2.血の糸

 俺が『解除術』を習得するために特訓をんでいた頃。


「一号君。『約束やくそく』しましょう」

 透子さんは俺に向かって唐突にそう言った。

 約束……?なんだろう。あと何日なんにち以内いないに『解除術』を覚えられるか、具体的ぐたいてき目標もくひょうを出せということだろうか。

「えっと、じゃあ……後一か月くらいで覚えます」

「……違う。君が思い浮かべてる約束とは別物よ。私が言った『約束』は、催眠術の習得における重要な工程こうていの一つ。……一号君、どうして催眠術を覚えることは、こんなに難しいんだと思う?」

「俺が聞きたいです」

「それはね。多くの人間が『結果を努力や苦悩くのうとイコールだと勘違かんちがいしているから』よ。苦しみ、悩まねば結果は出ない。そういった偏見へんけんが、成功のイメージをさまたげているの」

 確かに……ただうんうん想像とも着かない、都合つごうのいい妄想もうそうをしているだけで催眠術なんて習得できるのだろうかといううたがいは、特訓を始めてから今までずっと思考の片隅かたすみにあった。

「真に結果を出す人間は、いつだって根拠こんきょのない自信にあふれているものよ」

「つまり……俺もそういう人間になればいいと?」

「それが理想ではあるけれど……偏見というのは一朝一夕いっちょういっせきのぞけるものではないわ。こういう実証じっしょうが難しい分野ぶんやのものは特に。だからその偏見は取り除くのではなく、利用する」

「利用?」

「『苦しみ、悩まねば結果は出ない』……裏を返せば『苦しみ、悩めば結果は出る』ということよ」

 何となく、透子さんの言いたいことが分かってきた。

「あなたが習得しようとしている『解除術』に、不都合ふつごうな条件を付け足していく。例えばここ、『おけはな高校の図書準備室でなければ発動できない。』……など。そういった約束事を増やせば増やすほど、都合のいい妄想が不都合な現実に近づいていくはず……さぁ、自分自身に『約束』するのよ。一号君」


 そうして俺は自分自身に様々な約束を取り付けた。その度に『こんな不都合な能力なら、俺にだって扱えるかも』という気持ちが強くなっていき、ついには『解除術』を習得するに至ったのだ。

 取り付けた約束は全部で五。以下の通りである。


1.桶花高校の図書準備室内でなければ発動できない。

2.発動には解除する術によって相応そうおうの時間をかけなければならない。

3.発動中は対象者の体の一部を触っていなければならない。

4.対象者にかかった術の効果を把握はあくしていなければならない。

5.自分自身にこの術を発動することはできない。



・・・・・・



大概たいがいの術師は、複数の約束で自分の催眠術を底上そこあげ、もしくは安定させている。例えば私は、『体の一部を見せなければならない』とかね。この横江美和も例外ではないわけだけど……和真君。彼女の約束の内容が分かる?」

 透子さんにさそわれ、町の平和を守ると意気込いきごんでから数秒。透子さんが、図書準備室の椅子にしばり付けられ口をガムテープでふさがれた横江美和を指差ゆびさした。

「もごーっ!」

 横江がうなりながら椅子をガタガタと揺らす。

 そういえばクラスで見かけないなと思ったら、こんなことになっていたとは。

「あの……透子さん、これは一体」

「いいから早く答えなさい。彼女の約束は何?」

「そんなこと言われても、見当もつかないというか……」

「彼女が催眠術を使おうとした時のことをよく思い出すのよ。そこにヒントはあるわ」

 言われた通りに、思い出してみる。

「そういえば、直前で指を構えてたような……『発動時に指を鳴らさなければならない』とかですか?」

「三点」

 あまりに短かったので、それが批評ひひょうであると気づくのにすうしゅんかかった。

「……ちなみに、何点満点中ですか?」

「もちろん百点満点中よ。彼女は他にもっと大きな約束をしている。ズバリ、『施術せじゅつ対象たいしょうと会話すること』と『その会話内で自分の台詞の頭文字かしらもじを、繋げて上書き元の名前にする』……という二つの約束を設けてるはずよ」

 透子さんが指を二本立てる。一つ目は分かるが、二つ目は少し何を言っているか分からない。

「えーと……?」

「まだ分からないの?あの時を思い返して、彼女の台詞の頭文字を繋げてみなさい。あなたの名前である『いわくらかずま』になっていたでしょう?偶然ぐうぜんとは考えにくいし、おそらく約束の一つだと見て間違いないわ」

 ……いや、随分ずいぶん簡単に言っているが、紙に書いて残していたわけではあるまいし、いちいち会話の頭文字がなんであったかなど確かめようがない。

「……じゃあ、この子に直接聞いて答え合わせと行きましょうか」

 透子さんが横江の口に貼られたガムテープをべりりと剥がす。

 口元が自由になった横江は大きく息を吐くと、こちらを見据みすえて喋り始めた。

「いやぁ、まさか気付いてたなんて……そぐぶっ」

 横江の台詞せりふ途中とちゅうで呻き声に変わる。透子さんにほほを思いっ切りビンタされたからだ。

「ちょっ、透子さん!?」

「私の言った通りでしょう?こいつの台詞の頭文字は『い』だった。このおよんでまださからおうってのね」

 横江が口の血を床に吐きつける。打たれた頬はあざやかな血色けっしょくに染まっていた。

「……一度そうしただけで疑われぐぶっ」

 透子さんがもう一度ビンタする。

「いつまでやるのこのくだり。もう少しぐぶっ」

 透子さんがもう一度ビンタする。

 聞いていれば、確かに横江は台詞の始めを何度も『い』で始めている。偶然ではなさそうだ。

 どうやら透子さんの推測すいそく通りだったらしい。たった一回で見抜みぬくとは、大した洞察力どうさつりょくだ。これくらい頭が回らねば、催眠術師は務まらないということだろうか。尊敬そんけいすると同時に、計り知れない感じが少し怖かった。

 透子さんが手のひらをプラプラさせながら、横江を見下みおろす。

「次に台詞を『い』から始めたら、本気で行くわよ」

 横江の『人格上書き』には『発動時に指を鳴らさなければならない』という約束があるはずだ。この推測は透子さんも三点くれたのでおそらく正しい。であるならば、彼女の両手が椅子に縛り付けられている以上、彼女の催眠術さいみんじゅつふうじはそれで済んでいる。彼女の台詞まで縛る必要はない。

 それでも透子さんが鋭い目つきで命令するのは、用心ようじん以上いじょうに、服従ふくじゅうさせようという意思があるからだろう。

「……『い』ぃー……」

 横江は透子さんを正面から見上げ、びした一文字を放った。今催眠術を使えないのは横江自身が一番分かっているはずだ。その上で、会話をよそおうことすら放棄ほうきしてつぶやかれた一文字には、絶対に服従しないという意思が感じられる。

「……本気で行くって言ったわよ」

 透子さんが静かに手を構える。しかしその手の形は今までの平手ひらてとは違い、指を一本立てた形だった。

 俺はその手を知っている。その立てられた指が降ろされた時、それをてしまった時、何が起こるか知っている。

「『苛烈幻覚』」

 大きく、長い針が横江の体をつらぬいていた。

「え……」

 横江が自分の腹から突き出たそれを眺める。貫かれた箇所かしょの衣服がみるみる赤い血で染まっていく。針の表面もまた、今こいつの体を通ってきたぞとばかりに、同じ血の色でてらてらとにぶく光っていた。

 ずずっ、と体内から肉をかき分ける音が聞こえる。最初の一本の近くから二本目、三本目と続いて針が横江の体を貫く。まるで鉄の獣が、そのきばに突き立てて内側から体を食い破っているかのようだ。

「っあ、があああああっ!」

 図書準備室に断末魔だんまつまが響く。

 横江が血反吐ちへどを吐く。先ほど吐いた血液混じりの唾液だえきとは、量も赤黒さも違っている。

 彼女の眼球はせわしなく震えており、顔をらす汗の量も尋常じんじょうではない。体を縛られているためのたうち回ることもできず、痛みは蓄積ちくせきされ続けていることだろう。

 それでも透子さんに幻覚を消す気配はない。どころか針山の場所が、腕に、頬に、三つに増えていた。

「あぐ……あぁ……」

 ひとしきり叫び声を上げた後、横江は意識を失った。顔面がんめん蒼白そうはくと呼ぶほかない、悲痛ひつうにひきつった面持ちで固まっていた。

 横江が気絶したのを確認して、透子さんは短く口を動かした。

「眠るな」

 その一言で横江の体がビクリとねる。閉ざした意識は無理矢理むりやりにこじ開けられ、とっくに溢れた痛みを、再び濁流だくりゅうのようにそそまれる。

 ……むごい。

「透子さん……ちょっとやりすぎなんじゃ」

 もちろん、彼女のことは嫌いだ。二号を苦しめた犯人なのだから。……それでも、彼女を可哀想に思ってしまうくらい、この情景じょうけい陰惨いんさんきわまりなかった。

「……どうしてあなたが彼女の心配をするの?」

 透子さんが首を回し、横江から俺へ視線を向ける。

 その瞳は冷たく、彼女への仕打しうちに、何も疑問を持っていないようだった。ぞくり、と背筋せすじ悪寒おかんが走るのを感じた。

「ごめ……なさい、言うごど、聞ぐからぁ……やめて……もぉ……」

 体の内、無傷の箇所が半分以下になった頃、横江は口内こうないから生えた針でズタズタになった舌でそう言った。

 次の瞬間、幻覚は解けた。夥しい量の針はすっかりなくなり、破れた衣服も体に開いた穴も流れ出た血も全て消えて、ただ横江の体の震えだけがその場に残っていた。

「……拷問ごうもんは終わりね。さぁ、尋問じんもんを始めるわよ」

 横江が小刻こきざみに何度もうなずく。その素振そぶりは従順じゅうじゅんな子犬を思わせた。恐怖で支配された人間は、かくも弱い。

 透子さんが横江に問う。

「どうやって催眠術を習得したの?」

催眠さいみんじゅくに通って……」

「催眠塾……?」

 横江の言葉を繰り返す。聞いたことがない言葉だ。

「駅から離れた所の廃ビルに住んで、塾みたいに催眠術を教えている人が居て……」

「その人間の名前と、素性すじょうは」

「……私と同じ歳ぐらいのカップルです。名前は、本名かどうか分かんないけど……女が『花輪はなわみちる』、男が『躯川くがわまこと』って名乗ってました。それ以外は何も」

「花輪……」

 横江がげた二つの名前の内、女の名前に透子さんが反応する。何か心当たりがあるんですか。と聞く前に、透子さんはすでに次の質問にうつっていた。

「その二人も、『現代催眠学基礎論』を持っていたのね?」

 透子さんが真っ青な背表紙のそれを取り出す。横江はそれを一瞥いちべつして、小さくうなずいた。どうやらこの催眠術の教科書は、ふく数冊すうさつ存在そんざいしているらしい。

「あなた以外に催眠術を習った人間は居る?」

「いっぱい居ました。ものこばまずって感じで、片っ端から色んな人に教えてました」

 いっぱい……横江以外にも、催眠術を悪用している術師が居るのか。

「その二人の目的は分かる?」

「えっと、分かんないです……」

 よどむ横江に対して、透子さんが無言で指を立てる。

「ほ、本当に分かんないんですって!何も言われなかったし、私も聞かなかったし!」

 横江が椅子をガタガタさせながら弁明べんめいする。この焦り様、加えて拷問時の態度もまえると、これが嘘であるとは考えにくい。本当に分からないのだろう。

「その二人と接触できる?」

「はぁ……私一人なら、多分……」

「そう。あなた、私達の仲間にならない?」

 俺は耳を疑った。横江を、仲間にするだって?

 当の横江も、突拍子とっぴょうしのない提案ていあんに顔をほうけさせている。

「ちょっ、何言ってるんですか透子さん!こいつを……仲間にするなんて」

「メリットはあるわ。警戒けいかいされずに黒幕くろまくの情報を探れるのは大きい……それとも、これ以上悪い催眠術師が増えるのをだまって見ていろと言うの?」

「だとしても!こいつは二号を苦しめた犯人で……」

「何よ。さっきはこの子のこと心配してたじゃない」

「それとこれとは別です!」

 透子さんが、ふぅ。と溜息をつく。

「……合理的に考えなさい。この子には利用りよう価値かちがある」

 これ以上の議論はしない。そんな視線が俺にさる。俺は何も言えず、口をつぐんだ。

「それで、横江さん……だったかしら。あなたはどうするの?私達の仲間になるか、それとも……」

 透子さんが指を構える。すると横江は勢いよく答えた。

「なります!なりますなります!」

 しかし、その顔に焦りはなく、喜色きしょくに溢れていた。おどしにくっしたというより、心から望んで肯定したようだ。

「だって仲間になったら、和真君と一緒に居られるもんね」

 横江が俺に向かってにこりと笑う。屈託くったくのない笑顔だ。だがその屈託のなさは、同時に罪悪感のなさも示している。

 とどのつまり、こいつは今回の事件に対してなんら反省していないのだ。

「っ、ふざけるなよ!はっきり言うが、俺はお前が嫌いだ!」

「うんまぁ……今はそうなんだろうけど、そこもこれからの頑張り次第しだいかなって!私頑張るよ和真君!和真君の仲間としてすっごいいっぱい役に立つからさ!そしたら私のこと……好きにならない?なるでしょ?」

「……ならねぇよ!」

 あまりの話の通じなさに、ぎた怒りが沸々ふつふつかえってくる。こんな奴のせいで、二号は。

「透子さん!俺、やっぱり……」

 抗議こうぎの意を込めて、透子さんの方を見る。しかし透子さんはピンと来ていない顔で、首を傾げる。透子さんにとって、横江がしたことはその程度ていどのことだったのか。

「そんなに嫌……?」

 まるで子供の駄々だだを一歩引いて眺めるような眼だった。



 俺は、透子さんを盲信もうしんしていたのではないだろうか。

 原因不明の事態に見舞みまわれた俺達に催眠術の如何いかんを教えてくれた。そして『町の平和を守る』という発言。そこから勝手に正義の味方であると、俺の味方であると思い込んでいた。しかし実際は違うのではないだろうか。

 事実、躊躇ちゅうちょなく人を拷問にかけたり、かと思えばその人間を仲間にしたりしている。俺の中で、横江は到底とうてい許せる存在ではない。仲間などと呼称こしょうする関係にあってはならないのだ。

 しかし、透子さんは『利用価値があるから』と、横江を仲間にした。

 俺も、そうなのではないか。俺が習得した『解除術』に利用価値があるから、弟子ということにされたのではないか。

 そう考えると、取って付けたような『町の平和を守る』という発言も怪しくなってくる。この発言は嘘で、本当は他の目的があるのではなかろうか。そんな気もしてくる。

 透子さんを、信じていいのか?



・・・・・・



 朝、教室はザワついていた。よく知らない女の人が教室で座っているからだ。何を隠そう透子さんである。

「あのー……透子さん。そこ私の椅子なんですけど……」

 横江が透子さんに話しかける。透子さんは横江の席に腰を下ろしていた。

「ええ、だから座ってるのよ」

「私はどこに座れば……?」

「そこら辺に立ってなさい」

「……はーい……」

 横江はすごすごと自分の机の横に立ち、姿勢しせいを正した。

 教室の皆はその様子を見て、なんだこの女はという視線を強める。同クラスの浅田泉さんも同じような視線を向けていたが、すぐに目をらした。あまり俺達と関わりたくないのだろう。少し寂しい気もするが、気持ちは分かる。

 しかし俺は関わらざるをえないので、渋々しぶしぶ注目ちゅうもくを受けながら透子さんに話しかける。

「透子さん。なんで俺達のクラスに?」

「横江さんの話だと、まだまだ野良のら催眠術師さいみんじゅつしが居るみたいじゃない。あなたの解除術にまだ『自分自身にこの術を発動することはできない』という約束が付いてる以上、私が側に居ないのは危険だと思って」

 透子さんは当然の処置しょちだというような顔で言った。

「いや、でも学年が違いますよね……」

 そう言おうとした所で、気付く。シャツのえり刺繍ししゅうされているこうしょうのデザインが、俺のと透子さんのでみょうに違う。

 たしか前にマイナーチェンジがなされたとは聞くが……それは五年以上前だったはずだ。

「目ざといわね和真君。言わなければバレないと思っていたのだけど」

 透子さんが首筋をく。旧校きゅうこうしょうかくれした。

「……透子さんって、何歳なんですか」

「秘密」

 とてもストレートにはぐらかされた。思えば、俺は透子さんのことをほとんど知らない。

「なんで図書準備室に住んでるんですか」

「秘密」

「何で図書室に『現代催眠学基礎論』が置いてあるんですか」

「秘密」

「『町の平和を守る』って本気ですか。なんで俺を催眠術師にしたんですか。好きなパンなんですか」

「スナックパン」

 一番どうでもいい答えだけ返ってきた。この怪しい態度に、不信感ふしんかんがより一層いっそうつのっていく。

 そんなことを思っている内にホームルームが始まる。担任がやってきて、教壇きょうだんに立つ。一定の視線が前に集まり、ひとまず喧騒けんそうは収まった。

「はーい、突然ですが、今日はこのクラスに転校生がやってきまーす」

 クラスの視線がもう一度透子さんに集まる。さては催眠術を駆使くしして裏口うらぐち入学にゅうがくでもしたのではないか。

 そんな俺の思考をさとったのか、透子さんがこちらを見る。

「私じゃないわよ」

 透子さんの宣言通り、転校生は教室の外からやってきた。扉を開けて、教室に姿を現す。

 その人影ひとかげは一人ではなかった。一人扉をくぐれば、後ろからもう一人、ぞろぞろと列をなして教室に入ってくる。その全員が入り終わる頃には十人の人間が黒板の前に並んでいた。

 その人間達は制服も着ておらず、服装も年齢も性別もバラバラだった。ただその中で共通点が一つ。全員、眼の焦点が合っていない。

 彼らが転校生ではないことは一目瞭然いちもくりょうぜんだった。部外者が校内に居る異常いじょう事態じたい。しかし、担任はそのことについて触れる気配はない。どころか、よく見れば担任の眼もさだまらず揺らいでいるのが分かった。

 不気味な空気が流れる。教室のそこかしこから疑問ぎもん困惑こんわくの声が聞こえる。

 その中を、前に立つ人間の一人が動いた。十代の男子、ジャージとパーカー。その一人だけは胡乱うろんな瞳をしていない。その視線は、透子さんを捉えていた。

 男子が視線にガイドを付けるように、透子さんを指差す。そしてこう言った。

「『気絶きぜつさせろ』」

 その言葉と同時に、男子以外の担任を含めた十人が、教壇近くから透子さん目掛めがけて駆け出す。

 いくらうとくても確信する。あいつは催眠術師で、これは攻撃だ。

「透子さん!」

 防御しなくてはと透子さんの前に出ようとする。それが完了する前に、十人は五組になって、それぞれ互いにクロスカウンターを決めて教室にしずんだ。

「……えっ」

「きゃああああっ!」

 女子生徒の一人が、叫び声をあげる。それを皮切かわきりに、教室全体が騒然そうぜんとなる。席から立ち上がり、倒れた人間から離れる生徒も居た。目の前で人が殴り合って気絶したのだ。それ以前の不可解ふかかいな状況もあって、困惑がきわまってもおかしくはないだろう。

 俺だって、透子さんの能力を知らなければ他の生徒と一緒になっておろおろしていたと思う。いや、知ってはいたがその上でしんがたい気持ちもある。あの一瞬で、十人それぞれに違う幻覚を見せただなんて。

「私を標的ひょうてきにしていると分かれば、私の姿をそれぞれにけるだけ。造作ぞうさもないわ」

「やっぱり、味方にするとたのもしいなぁ」

 倒れた十人を眺めながら、横江はうんうん頷いていた。敵対てきたいしていたからこそ言える感想だろう。

「マジかぁー。ここまで器用きようなことできんの?数用意すれば行けると思ったんだけどぉ……」

 他の十人をあやつっていただろう男子が、自分の顔に手をやる。それが悔恨かいこん所作しょさではなく、透子さんの『苛烈幻覚』を避けるための目隠しだと気づくのに数秒。その時既に男子は次の命令を宣言せんげんしていた。

「『気絶させろ』」

 二度目の、さっきと同じ命令。

 身構えて、倒れた人間達を警戒する。しかし彼らは依然いぜんとして意識を失ったままで、命令を実行する気配けはいはない。じゃあこの命令は一体……?

 別の場所を警戒した時、透子さんに向かって拳を振りかぶっている横江が視界に入った。

 すんでのところで、おさえる。

「うおっ、何してんだお前!」

 横江が闘牛とうぎゅうのようにって透子さんに向かう。俺も同様に踏ん張ってそれを止める。

「……和真君!」

 脅威きょういが目前までせまったからか、透子さんが立ち上がる。

「あぁ!?何、これも駄目なの?じゃあ……『じて』『あばれろ』」

 そう言ってから、男子が教室を走って出て行く。

「待てっ……ぐっ」

 横江の動きが途端とたん不規則ふきそくになり、振り回された腕が顔面に当たる。少しよろけてしまい、羽交はがめにしている横江の重量を支えきれなくなる。そのまましたたかに背中を打った。その隙に男子の姿を見失ってしまう。

「くっ、こいつ……」

「……和真君!そのままそいつを取り押さえてて」

 透子さんは逃げる男子に振り返りもせず、横江に向かって拳を構えた。男子より先に、間近まぢかの脅威である横江を無力化しようという目論見もくろみだろう。

「待って透子さん!今は気絶させるより……」

 羽交い絞めにした手を使って、横江の頬を挟む。そして集中する……『解除術』の発動に。

「んがっ……う?……ん?」

 横江の体から力がフッと抜けるのを感じた。所狭ところせましと振り回されていた腕もだらんと下がる。ねらどおり、横江にかけられた催眠術を解除できたらしい。

「……和真君あなた、図書準備室でしか解除術が使えないはずじゃ……」

 そう言われて、解除術に関する『約束』を思い出す。


1.桶花高校の図書準備室内でなければ発動できない。


「えっ、あ、確かに……忘れてました」

 だが、約束を満たしていなくても問題なく発動できた。これから一番目の約束は無視して大丈夫そうだ。透子さんは『できる』と思うことが大事と言っていた。

「あなた……やっぱり才能あるわね」

 透子さんに感心かんしんされた。そんなやりとりの内に、横江がまばたきを繰り返して意識を取り戻していく。

「……こ、これはどうしたの和真君、私のこと抱きしめたりして」

 横江をはなす。横江は、ざわめきが残る教室を見回して首を傾げた。

「何……があったの?」

「説明は後!」

 いざ奴を追いかけようと走り出した。直後に透子さんにうでつかまれる。いつの間にか透子さんは椅子に座り直していた。

「追いかけては駄目よ、和真君」

 腕を引っ張られ、崩れかけた重心を戻しながら問い返す。

「どうしてですか!」

「見て分かったでしょう。あいつは人間を操る催眠術を持ってる。自己じこ解除かいじょができないあなたの天敵てんてきよ。『こま』の一つにされた時点で詰みなんだから……相手の方から逃げてくれるなら願ったり。こちらから深追ふかおいすべきじゃないわ」

「あの催眠術を見たからこそです!奴に操られていた人間がこの十人だけだったとは考えにくい……これから増える可能性だってある!」

 改めて、操られていた人間達に目を向ける。横江の様子からして、命令を実行している間、意識はなくなる物だと考えていいだろう。

 この人達は一体……何日、何週間、何か月もの間意識を失ったままでいたんだろう。たった一か月記憶がないだけでも、浅田さんは大きな恐怖を感じていた。もし他に意識を失っている人が居るなら一刻も早くその呪縛じゅばくを解かねばならない。

「……無論むろん、奴は許さない。いずれ罰を与え、駒にされている人間も全て解放する。でもそれはしかるべき準備を整えてから。奴の催眠術の『約束』も分からないままじゃ危険だわ」

「……横江!何か心当たりはないのか!」

 奴はあらかじめれていた人間を除けば、横江にしか催眠をかけていない。つまり横江に対してだけは、何らかの形で発動条件……『約束』を満たしていたということだ。更に言えば、奴も横江も同じ人間から催眠術を習っていたはず。横江なら、奴の催眠術の弱点を推理できるかもしれない。

「ええ!?うーん……あいつ、確かに廃ビルで何回かすれ違った気がするけど何かされたっけなー……っていうか色んな奴にちょっかい出されてるから誰に何されたか覚えてないんだよね」

 横江が腕を組んで役に立たない情報を吐く。

 奴の催眠術の詳細しょうさいは分からない。それでも、さっきの場面で俺や透子さん、他の生徒に催眠をかけなかったからには、容易よういに満たせる『約束』ではないことは確かだ。それさえ分かっていれば問題ない。

「……やっぱり行くべきですよ!」

「っ、待ちなっさい、和真君!」

 透子さんが俺の腕を掴む力を強める。声もあらげて、その表情には明確な焦りが見えた。いつも冷静な透子さんが見せる、初めての表情。俺はそれを見て、いよいよ透子さんにも怒りが湧いてきた。被害者をあんじて焦るべきなのに何故こんなことで焦るんだ。

「これ以上被害者が増えるのを黙って見ていろって言うんですか!」

「私は、そんな人達より……!」

 そこで透子さんがハッとする。失言しつげんだったという自覚があるのだろう。

 ……今の言葉ではっきりとした。透子さんには救うべき被害者より優先するものがある。それが何なのかは知らないが、少なくとも『町の平和を守る』という言葉が、噓っぱちだったことだけは分かる。

 つのっていた不信感が、限界に達する。

「……少しでも信じた俺が馬鹿だった!」

 ゆるんだ手のひらをはらいのけ、一人で走り出す。



・・・・・・



「待て……っ!」

 俺が追いつく頃、男子は既に校門を出る数歩前だった。

 午前九時。朝とも昼とも付かない時間の太陽が、遮蔽物しゃへいぶつのない校門前にそそがれている。

 俺が足を止めるのと、授業開始のチャイムが鳴るのはほぼ同時だった。多くのクラスは、さっき起こったことも知らず授業を始めているだろう。そんな中、自分一人だけ教室の外に居るのは、何だか変な気分だった。肩で息をしながら、そんなことを考える。

「うっわはや……お前さては体育3以上だろ。僕が理解できない人種だ」

 男子が俺の制止に振り返る。わきに女性を一人連れていた。れいれず、彼女の瞳も錯乱さくらん状態じょうたいにあり、男子に操られているのが見てとれる。やはり教室で見せたのが全員ではなかったらしい。

「……5だよ」

「あっそ……狐塚透子はどうした?」

「あの人は……来ない」

「ほーん……?そりゃありがたい。正直ヤバいかもと思ったが、あいつが居ないんなら、まだすじはあるかもなぁ!『気絶させろ』!」

 男子の命令と共に、隣の女性が俺に向かって突進とっしんしてくる。教室では透子さんが一瞬で処理したため気付けなかったが、自分を標的にされて気付く。操られていた人間の走力が尋常じんじょうではない。

火事場かじば馬鹿力ばかぢからって知ってるかぁ!?僕の催眠術は他人のそれを強制的に引き出すことができる!体育が得意なくらいじゃ、勝負にならねぇよ!」

 突進を体全体で受ける。強い衝撃が走った。倒れそうになる所を、ギリギリで踏ん張る。

 そのまま肩を掴んで女性を抑えようとするが、横江の時とは相手の集中が違う。俺の妨害ぼうがいを力任せに無視して、強烈きょうれつな右ストレートをはなってきた。

 一瞬、視界が白く光ったかと思うと、首の関節がじんと熱くなる。気づくと、俺は空を見上げていた。足にも力が入らず、浮き上がる感覚に脳がおかされる。意識がぼやける。

 それでも、掴んだ肩は離さなかった。

 女性が振り抜いた拳を開き、膝をがくりと曲げてその場に倒れる。眠っているようだ。解除まで大体一秒か二秒……大した術ではなかったみたいだ。

「ふぅー……」

 頭に叩き込まれた痛みを吐き出すように深呼吸しんこきゅうする。鼻血はなぢが出ていることに気づくが、ぽたりと血が地面に落ちる音で、意識がはっきり戻ってくる。

「……!?『起き上がれ』!『気絶させろ』!」

 男子が命令を繰り返す。しかし女性は眠ったまま動かない。

「……無駄だよ、この人はもうお前の駒じゃない」

「お前、『解除術使い』か……!」

 男子の歯軋はぎしりを聞きながら、体の調子を確認する。足はちゃんと感覚がある。走れるし、踏ん張れる。手もグーパー動く。鼻血はまだ止まらないが、特に問題はない。あのパンチによるダメージはほぼないと見ていい。

 あいつに駒はもうない。あったとしても、すぐに解除できる。やっぱり透子さんの心配は杞憂きゆう。むしろ俺こそがあいつの天敵だ。

 あいつの発言と、校内に居る内に追いつけたことから、身体能力はこちらがまさっていることが分かる。

 追い詰めた。あとはこいつをボコボコにするだけだ。

 目の前の男子を見据える。あとじゅう数歩すうほの位置に、奴は居る。

「お前……この人を何日なんにちなんげつあやつった」

「あぁ?うーん……長くても二か月くらいか?覚えてないけど」

「……それだけの時間を!失った人間の気持ちは考えないのか!この人が次に目覚めざめた時!一体どんな……!」

「はぁーん?知らんよそんなの、だったら目覚めさせなきゃ良かったじゃん。悪いのお前じゃね」

 男子は何ともなしに言い放つ。

「……何が目的だ。お前は何がしたくて、こんなことを」

「ムカつく奴らをぶちのめすため……逆に聞くけど、それ以外になんか楽しいことあるか?お前」

 不快感ふかいかんに、体がこわばる。血のかよわない無機むきしつな声と論理ろんり。横江からも、透子さんからも聞いたことがある。

「催眠術師っていうのは、こんな奴ばっかりなのか……!」

「ある程度イカれてるってのも術師の実力だぜ?」

 男子の様子は変わらない。……もうこいつと話すことはない。そう思い、足をしたその時、校舎こうしゃかげから教師が現れた。

「ちょっと、あなた達何してるの。授業中でしょ?」

「ついでに運も実力の内……って、言うよなぁ?」

 教師が男子に近づいていく。男子が不敵ふてきに笑う。

「特にあなた……うちの生徒じゃないでしょ。どうして……」

「危ない!近づ……」

 俺の制止せいしが入る前に、男子が教師の腕を取った。

 そしてその腕に、思いっ切りみついた。男子の口のはしから、鮮血がこぼれる。

「っ、きゃ……!」

「『叫ぶな』」

 男子が腕から口を離し、悲鳴ひめいを制する。教師は体を震わせた後、従順に口を閉じた。教師の目は、他の操られていた人間と同じ物になっていた。

「……!」

「うぇー、まっず」

 そんな感想とは裏腹うらはらに、男子は口の周りに付着ふちゃくした血液も舌ですくい取る。血液の摂取……あれが、奴の催眠術に課せられた約束。

「さて、見ての通りこの先生も僕の駒になっちゃったわけだが……ほれ、解除しに来いよ」

 男子が手のひらで俺を誘う、しかしそれに乗るわけにはいかない。俺が教師にかけられた催眠術を解除している間に、今度は俺が血を吸われたら……そのリスクを考えたら、こちらから動くわけにはいかない。

 ここは、多少たしょう冷酷れいこくになってでも、奴から動くのを待つしかない。

「へぇ、乗ってこないか。でも、いつまで無視できるかな……お前が僕を探ったように、僕もお前を探ってたんだぜ。お前の解除術がどれくらいのスペックなのか。お前が、どんな人間なのか」

 男子は、犬歯けんしをぎらつかせてこう命令した。

「『自殺じさつしろ』」

 教師が迷いなく両手を自分の首にえる。

 気が付けば、駆け出していた。

「ほぉら、乗ってきた」

 俺が教師に飛びつく所で、男子が横に回ってくる。しかし、そちらにかま余裕よゆうはない。

 教師の腕に触れる。火事場の馬鹿力とやらはすさまじく、俺の腕力ではのどから手をほどくことはできない。解除術しかない。

 手のひらの先に集中する。早く、早く!男子に血を吸われるより早く!


 ……しかしそんなに上手く行くだろうか。

 成長は簡単ではない。さっき、女性を解除した時よりは早くならないだろう。

 でも、一番目の約束を無視できたばかりだろう!?

 ならば尚更なおさらだ。同じ日に二度も都合よく成長できるもんか。

 透子さんは『できる』という気持ちがあればできると言っていた!

 あの女のことは信用しないと決めたじゃないか。

 今それは関係ない!

 じゃあこんなに『できない』と思っているならできないだろう。

 そういえばさっきのパンチがやっぱりいていた気がする。本調子ほんちょうしじゃないからむしろ通常よりも遅くなるんじゃないか?

 焦っている。

 関係ないことばかり考えて集中できていない。

 大事な時ほどこういうものだ。

 なんで!こんなことばっかり思い浮かぶ!


「かけたな。一秒」

 男子の口が喉に迫ってくる。

「……!」

 もう駄目だ。と、思ったその時。男子は大きく首をそむけて後ろにんだ。

「ぐあっ!?」

 まるで、透明人間に殴られたような動きだった。横を見る。すると何もなかったはずのその空間に、透子さんが現れた。

「っ、透子さん!?」

「間に、合った……あまりっ……私をっ、走らせないで、頂戴ちょうだい

 催眠術『苛烈幻覚』によって姿を透明にして迫ってきていたのか……いやそこじゃなくて、息切いきぎれしている……いやそこでもなくて。

 ……助けに来てくれたのか。

「すー……はぁー……和真君。その先生は」

 透子さんが息を整えてから俺に話しかける。その途端に重力を思い出したかのごとく教師の体が倒れた。一瞬ヒヤリとしたが、その体にこわばりはなく、手のひらも喉から離れている。ただ気絶しているだけのようだ。

「大丈夫です!解除できてました!他に操られてる人も居ません!」

「そう、じゃあもうこいつをらしめて終わりね」

 指を構える透子さんを見て、男子があわてて待ったをかける。

「ちょっ、ちょっと待て!僕にはまだ駒が残ってるぞ!」

「嘘だ!もう駒にできるような人間は居ない!」

 最初の女性も、次に現れた教師もかけられた催眠術は既に解除した。周りを見渡しても他に人影はない。

「嘘じゃあない!居るぜ……そこにな」

 男子が人差し指で差す。その指先には、俺が居た。

「……!?」

 透子さんが俺へ振り返る。一瞬、沈黙が流れる。

「へへっ……その様子じゃやっぱり、自分自身に解除術は使えねぇみてぇだな……?」

「……ハッタリだ!あいつの『約束』は『血を飲むこと』で、けど血を吸う暇なく透子さんに殴り飛ばされたんだから!証拠に、俺はどこからも血を流してな……」

 地面で、ぽたり、と音がした。足元に赤い点が一つできる。鼻下を拭うとこうに血が付く。鼻血はまだ流れていた。

「和真君、あなたそれ……!」

「狐塚透子!要はお前、間に合ってなかったんだよ!お前に殴られる寸前すんぜん、僕は落ちる血液を一滴飲んだ!もうそいつは僕の駒!命令一つで、生かすも殺すも僕の自由だ!」

 生かすも殺すも、奴の自由。

 脳裏に、先程の教師の姿が映る。奴が『自殺しろ』と命令すれば、俺は迷いなく自分の首をめてしまう。自分自身にかけられた催眠術は解除できない。……透子さんが心配した通りの『み』だ。

 途端に、足が震え始めた。パンチとは違って、こっちは中々収まらなかった。太陽の光が、少しくすんだ気がする。そこから、何故だかやけに太陽の光が気になった。

「お前、息切らして走ってきたもんなぁ。そいつのこと、気に入ってんだろ?……状況が分かったなら、その手を下げて、後ろを向け」

 透子さんが無言のまま、構えた腕を降ろす。それを見て、ハッとする。

「俺のことはいい!戦ってくれ、透子さん!」

「……駄目よ。駄目に決まってるでしょう。あなた、死ぬのが怖くないの?」

「怖いからです!こんな思いを、他の何も知らない人達に味あわせるわけにはいかない!」

 声の震えを押さえる。透子さんが迷わないように。

「約束したんだ……っ、町の平和を守る!俺は、本気です!」

「……和真君……」

「早く背を向けろ!狐塚透子!」

 透子さんは、男子に背を向けて俺の方を向いた。

 そして、俺を抱きしめた。触覚が鋭敏えいびんに働く。

「え!?」

「あ!?」

 耳元でささやかれる。

「和真君。今からあなたに催眠術をかけるわ。でもこれはあなたを守るため、あなたが大事だからなの。私、嘘はつかないわ。だから、今だけでもいい……『信じて』」

 透子さんの凛とした、しかしどこか寂しげな表情が俺の目に映る。次の瞬間、目の前がくらになって、何も聞こえなくなった。



・・・・・・



 催眠術師、伊嶋いじま君人きみびとは追い詰められていた。

 岩倉和真の血液を飲み、人間を操る催眠術――『血の糸』の約束を達成したまではよかったが、彼の催眠術には『対象の血を飲むこと』以外にも約束があった。

 それは『命令できる行動の時間と難易度なんいどは、飲んだ血の量に比例ひれいする』という内容の物。つまり、たった一滴の血液では、極めて容易な命令しかできないということである。

 時間も、対象の従順度も限定される。無論、『自殺しろ』という行動は命令はできない。彼が放った『生かすも殺すも自由』という言葉は、じつところまったくのハッタリだった。

 しかし、伊嶋にも希望はあった。いかなるデメリットがあろうとも、狐塚に『血の糸』の詳細を知る方法はない。

 故に、逆らえば岩倉の身に保証はない。

 故に、狐塚は歯向はむかうことはできない。

 そのはずだった。

 狐塚が岩倉を抱いたまま振り返る。言いなりになる素振そぶりはない。その眼には確固たる闘志とうしが宿っていた。そしてそのまま先ほどと同じように指を構える。『苛烈幻覚』を発動させる際のルーティーン。狐塚透子の臨戦態勢。

 ――仲間を捨ててきたか。即座そくざにそう判断した伊嶋は、岩倉にかけた『血の糸』を発動させた。

「『突き飛ばせ』!」

 一滴の血で発動できる、最低限さいていげんの命令。すきを作り、少しでも逃亡の成功率せいこうりつを上げようという魂胆こんたんだった。 

 だが、動かない。岩倉は狐塚に抱かれたまま、ピクリとも動かなかった。

 不可解。刹那せつな逡巡しゅんじゅん。そして、伊嶋は理解した。何故狐塚が自分におくさず戦闘態勢を取れたのか、何故『血の糸』が発動しなかったのか。

 ――この女、仲間の聴覚を消しやがった。……いや、奴には僕の『血の糸』のトリガーが聴覚であるという確信もないはず。おそらく聴覚のみならず、他の五感も全て遮断しゃだんさせて――。

 それ以上、伊嶋の思考がつむがれることはなかった。

「……『苛烈幻覚』」

 狐塚が、短く自分の催眠術の名前を呟き、指を振る。

 伊嶋はその指先に異次元いじげんを見た。

 膨大ぼうだいな数の図形が、彼の脳裏になだれ込む。苦痛を与えるためではなく、何かをあざむくためでもない、対象を無力化させるための『苛烈幻覚』。無数の情報を伊嶋の脳へとたたみ、せん情報じょうほうに対してまん知覚ちかくを強制する、必殺の催眠。伊嶋の脳は耐えきれず、一瞬の内に焼き切れた。

 意識を失った伊嶋が倒れる。

 校門前、午前九時のなかば。他の者が眠る中、狐塚透子だけがその時の流れを知覚していた。



・・・・・・



 無音むおん無光むこう無味むみ無臭むしゅう。そんな世界に、俺は居た。

 いつも感じ続けていた情報の一切が遮断されている。のう細胞さいぼうが行き場をなくして、動きを緩慢かんまんにさせているのが分かる。正常な感覚が、加速度的かそくどてき衰退すいたいしていく。

 思考の枠組みが、どろどろになって溶けてしまった状態。意識は朦朧もうろうとしていた。

 ただ、そんな世界の中でも活きている感覚があった。

 触覚だ。俺は今何者かに抱かれ、その熱を感じている。それだけは確かだった。

 ……いや、本当に確かだろうか。俺の意識が、俺にそんなことを語りかけてくる。おそらく、俺をここに連れて来たのは透子さんだろう。透子さんならば、俺の五感を支配して何も感じられなくすることだって可能だ。同様に、幻の熱を感じさせることだってできるだろう。

 透子さんの『苛烈幻覚』を初めて見た時を思い出す。似ている。あの時見た業火と、今感じている熱は、似ている。

 この熱は、幻覚だろうか?この熱を信じるか、疑うか。それ以外の情報が遮断された今、その二択だけが俺の精神に与えられた自由だった。

 少し考える。透子さんは、俺をここに送る直前、『信じて』と言っていた。透子さんの寂しそうな表情が、浮かぶ。

 俺は、信じることにした。

 真実がどうであれこの熱は、信じればそこに産まれ、疑えばそこから消える物だと、理解した。

 俺はこの熱を消したくない。一人にしたくない。だから、信じた。

「!!!!!」

 突如、大きな音が響く。後から聞いた話だと、これは透子さんの声だったらしい。

 普通の声量せいりょうで呼びかけたつもりだが、直前まで聴覚が消失していたので催眠を解いた後にも不調ふちょうが残り、莫大ばくだいな音量で聞こえてしまったのだろう。……と、透子さんは言っていた。

 他の五感もそんな感じで、視界はやたらまぶしくてぼやけきっていたし、普段は気にもめない唾液の味なんかが、ひどにがく感じられた。

「……意識があるのね。良かった……」

 耳が回復してくると、そんな声が聞こえて来た。

 何はともあれ、俺は帰って来た。変わらぬ熱を確かめながら、心底しんそこ安心あんしんしたのを覚えている。



・・・・・・



 俺は、透子さんを誤解していたのではないだろうか。

 透子さんには秘密が多い。出自しゅつじ思惑おもわくを聞いても、『秘密』の一点張いってんばりで中々なかなかおしえてもらえない。

 だが、それは俺に一切いっさいうそを付いていないということでもある。何を聞かれても、適当てきとうな嘘で誤魔化ごまかすことだってできるのにも関わらず、だ。

 透子さんは俺に『信じて』と言った。本当に信頼して欲しいなら俺に何も明かさないのは悪手あくしゅだ。実際それが原因で、俺は不信感を募らせたのだ。それでも透子さんは嘘を付かなかった。言えないことは言えないと、真実を持って俺に接したのだ。

 どうやら、透子さんには『町の平和を守る』以外の目的がある。しかし、透子さんは『私、嘘はつかないわ』と言った。これが真実なら、『町の平和を守る』という発言も、第一ではないだけできっと真実なのだろう。

 それならば、俺は、透子さんを信じてもいいと思う。

「うーん私はそうは思わないなぁ和真君。だって『嘘つかない』なんて普通嘘つきしか言わない言葉だよ?あの女とはえんを切った方がいいと思うなぁ私」

「僕も同感どうかんだね。奴はどうも冷徹れいてつぎるふしがある。あいつはハブにして僕と組まないか岩倉和真」

 図書準備室で、横江と伊嶋が隣から話しかけてくる。私怨しえんからか、随分ずいぶんと透子さんに対して否定的だ。仲間にしてもらっておいて何ともまぁおんらずな奴らだ。

 ……そう、今回の襲撃を行った伊嶋君人も結局、この図書準備室のメンバー入りとなった。透子さんいわく、駒は多い方がいいでしょう。とのことだ。

 一応、こいつにはこいつの催眠術でこいつ自身に『これより先、催眠術を使うな』という命令を(無理矢理むりやり)かけさせたので、半永久的はんえいきゅうてき無力化むりょくかが済んでいる。危険度きけんどで言えば横江よりも下だが、それでも早速さっそく仲間なかまづらしてくる不快感がなくなるわけではなかった。こいつは俺を殺しかけたのだ。

「私が……怖い?」

 透子さんがいつも通りの目で……いやちょっとこころなしかもうわけなさそうな目で見つめてくる。

「その……ごめんなさい、和真君。私少しおかしいの。あなたのことを理解できずに、不快にさせてしまったみたいで……多分たぶん、これからもこういうことがあるでしょうけど、でも、私は……」

 そんな困ったような声を聴いていると、余計よけいに安心させてあげたくなる。

「いいですよ、何でも。信じるって決めたんだから、信じます」

「……そう」

 透子さんはホッとした顔をしていた。……いつも冷静なイメージがあったけど、じつ結構けっこう表情ひょうじょうゆたかな人なのかもしれない。

だまされちゃ駄目だからね和真君。ああやって可愛い子ぶって取り入るのがあの女の手口てぐちなんだってきっと。だから和真君はあいつじゃなくて私を信じるべき。私に甘くなるべき」

「そうだな、表層的ひょうそうてきな部分にとらわれてはいけない。つまり狐塚透子と、ついでにこの横江って奴も信用しない方がいいぞ岩倉和真。だから僕と組もうじゃないか」

「はぁ!?しんりがナマ言わないでくれる?」

「おや、仲間のピンチの中、教室でピクピクしてただけの役立やくたたずが何かほざいてるぞ?口うるさいだけの無能むのうほど厄介やっかいな奴はいないなぁ?」

「あんたが操って火事場の馬鹿力なんて出させるから全身筋肉痛ぜんしんきんにくつうになっちゃったんでしょうが!もうあったま来たあんたも和真君にしてやる!」

 二人がしょうもないあらそいから喧嘩けんかを始める。透子さんは我関われかんせずといった態度で、紅茶こうちゃすすっていた。

 俺もあんな風に真面目まじめに取り合わなければ、こいつらとも上手くやっていけるのかもしれない。

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