2.血の糸
俺が『解除術』を習得するために特訓を
「一号君。『
透子さんは俺に向かって唐突にそう言った。
約束……?なんだろう。
「えっと、じゃあ……後一か月くらいで覚えます」
「……違う。君が思い浮かべてる約束とは別物よ。私が言った『約束』は、催眠術の習得における重要な
「俺が聞きたいです」
「それはね。多くの人間が『結果を努力や
確かに……ただうんうん想像とも着かない、
「真に結果を出す人間は、いつだって
「つまり……俺もそういう人間になればいいと?」
「それが理想ではあるけれど……偏見というのは
「利用?」
「『苦しみ、悩まねば結果は出ない』……裏を返せば『苦しみ、悩めば結果は出る』ということよ」
何となく、透子さんの言いたいことが分かってきた。
「あなたが習得しようとしている『解除術』に、
そうして俺は自分自身に様々な約束を取り付けた。その度に『こんな不都合な能力なら、俺にだって扱えるかも』という気持ちが強くなっていき、ついには『解除術』を習得するに至ったのだ。
取り付けた約束は全部で五。以下の通りである。
1.桶花高校の図書準備室内でなければ発動できない。
2.発動には解除する術によって
3.発動中は対象者の体の一部を触っていなければならない。
4.対象者にかかった術の効果を
5.自分自身にこの術を発動することはできない。
・・・・・・
「
透子さんに
「もごーっ!」
横江が
そういえばクラスで見かけないなと思ったら、こんなことになっていたとは。
「あの……透子さん、これは一体」
「いいから早く答えなさい。彼女の約束は何?」
「そんなこと言われても、見当もつかないというか……」
「彼女が催眠術を使おうとした時のことをよく思い出すのよ。そこにヒントはあるわ」
言われた通りに、思い出してみる。
「そういえば、直前で指を構えてたような……『発動時に指を鳴らさなければならない』とかですか?」
「三点」
あまりに短かったので、それが
「……ちなみに、何点満点中ですか?」
「もちろん百点満点中よ。彼女は他にもっと大きな約束をしている。ズバリ、『
透子さんが指を二本立てる。一つ目は分かるが、二つ目は少し何を言っているか分からない。
「えーと……?」
「まだ分からないの?あの時を思い返して、彼女の台詞の頭文字を繋げてみなさい。あなたの名前である『いわくらかずま』になっていたでしょう?
……いや、
「……じゃあ、この子に直接聞いて答え合わせと行きましょうか」
透子さんが横江の口に貼られたガムテープをべりりと剥がす。
口元が自由になった横江は大きく息を吐くと、こちらを
「いやぁ、まさか気付いてたなんて……そぐぶっ」
横江の
「ちょっ、透子さん!?」
「私の言った通りでしょう?こいつの台詞の頭文字は『い』だった。この
横江が口の血を床に吐きつける。打たれた頬は
「……一度そうしただけで疑われぐぶっ」
透子さんがもう一度ビンタする。
「いつまでやるのこのくだり。もう少しぐぶっ」
透子さんがもう一度ビンタする。
聞いていれば、確かに横江は台詞の始めを何度も『い』で始めている。偶然ではなさそうだ。
どうやら透子さんの
透子さんが手のひらをプラプラさせながら、横江を
「次に台詞を『い』から始めたら、本気で行くわよ」
横江の『人格上書き』には『発動時に指を鳴らさなければならない』という約束があるはずだ。この推測は透子さんも三点くれたのでおそらく正しい。であるならば、彼女の両手が椅子に縛り付けられている以上、彼女の
それでも透子さんが鋭い目つきで命令するのは、
「……『い』ぃー……」
横江は透子さんを正面から見上げ、
「……本気で行くって言ったわよ」
透子さんが静かに手を構える。しかしその手の形は今までの
俺はその手を知っている。その立てられた指が降ろされた時、それを
「『苛烈幻覚』」
大きく、長い針が横江の体を
「え……」
横江が自分の腹から突き出たそれを眺める。貫かれた
ずずっ、と体内から肉をかき分ける音が聞こえる。最初の一本の近くから二本目、三本目と続いて針が横江の体を貫く。まるで鉄の獣が、その
「っあ、があああああっ!」
図書準備室に
横江が
彼女の眼球は
それでも透子さんに幻覚を消す気配はない。どころか針山の場所が、腕に、頬に、三つに増えていた。
「あぐ……あぁ……」
ひとしきり叫び声を上げた後、横江は意識を失った。
横江が気絶したのを確認して、透子さんは短く口を動かした。
「眠るな」
その一言で横江の体がビクリと
……
「透子さん……ちょっとやりすぎなんじゃ」
もちろん、彼女のことは嫌いだ。二号を苦しめた犯人なのだから。……それでも、彼女を可哀想に思ってしまうくらい、この
「……どうしてあなたが彼女の心配をするの?」
透子さんが首を回し、横江から俺へ視線を向ける。
その瞳は冷たく、彼女への
「ごめ……なさい、言うごど、聞ぐからぁ……やめて……もぉ……」
体の内、無傷の箇所が半分以下になった頃、横江は
次の瞬間、幻覚は解けた。夥しい量の針はすっかりなくなり、破れた衣服も体に開いた穴も流れ出た血も全て消えて、ただ横江の体の震えだけがその場に残っていた。
「……
横江が
透子さんが横江に問う。
「どうやって催眠術を習得したの?」
「
「催眠塾……?」
横江の言葉を繰り返す。聞いたことがない言葉だ。
「駅から離れた所の廃ビルに住んで、塾みたいに催眠術を教えている人が居て……」
「その人間の名前と、
「……私と同じ歳ぐらいのカップルです。名前は、本名かどうか分かんないけど……女が『
「花輪……」
横江が
「その二人も、『現代催眠学基礎論』を持っていたのね?」
透子さんが真っ青な背表紙のそれを取り出す。横江はそれを
「あなた以外に催眠術を習った人間は居る?」
「いっぱい居ました。
いっぱい……横江以外にも、催眠術を悪用している術師が居るのか。
「その二人の目的は分かる?」
「えっと、分かんないです……」
「ほ、本当に分かんないんですって!何も言われなかったし、私も聞かなかったし!」
横江が椅子をガタガタさせながら
「その二人と接触できる?」
「はぁ……私一人なら、多分……」
「そう。あなた、私達の仲間にならない?」
俺は耳を疑った。横江を、仲間にするだって?
当の横江も、
「ちょっ、何言ってるんですか透子さん!こいつを……仲間にするなんて」
「メリットはあるわ。
「だとしても!こいつは二号を苦しめた犯人で……」
「何よ。さっきはこの子のこと心配してたじゃない」
「それとこれとは別です!」
透子さんが、ふぅ。と溜息をつく。
「……合理的に考えなさい。この子には
これ以上の議論はしない。そんな視線が俺に
「それで、横江さん……だったかしら。あなたはどうするの?私達の仲間になるか、それとも……」
透子さんが指を構える。すると横江は勢いよく答えた。
「なります!なりますなります!」
しかし、その顔に焦りはなく、
「だって仲間になったら、和真君と一緒に居られるもんね」
横江が俺に向かってにこりと笑う。
とどのつまり、こいつは今回の事件に対してなんら反省していないのだ。
「っ、ふざけるなよ!はっきり言うが、俺はお前が嫌いだ!」
「うんまぁ……今はそうなんだろうけど、そこもこれからの頑張り
「……ならねぇよ!」
あまりの話の通じなさに、
「透子さん!俺、やっぱり……」
「そんなに嫌……?」
まるで子供の
俺は、透子さんを
原因不明の事態に
事実、
しかし、透子さんは『利用価値があるから』と、横江を仲間にした。
俺も、そうなのではないか。俺が習得した『解除術』に利用価値があるから、弟子ということにされたのではないか。
そう考えると、取って付けたような『町の平和を守る』という発言も怪しくなってくる。この発言は嘘で、本当は他の目的があるのではなかろうか。そんな気もしてくる。
透子さんを、信じていいのか?
・・・・・・
朝、教室はザワついていた。よく知らない女の人が教室で座っているからだ。何を隠そう透子さんである。
「あのー……透子さん。そこ私の椅子なんですけど……」
横江が透子さんに話しかける。透子さんは横江の席に腰を下ろしていた。
「ええ、だから座ってるのよ」
「私はどこに座れば……?」
「そこら辺に立ってなさい」
「……はーい……」
横江はすごすごと自分の机の横に立ち、
教室の皆はその様子を見て、なんだこの女はという視線を強める。同クラスの浅田泉さんも同じような視線を向けていたが、すぐに目を
しかし俺は関わらざるをえないので、
「透子さん。なんで俺達のクラスに?」
「横江さんの話だと、まだまだ
透子さんは当然の
「いや、でも学年が違いますよね……」
そう言おうとした所で、気付く。シャツの
「目ざといわね和真君。言わなければバレないと思っていたのだけど」
透子さんが首筋を
「……透子さんって、何歳なんですか」
「秘密」
とてもストレートにはぐらかされた。思えば、俺は透子さんのことをほとんど知らない。
「なんで図書準備室に住んでるんですか」
「秘密」
「何で図書室に『現代催眠学基礎論』が置いてあるんですか」
「秘密」
「『町の平和を守る』って本気ですか。なんで俺を催眠術師にしたんですか。好きなパンなんですか」
「スナックパン」
一番どうでもいい答えだけ返ってきた。この怪しい態度に、
そんなことを思っている内にホームルームが始まる。担任がやってきて、
「はーい、突然ですが、今日はこのクラスに転校生がやってきまーす」
クラスの視線がもう一度透子さんに集まる。さては催眠術を
そんな俺の思考を
「私じゃないわよ」
透子さんの宣言通り、転校生は教室の外からやってきた。扉を開けて、教室に姿を現す。
その
その人間達は制服も着ておらず、服装も年齢も性別もバラバラだった。ただその中で共通点が一つ。全員、眼の焦点が合っていない。
彼らが転校生ではないことは
不気味な空気が流れる。教室のそこかしこから
その中を、前に立つ人間の一人が動いた。十代の男子、ジャージとパーカー。その一人だけは
男子が視線にガイドを付けるように、透子さんを指差す。そしてこう言った。
「『
その言葉と同時に、男子以外の担任を含めた十人が、教壇近くから透子さん
いくら
「透子さん!」
防御しなくてはと透子さんの前に出ようとする。それが完了する前に、十人は五組になって、それぞれ互いにクロスカウンターを決めて教室に
「……えっ」
「きゃああああっ!」
女子生徒の一人が、叫び声をあげる。それを
俺だって、透子さんの能力を知らなければ他の生徒と一緒になっておろおろしていたと思う。いや、知ってはいたがその上で
「私を
「やっぱり、味方にすると
倒れた十人を眺めながら、横江はうんうん頷いていた。
「マジかぁー。ここまで
他の十人を
「『気絶させろ』」
二度目の、さっきと同じ命令。
身構えて、倒れた人間達を警戒する。しかし彼らは
別の場所を警戒した時、透子さんに向かって拳を振りかぶっている横江が視界に入った。
「うおっ、何してんだお前!」
横江が
「……和真君!」
「あぁ!?何、これも駄目なの?じゃあ……『
そう言ってから、男子が教室を走って出て行く。
「待てっ……ぐっ」
横江の動きが
「くっ、こいつ……」
「……和真君!そのままそいつを取り押さえてて」
透子さんは逃げる男子に振り返りもせず、横江に向かって拳を構えた。男子より先に、
「待って透子さん!今は気絶させるより……」
羽交い絞めにした手を使って、横江の頬を挟む。そして集中する……『解除術』の発動に。
「んがっ……う?……ん?」
横江の体から力がフッと抜けるのを感じた。
「……和真君あなた、図書準備室でしか解除術が使えないはずじゃ……」
そう言われて、解除術に関する『約束』を思い出す。
1.桶花高校の図書準備室内でなければ発動できない。
「えっ、あ、確かに……忘れてました」
だが、約束を満たしていなくても問題なく発動できた。これから一番目の約束は無視して大丈夫そうだ。透子さんは『できる』と思うことが大事と言っていた。
「あなた……やっぱり才能あるわね」
透子さんに
「……こ、これはどうしたの和真君、私のこと抱きしめたりして」
横江を
「何……があったの?」
「説明は後!」
いざ奴を追いかけようと走り出した。直後に透子さんに
「追いかけては駄目よ、和真君」
腕を引っ張られ、崩れかけた重心を戻しながら問い返す。
「どうしてですか!」
「見て分かったでしょう。あいつは人間を操る催眠術を持ってる。
「あの催眠術を見たからこそです!奴に操られていた人間がこの十人だけだったとは考えにくい……これから増える可能性だってある!」
改めて、操られていた人間達に目を向ける。横江の様子からして、命令を実行している間、意識はなくなる物だと考えていいだろう。
この人達は一体……何日、何週間、何か月もの間意識を失ったままでいたんだろう。たった一か月記憶がないだけでも、浅田さんは大きな恐怖を感じていた。もし他に意識を失っている人が居るなら一刻も早くその
「……
「……横江!何か心当たりはないのか!」
奴はあらかじめ
「ええ!?うーん……あいつ、確かに廃ビルで何回かすれ違った気がするけど何かされたっけなー……っていうか色んな奴にちょっかい出されてるから誰に何されたか覚えてないんだよね」
横江が腕を組んで役に立たない情報を吐く。
奴の催眠術の
「……やっぱり行くべきですよ!」
「っ、待ちなっさい、和真君!」
透子さんが俺の腕を掴む力を強める。声も
「これ以上被害者が増えるのを黙って見ていろって言うんですか!」
「私は、そんな人達より……!」
そこで透子さんがハッとする。
……今の言葉ではっきりとした。透子さんには救うべき被害者より優先するものがある。それが何なのかは知らないが、少なくとも『町の平和を守る』という言葉が、噓っぱちだったことだけは分かる。
「……少しでも信じた俺が馬鹿だった!」
・・・・・・
「待て……っ!」
俺が追いつく頃、男子は既に校門を出る数歩前だった。
午前九時。朝とも昼とも付かない時間の太陽が、
俺が足を止めるのと、授業開始のチャイムが鳴るのはほぼ同時だった。多くのクラスは、さっき起こったことも知らず授業を始めているだろう。そんな中、自分一人だけ教室の外に居るのは、何だか変な気分だった。肩で息をしながら、そんなことを考える。
「うっわはや……お前さては体育3以上だろ。僕が理解できない人種だ」
男子が俺の制止に振り返る。
「……5だよ」
「あっそ……狐塚透子はどうした?」
「あの人は……来ない」
「ほーん……?そりゃありがたい。正直ヤバいかもと思ったが、あいつが居ないんなら、まだ
男子の命令と共に、隣の女性が俺に向かって
「
突進を体全体で受ける。強い衝撃が走った。倒れそうになる所を、ギリギリで踏ん張る。
そのまま肩を掴んで女性を抑えようとするが、横江の時とは相手の集中が違う。俺の
一瞬、視界が白く光ったかと思うと、首の関節がじんと熱くなる。気づくと、俺は空を見上げていた。足にも力が入らず、浮き上がる感覚に脳が
それでも、掴んだ肩は離さなかった。
女性が振り抜いた拳を開き、膝をがくりと曲げてその場に倒れる。眠っているようだ。解除まで大体一秒か二秒……大した術ではなかったみたいだ。
「ふぅー……」
頭に叩き込まれた痛みを吐き出すように
「……!?『起き上がれ』!『気絶させろ』!」
男子が命令を繰り返す。しかし女性は眠ったまま動かない。
「……無駄だよ、この人はもうお前の駒じゃない」
「お前、『解除術使い』か……!」
男子の
あいつに駒はもうない。あったとしても、すぐに解除できる。やっぱり透子さんの心配は
あいつの発言と、校内に居る内に追いつけたことから、身体能力はこちらが
追い詰めた。あとはこいつをボコボコにするだけだ。
目の前の男子を見据える。
「お前……この人を
「あぁ?うーん……長くても二か月くらいか?覚えてないけど」
「……それだけの時間を!失った人間の気持ちは考えないのか!この人が次に
「はぁーん?知らんよそんなの、だったら目覚めさせなきゃ良かったじゃん。悪いのお前じゃね」
男子は何ともなしに言い放つ。
「……何が目的だ。お前は何がしたくて、こんなことを」
「ムカつく奴らをぶちのめすため……逆に聞くけど、それ以外になんか楽しいことあるか?お前」
「催眠術師っていうのは、こんな奴ばっかりなのか……!」
「ある程度イカれてるってのも術師の実力だぜ?」
男子の様子は変わらない。……もうこいつと話すことはない。そう思い、足を
「ちょっと、あなた達何してるの。授業中でしょ?」
「ついでに運も実力の内……って、言うよなぁ?」
教師が男子に近づいていく。男子が
「特にあなた……うちの生徒じゃないでしょ。どうして……」
「危ない!近づ……」
俺の
そしてその腕に、思いっ切り
「っ、きゃ……!」
「『叫ぶな』」
男子が腕から口を離し、
「……!」
「うぇー、まっず」
そんな感想とは
「さて、見ての通りこの先生も僕の駒になっちゃったわけだが……ほれ、解除しに来いよ」
男子が手のひらで俺を誘う、しかしそれに乗るわけにはいかない。俺が教師にかけられた催眠術を解除している間に、今度は俺が血を吸われたら……そのリスクを考えたら、こちらから動くわけにはいかない。
ここは、
「へぇ、乗ってこないか。でも、いつまで無視できるかな……お前が僕を探ったように、僕もお前を探ってたんだぜ。お前の解除術がどれくらいのスペックなのか。お前が、どんな人間なのか」
男子は、
「『
教師が迷いなく両手を自分の首に
気が付けば、駆け出していた。
「ほぉら、乗ってきた」
俺が教師に飛びつく所で、男子が横に回ってくる。しかし、そちらに
教師の腕に触れる。火事場の馬鹿力とやらはすさまじく、俺の腕力では
手のひらの先に集中する。早く、早く!男子に血を吸われるより早く!
……しかしそんなに上手く行くだろうか。
成長は簡単ではない。さっき、女性を解除した時よりは早くならないだろう。
でも、一番目の約束を無視できたばかりだろう!?
ならば
透子さんは『できる』という気持ちがあればできると言っていた!
あの女のことは信用しないと決めたじゃないか。
今それは関係ない!
じゃあこんなに『できない』と思っているならできないだろう。
そういえばさっきのパンチがやっぱり
焦っている。
関係ないことばかり考えて集中できていない。
大事な時ほどこういうものだ。
なんで!こんなことばっかり思い浮かぶ!
「かけたな。一秒」
男子の口が喉に迫ってくる。
「……!」
もう駄目だ。と、思ったその時。男子は大きく首を
「ぐあっ!?」
まるで、透明人間に殴られたような動きだった。横を見る。すると何もなかったはずのその空間に、透子さんが現れた。
「っ、透子さん!?」
「間に、合った……あまりっ……私をっ、走らせないで、
催眠術『苛烈幻覚』によって姿を透明にして迫ってきていたのか……いやそこじゃなくて、
……助けに来てくれたのか。
「すー……はぁー……和真君。その先生は」
透子さんが息を整えてから俺に話しかける。その途端に重力を思い出したかのごとく教師の体が倒れた。一瞬ヒヤリとしたが、その体にこわばりはなく、手のひらも喉から離れている。ただ気絶しているだけのようだ。
「大丈夫です!解除できてました!他に操られてる人も居ません!」
「そう、じゃあもうこいつを
指を構える透子さんを見て、男子が
「ちょっ、ちょっと待て!僕にはまだ駒が残ってるぞ!」
「嘘だ!もう駒にできるような人間は居ない!」
最初の女性も、次に現れた教師もかけられた催眠術は既に解除した。周りを見渡しても他に人影はない。
「嘘じゃあない!居るぜ……そこにな」
男子が人差し指で差す。その指先には、俺が居た。
「……!?」
透子さんが俺へ振り返る。一瞬、沈黙が流れる。
「へへっ……その様子じゃやっぱり、自分自身に解除術は使えねぇみてぇだな……?」
「……ハッタリだ!あいつの『約束』は『血を飲むこと』で、けど血を吸う暇なく透子さんに殴り飛ばされたんだから!証拠に、俺はどこからも血を流してな……」
地面で、ぽたり、と音がした。足元に赤い点が一つできる。鼻下を拭うと
「和真君、あなたそれ……!」
「狐塚透子!要はお前、間に合ってなかったんだよ!お前に殴られる
生かすも殺すも、奴の自由。
脳裏に、先程の教師の姿が映る。奴が『自殺しろ』と命令すれば、俺は迷いなく自分の首を
途端に、足が震え始めた。パンチとは違って、こっちは中々収まらなかった。太陽の光が、少しくすんだ気がする。そこから、何故だかやけに太陽の光が気になった。
「お前、息切らして走ってきたもんなぁ。そいつのこと、気に入ってんだろ?……状況が分かったなら、その手を下げて、後ろを向け」
透子さんが無言のまま、構えた腕を降ろす。それを見て、ハッとする。
「俺のことはいい!戦ってくれ、透子さん!」
「……駄目よ。駄目に決まってるでしょう。あなた、死ぬのが怖くないの?」
「怖いからです!こんな思いを、他の何も知らない人達に味あわせるわけにはいかない!」
声の震えを押さえる。透子さんが迷わないように。
「約束したんだ……っ、町の平和を守る!俺は、本気です!」
「……和真君……」
「早く背を向けろ!狐塚透子!」
透子さんは、男子に背を向けて俺の方を向いた。
そして、俺を抱きしめた。触覚が
「え!?」
「あ!?」
耳元で
「和真君。今からあなたに催眠術をかけるわ。でもこれはあなたを守るため、あなたが大事だからなの。私、嘘はつかないわ。だから、今だけでもいい……『信じて』」
透子さんの凛とした、しかしどこか寂しげな表情が俺の目に映る。次の瞬間、目の前が
・・・・・・
催眠術師、
岩倉和真の血液を飲み、人間を操る催眠術――『血の糸』の約束を達成したまではよかったが、彼の催眠術には『対象の血を飲むこと』以外にも約束があった。
それは『命令できる行動の時間と
時間も、対象の従順度も限定される。無論、『自殺しろ』という行動は命令はできない。彼が放った『生かすも殺すも自由』という言葉は、
しかし、伊嶋にも希望はあった。いかなるデメリットがあろうとも、狐塚に『血の糸』の詳細を知る方法はない。
故に、逆らえば岩倉の身に保証はない。
故に、狐塚は
そのはずだった。
狐塚が岩倉を抱いたまま振り返る。言いなりになる
――仲間を捨ててきたか。
「『突き飛ばせ』!」
一滴の血で発動できる、
だが、動かない。岩倉は狐塚に抱かれたまま、ピクリとも動かなかった。
不可解。
――この女、仲間の聴覚を消しやがった。……いや、奴には僕の『血の糸』のトリガーが聴覚であるという確信もないはず。おそらく聴覚のみならず、他の五感も全て
それ以上、伊嶋の思考が
「……『苛烈幻覚』」
狐塚が、短く自分の催眠術の名前を呟き、指を振る。
伊嶋はその指先に
意識を失った伊嶋が倒れる。
校門前、午前九時の
・・・・・・
いつも感じ続けていた情報の一切が遮断されている。
思考の枠組みが、どろどろになって溶けてしまった状態。意識は
ただ、そんな世界の中でも活きている感覚があった。
触覚だ。俺は今何者かに抱かれ、その熱を感じている。それだけは確かだった。
……いや、本当に確かだろうか。俺の意識が、俺にそんなことを語りかけてくる。おそらく、俺をここに連れて来たのは透子さんだろう。透子さんならば、俺の五感を支配して何も感じられなくすることだって可能だ。同様に、幻の熱を感じさせることだってできるだろう。
透子さんの『苛烈幻覚』を初めて見た時を思い出す。似ている。あの時見た業火と、今感じている熱は、似ている。
この熱は、幻覚だろうか?この熱を信じるか、疑うか。それ以外の情報が遮断された今、その二択だけが俺の精神に与えられた自由だった。
少し考える。透子さんは、俺をここに送る直前、『信じて』と言っていた。透子さんの寂しそうな表情が、浮かぶ。
俺は、信じることにした。
真実がどうであれこの熱は、信じればそこに産まれ、疑えばそこから消える物だと、理解した。
俺はこの熱を消したくない。一人にしたくない。だから、信じた。
「!!!!!」
突如、大きな音が響く。後から聞いた話だと、これは透子さんの声だったらしい。
普通の
他の五感もそんな感じで、視界はやたら
「……意識があるのね。良かった……」
耳が回復してくると、そんな声が聞こえて来た。
何はともあれ、俺は帰って来た。変わらぬ熱を確かめながら、
・・・・・・
俺は、透子さんを誤解していたのではないだろうか。
透子さんには秘密が多い。
だが、それは俺に
透子さんは俺に『信じて』と言った。本当に信頼して欲しいなら俺に何も明かさないのは
どうやら、透子さんには『町の平和を守る』以外の目的がある。しかし、透子さんは『私、嘘はつかないわ』と言った。これが真実なら、『町の平和を守る』という発言も、第一ではないだけできっと真実なのだろう。
それならば、俺は、透子さんを信じてもいいと思う。
「うーん私はそうは思わないなぁ和真君。だって『嘘つかない』なんて普通嘘つきしか言わない言葉だよ?あの女とは
「僕も
図書準備室で、横江と伊嶋が隣から話しかけてくる。
……そう、今回の襲撃を行った伊嶋君人も結局、この図書準備室のメンバー入りとなった。透子さん
一応、こいつにはこいつの催眠術でこいつ自身に『これより先、催眠術を使うな』という命令を(
「私が……怖い?」
透子さんがいつも通りの目で……いやちょっと
「その……ごめんなさい、和真君。私少しおかしいの。あなたのことを理解できずに、不快にさせてしまったみたいで……
そんな困ったような声を聴いていると、
「いいですよ、何でも。信じるって決めたんだから、信じます」
「……そう」
透子さんはホッとした顔をしていた。……いつも冷静なイメージがあったけど、
「
「そうだな、
「はぁ!?
「おや、仲間のピンチの中、教室でピクピクしてただけの
「あんたが操って火事場の馬鹿力なんて出させるから
二人がしょうもない
俺もあんな風に
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