘になる。だけどそのときはそれ以上に、この人が助かるのがとても嬉しかったのだ。


『う……ぅん……』


 その人はすぐに目を覚ました。

 どうして自分が生きているのか分からないと不思議がってはいたけど、私を見ると、


『お嬢ちゃんが、治してくれたのか?』


 はい、と答えたかったけど、そのときの私はそれどころじゃなかった。

 この人を助けたい一心で力を注ぎ過ぎたせいか、今度はこっちが酷く消耗していたのだ。


『ありがとう。綺麗な髪のお嬢ちゃん』

『あ、え…………』


 何を言われたのか分からなかた。

 聞こえてはいた。その言葉の意味もちゃんと理解していた。


 だからこそ、混乱した。

 綺麗だなんて、生まれて一度も掛けられなかった言葉を贈られて、頭がごちゃごちゃになってしまった。


『あ、の……! 私、アリサって、言います』


 途切れ途切れの意識を繋いで、必死にそのことを伝える。

 そして聞き返す。


『あなたの、名前は……?』


 その人は朗らかに笑って、自らの名前を名乗ってくれた。


 そしてその答えを聞き終えた途端、私の意識は真っ暗になった。


 教えてもらったその名前を噛み締めながら、ゆっくりと眠りについたのだ。


 そのときの私にあったのは、あの人を助けられた満足感と、その人がくれた本当の感謝と愛情と、『綺麗な髪』という何よりも嬉しいあの言葉だけだった。


 これが、私の原点。

 愛されなかった私を本当に愛してくれた、あの人との思い出。


 けど何でだろう。どうして今になって、この夢を見ているんだろう。

 ああ。それはきっと、誰かに守られたことが、心の底から嬉しかったからだ。


 よりによってあの人に守られたというのが、癪ではある。不本意でもある。だけど、


「守ってくれて、ありがとう……」


 微かな意識で、その言葉を伝える。


 誰かに背負われるなんて、本当にいつ振りだろう。

 久し振りに感じた人の背中は、とっても温かかった。

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