推し活の終わり

諸根いつみ

第1話

 わたしには、尊敬している友人がいる。彼女と知り合ったのは数年前。彼女は、わたしが所属していた超能力会に、透明になれる能力があると申告して入会してきた。その能力を発揮できるのは、誰も彼女を見ていない時に限られるということだったので、誰もその能力を認めることができなかった。のちに彼女もわたしも、人間関係の問題で超能力会を脱退したあと、実は、友達欲しさに、様々なサークルに闇雲に登録していただけだったということを彼女は打ち明けてくれた。

 その後、彼女は当時のアルバイト先の社員の男性に対するストーカー行為によって書類送検された。起訴は免れたものの、やっと自分のしたことの重みを受け止めて精神的痛手を負った様子だった。わたしは、彼女の異常さに若干ひいてはいたものの、反省した様子には素直に感心し、友人付き合いを続けた。

 数か月かけて立ち直ったあと、彼女はあるメジャー男性アイドルグループのファンになった。それまで、彼女はアイドルにはまったく興味のある様子がなかったので、とても意外だった。彼女によると、たまたまテレビで見かけた時、一人のメンバーの声に聞き惚れたという。そのうち、彼の容姿や性格も好きになり、「沼落ちした」のだ。ほかのメンバーに興味はなく、その一人がいいというだけで、音源やらライブ映像やら雑誌やらを収集し、コンサートへ行ってグッズを買い集めた。

 わたしには正直、彼女が惚れた彼の声のよさもわからなければ、彼女の主張する容姿や性格の特別さもわからなかった。目尻の角度が尊いだとか、ファンへのメッセージににじみ出るさりげない愛が世界最高レベルであるとか、彼女の熱い主張は、わかるようで微妙にわからない。グループ全体にも興味は持てなかった。もちろん、客観的に見て、彼がイケメンだということはわかったが、わたしにとっては、よくあるアイドルグループのよくいるメンバーの一人にしか過ぎなかった。

 それでも、彼女がずっと話しまくるので、そのグループのディスコグラフィからデビューまでの経緯や活動履歴、アイドル業界における立ち位置から、彼女のお気に入りの彼の性格や趣味嗜好も覚え込まされてしまった。

 どうしてわたしが好きでもない芸能人の好きな食べ物や好きな酒の銘柄、お気に入りのアーティストやペットの犬種と名前、かつて言った、冴えていた冗談や学生時代の初恋のエピソードまで把握しているのかと不思議な気持ちになることはあったが、興味のない話を聞くことも苦痛ではない性分のおかげで、割と楽しんで彼女の話を聞くことができた。

 彼女も楽しそうだったし、実生活でいろいろと大変なことがあっても、趣味が充実していて大いに結構だと思っていた頃、彼女が、彼を好きな気持ちが強くなりすぎてつらいと言ってきた。

「しばらくすれば熱も引くってわかっている。今まで何度か経験してきたことだ。でも、つらいことには変わりがない」

 いつものファミレスで、いつものミニハンバーグとメロンソーダを前に、彼女はそう言った。わたし自身は経験がないが、推しがいる人には、よくある悩みなのだろうなと思った。

 いつものペペロンチーノを巻きながらそう言うと、彼女は、「完全に同意する」とうなずいた。

「その気持ちをコントロールすることが人としてのまっとうな道だ。特にわたしはストーカーの前科がある。もう二度と道を踏み外してはいけないとわかっている」

 彼女の推しは、国民的知名度があるわけではないが、それなりに規模の大きいコンサートもするメジャーアイドルなわけだから、どうやってストーカー行為ができるのか、わたしにはよくわからなかったが、有名人もストーカー被害に遭っているというニュースもあるし、する側のやる気があれば可能になってしまうのだろう。

 正直に言うと、彼と付き合いたい気持ちがある、と彼女は彼の名前を出した。

「でも、そういう考えは、社会的にだけではなく、根本的に間違っているということがわかったんだ。社会的動物である人間として」

「社会的動物?」

 わたしは目をしばたたいた。彼女は続ける。

「人間は、ただの動物から社会的動物に進化したことで、感情面でも進化してきた。彼と付き合いたいというのは、非常に動物的、本能的な愛から来る欲求に過ぎない」

「本能的な愛とはつまり……子作りしたいということですか?」

 わたしは結果に重点を置いた言い回しをした。彼女は、「その通り」とうなずく。

「メディアの発達によって、そのような本能的な愛は、一部形をゆがめられてしまったんだ。というより、わたしたちの現実認識能力が、科学の発展に追いついていないと言うべきかな。わたしたちの脳は、サバンナでマンモスを狩っていた頃から、それほど変わっていないらしい。それなのに、文明はすごいスピードで発達した。世界と、人間の脳内世界に、齟齬が生まれてしまったんだ。テレビやネットなどが発達したことによって、どうしたって手の届かない人にガチ恋するなんてことが起こってしまうのも、その結果のひとつだ」

 少しわかる気がした。「なるほど」とうなずくわたしを見て、彼女は続ける。

「しかし、さっきも言ったように、人間の感情は進化している。愛ひとつ取っても、性愛や親子愛などの本能的なもの以外に、神への愛や人類愛なども生まれてきた。ま、わたしの中にはそんな愛はないけど。でも、わたしの中にも見いだせる、社会的動物としての高次元な愛があることに気づいたんだ」

「高次元な愛、ですか」

「ああ。それこそが推しへの愛だよ。それが特別なものだとは言わない。要するに偶像崇拝さ。見返りを求めないわけでもない。遠目に、もしくはメディアを通じて推しの姿を見て、声を聞けるということが見返りであるからだ。しかし、特別なものでなくとも、メディアを通じた情報の享受によって愛が生まれ、愛による消費行動によって、推しの生活を金銭的に支えるというのは、ある程度高度な社会システムの中でしか不可能な営みだろう。わたしはそれを尊いと思う。高次元な社会の中の高次元な愛だから。それをわざわざ、恋人や家族のような、動物的でありふれた形に貶めることに、なんの意味があるだろう」

 わたしにはわかった。きっと彼女は、彼と付き合いたいとか、結婚したいとかいう気持ちを必死で打ち消そうとしているのだろう。わたしは感心した。

「立派な考えだと思います」

「だから心配しないでくれたまえ。わたしはもう道を踏み外すことはない」

「わかってますよ。心配なんてしてません」

 わたしは微笑んだ。

「そうか? なんだか、勝手に心配されているような気になってしまってな。きみがわたしと友達でいてくれているのも、わたしを心配してくれているからなんじゃないかと」

「そうじゃないです。ただ、あなたと一緒にいるのが楽しいんですよ」

「変わった人だな、きみは」

 彼女の笑顔は、本人が主張するほど醜くはなかった。

 その時、彼女は突然お腹を押さえ、「痛い、痛い」とうめき始めた。

「え、どうしたんですか!?」

 わたしはうろたえ、彼女が返事をしないので、これは大変だと立ち上がった。

「じゃん」

 彼女がセーターのお腹から取り出したのは、クッキーの入った小袋だった。いつの間に仕込んでいたのか。

「ジンジャークッキー焼いたんだ。受け取れ」

 力の抜けたわたしは笑いながら腰を下ろす。

「また引っかかっちゃいました」

 彼女は、このようなドッキリやいたずらじみたことを時々やる。

「ありがとうございます……って、粉々じゃないですか」

「それはもとからだ。勘弁しろ」

 わたしたちは笑い合った。

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