現代催眠学基礎論
牛屋鈴
1.人格上書き
俺、
授業中、休み時間を問わず、彼女と目が合う瞬間が多い気がする。もしかして彼女は俺のことが好きなんじゃないだろうか。
そんな浮かれたことを考えてみたりする。
・・・2・・・
五月二十日、目が覚めると知らない天井だった。知らない部屋、知らない布団、知らない扉知らない廊下知らない階段知らない間取り知らない家具。
「あ、お姉ちゃんおはよう」
「泉、おはよう」
知らない家族。
「……!?」
妹らしき人物と母親らしき人物の
知らない
クラスメイトの浅田泉さんの顔だった。
「な……なんだ、これ。泉さんの体に、俺の精神……?」
ということは、今頃俺の体には……!?
急いで部屋に戻り、泉さんのスマホを手に取る。幸い、ロックは
そして、自分の電話番号を素早く打ち込み、自分のスマホに通話をかける。
『もしもし……岩倉和真です』
聞きなれた
「……
『何言ってんの?』
長い沈黙が流れる。
「い、いやだから。今、俺達入れ替わってるよねって……ことなんだけど」
『……何言ってんの?』
帰ってきたのは同じ
「今、泉さんの体の中身は俺だ。岩倉和真だ。だから今、岩倉和真の中身は泉さんだ。そうだろう?」
『いや……岩倉和真の体の中身は岩倉和真だけど……』
「……は?」
じゃあ俺は一体……何なんだ?
『えっと、俺、そろそろ家出るから。それじゃ』
ぷつっと通話が切れる。
「もしかして……入れ替わってない!?」
・・・1・・・
朝、教室に入ると泉さんが俺を見つめて目を見開いた。
「お、俺が居る……」
そして
「おいお前!本当に俺なのか?岩倉和真なのか!?」
さっき、
「そうだけど……?」
俺がそう答えると、浅田さんは頭を抱えてしゃがみこんだ。
「……どういうことなんだ?」
こっちの台詞だ。
「……話がある。どこか別の場所に行くぞ」
泉さんは立ち上がりながら、俺の腕を引っ張った。女子との触れあいに少しドキッとするが、何だか
「話って……さっきの体の中身がどうこうって話?」
「そうだ。お前の方になんら変化がないっていうのは置いておくにしてもだな……今泉さんの体に俺の精神……つまり岩倉和真の精神が入ってる!これは
泉さんが熱を入れて話す。しかしやっぱり俺には信じられず、
「……岩倉和真の精神はここだよ。何で同じ人間の精神が二つあるんだ」
自分の胸を軽く叩く。
「だから!それについても話し合おうって言ってるんだ!」
「……ごめん。ちょっと、その冗談にはついていけない」
「冗談なんかじゃない!証拠だってあるんだぞ!?」
「証拠?言っておくけど、俺の電話番号を知ってたことは証拠にならないよ。それくらいちょっと調べればすぐに……」
「俺は……お前は小学三年生の頃、担任の先生が好きだった」
泉さんが俺の台詞を
たしかに、俺は小学三年生の頃、担任の先生が好きだった。……それは事実だ。しかし、誰にも話したことはない。
「それをどこで……」
「まだまだあるぞ。中学の頃に一度だけカンニングしたことがある。昨日学校近くの自動販売機からいちごオレがなくなっててショックだった。昨日のおかずのウィンナーを一回床に落としたけど拾って食べた」
泉さんが俺の情報を
「パソコンに『新しいフォルダ』って名前のフォルダがあるけどあれ実は」
「ストーップ!」
それ以上はいけない。
「へへ……止めてくれて助かった。あれ以上は、俺自身にもダメージがあったからな……」
どうやら、認めざるを得ないらしい。
……こいつは、俺だ。
・・・1・・・
何故こうなったのか、どうすれば治るのか。二人で
「……だからって図書室なんか来るか?夏休みの
俺と俺(
「仕方ないだろ……こんなの絶対普通じゃない。病院なんかに行ったら余計にこじれる気がする。この体はいずれ泉さんに返すんだ。その時イカれた奴扱いされてたら
「うーん、まぁ……そうか……?」
「ほら、分かったらお前もそれっぽい本を探してくれ」
二号にせっつかれながら、本棚を眺めてみる。とはいえ、やはりどんな本を選べばいいか分からない。人格についてだけ考えるなら、心理学の本なんかが良さそうだが……俺しか知りえない記憶を
二号はそんなこと気にしていないのか、目に付いた本を
俺も無関係ではないのだ(おそらく)。少し気合を入れて本を探すと、
タイトルは、『
「その本に興味があるの?」
手に取ろうとすると、
腰までかかった長い黒髪。
「私の名前は
「俺は……岩倉和真。えっと、ただの二年生です」
名乗られたので、
「そう、和真君。……その本、読むの?」
「あ、はい……」
「どうして?」
透子さんが俺の顔を
「おい、こんな
「……君、名前は?緊急時って?良かったら、教えてくれないかしら」
透子さんが二号に少し身を寄せる。二号は少し考えた後、問題ないと判断したのか事情をそのまま伝えた。
「この体は、浅田泉って女子の物なんだけど……今はなんでか俺、岩倉和真の精神が入ってる。けど、岩倉和真の体の方にも変わらず岩倉和真の精神が入ってる。この状態を解決する方法を探すために、二人で図書室に来たんだ」
透子さんは事情を聴き終えると、
「なるほど……おそらくそれは
「催眠術ぅ?」
放たれたその言葉はどうにも
「こいつは……浅田泉は、自分を岩倉和真だって思い込んでるってことか?でもこいつは、本物の岩倉和真じゃないと知りえない記憶を持ってる。催眠術じゃ説明がつかない」
「催眠術という物は、あなた達が思っているよりずっと
透子さんの話を聞いて、二号が身を乗り出す。
「……
「お、おい。信じるのかよ。催眠術だぞ?催眠術」
「……しょうがないだろ。他に
二号が透子さんを期待の
「いやぁ……時間の無駄だと思うぞ?催眠術なんてあるわけないし……」
「あら。あなたも一度はこの本を手に取ろうとしたでしょう」
透子さんが『現代催眠学基礎論』の背表紙を指でトントンと叩く。
「それは、そうだけど……」
「何だお前さっきから、否定ばっかりだな。実際にこんなことが起きてるんだから催眠術の一つや二つ、あっても不思議じゃないだろ」
二号が手を広げて自分という不思議存在をアピールする。……そう言われても、やっぱり
「……多分、君は二号君と違って実際に体験していないから、催眠術の存在を信じられないのね」
透子さんが俺の前で指を立てる。
「なら、実際に体験してもらいましょう……『
立てた指を下に振る。
すると、図書室は燃え上がった。
「……えっ」
本や棚を炭にしながら、
木の
大量の
呼吸に混じる、灰の味がする。
肌を
俺の五感全てが、図書室を
「うわあっ!?」
たまらず倒れて手を床に着くと、手が焼ける感覚がした。
「うっ……ぐぅ……!」
「お、おい、どうしたんだよ」
隣の
炎は全てを飲み込んで、
「あ……ああ……」
視界が炎でいっぱいになる。
「うわあああああっ!!」
次の瞬間、図書室は元通りになっていて、透子さんの指は立っていた。ただ俺の
透子さんが立てた指を口元に持っていく。
「図書室ではお静かに」
どうやら、認めざるを得ないらしい。
……催眠術は、ある。
・・・1・・・
場所を移して、図書準備室。
「なんで寝袋……?」
「私、ここに住んでるの」
透子さんは何でもないような声でそう言った。
「……は?いやなんで、っていうか無理でしょ」
この図書準備室が使用率最下位の教室と言われても驚きはしないが、それでも使用する人間は確実に存在するだろうし、
「いいえできるわ。催眠術があれば」
透子さんが指を右に左に振る。その
「……聞きたいのはそれです。何なんですか、催眠術って」
透子さんが俺達に向き直り、口を開いた。
「言語、あるいは五感にて
どうやら透子さんは説明があまり得意ではないらしい。
「……よく分かんなかったので、その本貸してください」
透子さんが手に持つ『現代催眠学基礎論』を受け取り、開いてみると一ページ目にさっきと
「言っておくけど、その本は時間をかければ読み解けるという物でもないわよ。一ページ目はまだ日本語として認識できるでしょうけど……催眠術師としての能力がなければ、ページが奥に行くにつれてどんどん認識できなくなる。そういう催眠術がかけられている本なの。私ですらまだ
その説明を聞いて余計によく分からなくなってくる。
「……結局、催眠術ってなんなんですか?」
「脳をなんやかんやする技術……今は、それくらいの
透子さんの
「なんやかんや……」
眼前でピンと指が立つ。さっきのトラウマが
ならば逆に言えば、振られる指さえ見なければ大丈夫なはず。俺はぎゅっと固く瞼を閉じた。
「人間が情報を得るときに使う感覚は視覚だけではないわよ。聴覚、触覚……」
そこまで聞こえた時点で、耳を
だが、すぐにこれだけでは
「ひっ……」
「ま、また催眠術使ったな、透子さん」
「理解の
そう言う透子さんの口元は少し笑っていた。俺はこの人が苦手かも知れない。
「まぁ、催眠術がどういう物かは分かっ……てないけど。それで、結局この状況は何が原因で、どうすれば元に戻るんですか?」
「原因は……
「攻撃……」
さっきの幻覚はまだいたずらに収まるレベルだけど、もしこんな力を誰かが悪意を持って使ったら。そう考えると、体が
「大丈夫よ。私ぐらいの術師はそうそう居ないから……とはいえ、和真君の人生十七年分の情報を
透子さんが催眠学の本を眺める。
「……そんな嫌がらせを受ける覚えはないんですけど」
「じゃあ和真君じゃなくて泉さんがターゲットだったのかもね。彼女の精神を
「だとしたら、俺の精神に上書きする意味は……」
「さぁ?一番コピーしやすかったとか。何にせよ、君のことをジロジロ見てた人間が居るはずなんだけど……心当たりはない?」
一瞬、泉さんの視線が
「ない……です」
何故か、
「その、俺達に攻撃した術師を見つけて、術を解かせればいいんですか?」
「それでも良かったけど、犯人が分からないんじゃ無理ね。そもそも素直に解いてくれるとも限らないし、下手な
「別の作戦?」
透子さんがびしっと、俺の顔を指差す。
「和真君。君には
・・・1・・・
それから一週間。俺と二号は図書準備室に通い詰めた。
「……来たわね。それじゃ、今日の
向かい合った椅子に、二号と一緒に座る。そして、二号の目を見つめる。透子さんが持つタイマーの、
「スタート」
目の前には二号が居る。こいつは今、思考している。他人の脳を借りて
俺にならできる。俺にならできる。俺にならできる。
上記の思考をたっぷり十五分間続けた後、ようやくタイマー
「……終了。今日の特訓はここまでよ」
二号と二人で大きく息を吐く。思考を強制された俺はもちろん、ずっと見つめ続けられていた二号もそれなりに疲れるらしい。
「……透子さん。本当にこんなので催眠術を覚えられるんですか?」
俺は今、とある催眠術を覚えるための特訓をしている。催眠術を
「例えば異国の言語を覚える時、『いつか喋れるようになる』というイメージがあるかないかで
そんな風に言われても、俺はただ毎日十五分間、二号を見つめながらうんうん考え込んでいるだけだ。本当にこんなことでいいのか不安にもなる。
「その不安が、習得を
「胡散臭い……」
二号がもどかしそうに透子さんの顔を見る。
「えっと……強い目的意識っていうのは、
透子さんは目を伏せて首を横に振った。
「……ダメよ。君が覚えるより、一号君が覚えた方が効率的だから」
「……いや、透子さんが解除術をやってくれるのが一番効率的なんじゃ?」
「私は解除術を習得していないし、これから習得することも不可能なの。催眠術は一つ覚えるごとに脳の
透子さんがピンと指を
「いったぁ……またかけましたね、催眠術」
「催眠術が可能と信じるには、催眠術が存在することをもっと
透子さんがもっともらしいことを言う。
「……とにかく。全部お前の
二号はそう言って席を立った。何か
・・・2・・・
俺が泉さんの体を
本当は、事が解決するまで自分の家で
それに、家族や友達に対する
こうして、俺は浅田泉に
例えば、
女子の体に入って着替えなんぞ
そして、泉さんの家族と
「あ、お姉ちゃんおはよう」
「泉、おはよう」
「うん……おはよう」
おはよう。この言葉は、俺に向けられた物じゃない。この体の持ち主、浅田泉さんに向けられた言葉。その言葉を聞くたびに、自分が
また、朝食などの
「ご、ごちそうさま。
朝食を終え、そう言って席を立とうとすると、泉さんのお母さんが少し
「……泉がご飯の感想言ってくれるなんて
やってしまった。これ以上ボロを出さないよう早めに切り上げねば。
「い、いってきますっ」
毎朝、こんな風に逃げるように家を出る。
「はぁ……」
家から離れ、一息つく。逃げ出した先の通学は、
けれど通学はすぐに終わり、俺は次に教室の扉を開けることになる。ここではもちろん浅田泉を
扉を開くと、
「……ね、泉。今和真君の方見てなかった?」
隣の席の女子生徒が話しかけて来る。彼女の名前は
それが今では、俺が学校で泉さんを演じるにあたって最も多く、そして上手く
「何かあったの?」
「……う、ううん。たまたま目が合ったから、会釈ぐらいしないと
美和さんが俺を見つめる。まずい、何かボロを出したか。額から嫌な汗が
美和さんが口を開く。
「……そっかー。最近よく和真君の方見てるし、泉にもようやく春が来たかなって思ったのに」
「あ、あはは……」
……どうやらセーフだったらしい。滲んだ汗を
もう嫌だ。もう一号が解除術を習得するのなんか待ってられない。透子さんは『下手な接触は危険』と言っていたが……もうこれ以上、勝手に泉さんの寿命を縮めるわけにはいかない。
探してみるか……泉さんに『人格上書き』を
まず、泉さんはいつ催眠術にかかったのか?俺が二号としての記憶があるのは八日前の朝から。つまり、泉さんが術にかかったのは九日前の
泉さんのプライバシーを
隣の席に視線を送る。
「ん?どうかした?」
この情報だけで考えれば、彼女が最も
「ね、ねぇ……美和ちゃん」
「うん」
「九日前の夜……通話したよね。えっと、私達は何を……話してたん、だっけ」
「あぁ、催眠術の話でしょ?」
催眠術。
俺の推理をよそに、美和さんはこう続けた。
「驚いたなぁ、泉が夜中に『催眠術について教えてほしい』なんて言ってくるんだからさ」
「……え?」
泉さんから催眠術の話を出したのか……?
「ついに泉もオカルトに興味持ってくれたのかと思うと、嬉しかったねー私は!そういえば……心なしか泉、変わったよね。あの日から……もしかして、本当に
「えぇっ!?そ、そんなわけないでしょ……?」
「本当にー?何か喋り方とか、
美和さんが試すような
「ち、違くないってばー……あはは……」
自己暗示?一体どういう内容の話をしたのか、もっと
はぐらかすように笑うと、美和さんはそれ以上に
「ふーん……ま、どっちでもいいけどね。私は今の泉も好きだし」
「えっ?」
今の泉さん……とは、俺のことなのだが。
「どうして?」
「どうして、って……普通に?」
美和さんはなんともなしにそう言った。俺は、岩倉和真であることを許されたような気がした。
心休まる時間が、一つ増えた。
・・・1・・・
図書準備室でタイマー停止の音がなる。特訓を始めて二週間。これで十四回目だ。
そんなどうでもいいことを考えてしまうくらい、俺の頭は集中できていなかった。
「一号君……集中できてなかったでしょ」
それは、透子さんにも見抜かれてしまっていた。
「はい……」
「焦りやら疲れやらあるのでしょうけど、この精神集中は催眠術においてかなり重要なの。あんまり連続でやっても
「その本……借りるのか?」
「あぁ。
……ちなみに『俺』は、そんなに小説を読む方ではない。嫌いというわけでもないが、
しかし今、二号が抱えている本は二、三冊。全て恋愛物だった。
「……なんでその本を選んだんだ?」
「この前、友達の美和さんが恋愛物を勧めてきてさ。読んでみたら面白かったから、他のにも興味が出て来た」
……何で今、『友達の美和さん』の前に『泉さんの』を付けなかった?
「何か……同じ俺じゃないみたいだ」
「そうか?趣味が少し変わったくらいで、
二号が
「
カウンターの上に本を積んで、二号が俺に問いかける。
「俺が俺の意思で本を借りちゃ、駄目か」
「……なんて、答えて欲しいんだ?」
質問に質問で返す。お互い答えず、
「すいませーん、泉居ますかー?」
唐突に図書準備室の扉が開き、女子生徒がひょっこりと顔を
「あっ、美和ちゃん」
「泉居た。ここに居るって聞いたんだけど、何してたの?」
「透子先輩に、図書委員の話聴いてたの。丁度終わったし、一緒に帰ろ」
二号は、自然に美和さんと話していた。それは泉さんとして振舞うことに
ただ一つ確かなことは、二号があんな楽しそうな顔を見せるのは美和さんの前だけだということだ。
二人が、さっき借りた本を手に取って
透子さんから聞いたアドバイスを思い出す。『成功した後のことを明確にイメージする』……。
俺が解除術を成功させれば、取り戻せる物がある。その一方で、失われる物がある。
一度失われれば、『俺』では二度と取り戻せない物。
・・・2・・・
帰り道。夕焼けが、世界をオレンジに
美和さんと一緒に下校する。一日の中で、一番楽しい時間だ。
「そこでさぁ、主人公が泣くじゃん?もう私すっごい
「分かる。それ私もー」
思ったままに、勧められた本の感想や、生活のことについて話す。泉さんなら、こんな時どんなことを話すだろうかとか一切気を遣わずに、ただ
それでも美和さんは何も怪しまない。何も探らない。変化に気づいていないわけではないだろう。ただ、俺のことを受け入れてくれているのだ。そのことが、この上なく嬉しかった。
家族も、学校も、もう一人の俺でさえ、俺が浅田泉であることを求める。彼女だけだ。世界で彼女だけは、俺が岩倉和真であることを許してくれる。彼女の側は、
「それじゃあ、また明日ね」
でも、そういう時間ほどすぐ過ぎる。いつの間にか俺は浅田家の前に立っていて、美和さんは手を振って俺の側から立ち去ろうとしていた。
……嫌だ。こんな
「待って」
そう手を伸ばすと、彼女は
「今日……美和ちゃんの家、
彼女は、まるで俺がそう言うのを分かっていたような笑みを浮かべた。
「いいよ。おいで……もっと、二人で居ようね」
・・・2・・・
美和さんと共に過ごす一日は、本当に幸せだった。美和さんと一緒にご飯を食べて、テレビを見て、風呂に入って……。
浅田泉として生きてきたこの二週間はもちろん、岩倉和真として生きてきた中でも一番幸せな時間だった。
美和さんが部屋の扉を開ける。
「ごめんね……私の
「う、うん……」
俺は一応、中身は男なんだけど……まぁ、いいか。そういうことするわけじゃないし。
そう思ってベッドに
「後でいいんじゃない?」
美和さんはそう言ったけれど、
『泉、あなた今ど……お姉ちゃん、今どこ?』
通話の声が
「えっと……友達の、美和ちゃんのお家。今日、泊らせてもらうことにしたの」
『帰ってこないの?……なんで?なんで何も言ってくれなかったの?』
「ご、ごめんね?忘れてて……」
『なんか、最近のお姉ちゃん変だよ……本当に私のお姉ちゃん?』
「……」
『ねぇ、私の誕生日、覚えてる?』
「……ごめん。忘れちゃった」
『……今日、だよ!』
小さなスピーカーから、世界をかき回すような泣き声が聞こえた。その切れ間に、妹を
怖くなった。妹の泣き声をどれだけ聞いても、『俺』は何も感じないのだ。こんな自分が、
・・・2・・・
図書準備室で『現代催眠学基礎論』を読む。一人きりでページをめくっていた所に、透子さんがやってきた。
「あら、今日は早いのね。でも、一号君は一緒じゃ……」
「透子さん。何で俺じゃなくて一号に解除術を覚えさせたんですか」
室内を見回すのをやめて、透子さんが俺の手元を見た。
「……読めたのね。そのページが」
「実際に催眠術を喰らって……それが一か月も続いてるからですかね。俺も
ページをめくる。
「『自分にかける催眠術……自己暗示は、一人で完結しているものだから他の術と比べて習得、開発しやすい』……そうですよね?」
「……ええ、その通りよ」
「じゃあ、なんで俺に解除術を教えなかったんですか」
透子さんが身構える。
「それは……」
「……いや、やっぱいいです」
聞かずとも分かっている。俺では、『やらなきゃ』という気持ちになれない。それが、俺が解除術を習得できない理由だ。
「それでも……覚悟は、できてますから」
「そう……ごめんね」
透子さんはそう言って、少し
そこで再度、図書準備室の扉が開く。そこに立っていたのは、一号だった。
「……さぁ、始めましょうか」
・・・1・・・
図書準備室の扉を開く。そこに居たのは透子さんと、二号だった。
あれから更に二週間……事件の始まりから合計約一か月。昨日、俺の解除術はついに実用可能に至った。至ってしまった。
そしてその昨日から更に
「さぁ……始めましょうか」
透子さんが二号の向かいに椅子を引く。そこに座って、二号と向かい合う。
これから行うことはいつもの特訓と同じだ。精神を集中させて、術を成功させるイメージをする……けれど、いつもと違う所がある。
これが終わったら、二号は……。
「なぁ、やっぱりやめないか」
「何言ってんの?」
長い沈黙が流れる。
「……だって!今、泉さんにかかってる『人格上書き』を解いたら……お前の精神が消えちゃうだろ……?」
「……何言ってんの?」
帰ってきたのは同じ台詞だった。
「お前は!もう俺じゃない……一か月も別の人生を過ごして、
俺がそう言っても、二号は涼しい顔を
「……そんな
二号が自分の、あるいは泉さんの手のひらを見つめながらそう言った。
「違う。泉さんは困らない。お前は気付いてないかも知れないけど……多分、この『人格上書き』を発動したのは泉さん自身なんだ。ほら、最近泉さんによく見られてただろ?きっと、あの時に俺の情報を読み取ってたんだ。だから……」
「いや、気付いてたよ……
「居場所ならあるだろ!美和さんとあんなに、楽しそうにしてた!」
「……それでも!俺を
二号が
「俺は、ここに居ちゃいけないんだよ……」
「……お前が何と言おうと、俺はやらないぞ。解除術なんて……どうしても死にたいんなら、自分で解除しろ」
「……っ、できるわけないだろ……」
二号の顔が、崩れる。
「俺だってっ、死にたくない……!」
そこで再度、図書準備室の扉が開く。そこに立っていたのは、横江美和だった。
「んー?まだお話中?」
二号が声を
「美和、ちゃん……」
「泉、早く一緒にかーえろ」
美和さんはそう言って泉さんを、あるいは二号を抱きしめようとした。そうだ。今のこいつを求めてくれる人間はちゃんと……。
「待ちなさい。横江美和」
その前に、透子さんが口を開いた。
「……何ですか?えっと、狐塚先輩」
「あなた。何でここに入ってこれたの?この本と同じ形式の、軽い
透子さんが『現代催眠学基礎論』の背表紙を指でトントンと叩く。
「結……界?すいません。何の話ですか?」
美和さんは何かの冗談だと思っているようだ。
「……あなたを
透子さんが『現代催眠学基礎論』の
「これ、読める?」
美和さんはそれをしばらく見つめた。その後、こてんと首を
「いやぁ、読めないです。何ですかこれ?」
「……ダウト」
突き出された紙が、ふっと消えた。
「……!?」
「さっきの紙は何の変哲もないただの幻覚よ。
「み、美和さん……?」
透子さんが
「……いやぁ~。折角上手くやってきたのに、ここでバレちゃうかぁ……」
美和さんがそう答えた瞬間、彼女の腕が一瞬燃えた。透子さんはただ指を振っただけ。すでにこの図書準備室が、透子さんの手のひらの上である証拠だった。
「……ここからは、気を付けて喋ることね」
「……!私に自由はないってわけ……怖いなぁ~、『苛烈幻覚』の狐塚透子!」
燃やされた腕を押さえ、冷や汗をかきながらも美和さんが透子さんを睨み返す。透子さんはそんな視線を
「質問。あなたの催眠術は何?」
「くだらない質問。確かめるまでもないでしょ?『人格上書き』。効果は見ての通り」
美和さんは、二号を指差してそう言った。
「そんな……『人格上書き』は泉さんが自分で……」
「楽観視しすぎ。まぁそうさせるようにしたの私なんだけど……あの電話の話は
「……どうして、そんなこと!」
二号が椅子を
「……和真君。私ね、和真君のことが大好き。大大大好きなの!」
「はぁ……!?」
美和さんがこちらを見る。その瞳は
「ず~……っと片想いしてたんだけどね?友達が急に『和真君のことが気になるの』なんてムカつくこと言い出しちゃってさぁ?どうしよう。泉のことは嫌いたくないし、和真君も取られたくない……いっぱい悩んだ。悩んで悩んで悩んで……
「な、なんだよ、それ……まともじゃないよ、美和さん……」
「まともじゃない?こんな私は嫌い~?……じゃあ、忘れちゃおっか」
美和さんが俺達の前で指を構える。
「狐塚透子……!私のこと、追い詰めたと思った?残念、術の
「ちょ、ちょっと待ってくれ……美和さん、君が好きなのはどっちなんだっ、一号のこいつか!二号の俺か!」
二号が縋るような瞳で叫ぶ。その叫びに対して、美和さんはきょとんとした顔で答えた。
「え?どっちも同じ和真君なんだから、どっちもに決まってるじゃん……っていうかその質問要る?どうせ今から全部同じに戻すんだし」
その答えは、この一か月間の否定だった。二号が、
「そんな……」
「さぁっ!皆行くよ!この一か月の記憶は無くして、今度は四人で仲良くしよ……」
美和さんが指を鳴らそうとした瞬間、彼女の手首から先が消し飛んだ。床から生えた太く長く鋭い針に、
「え……」
その針が更に十本、二十本、百本と生える。
「あっ、う、うあっ」
彼女は新しい針が体に刺さる度に体を震わせ、短い悲鳴を
その静寂を破るように透子さんが指を鳴らす。そうして幻覚を解く頃には、既に彼女の意識はなかった。現実に
「……こっちの
その言葉には、言外に『次はそっちだ』という意味が込められていた。
「一号……『人格上書き』を解いてくれ」
二号は体を起こしながら、椅子に座り直した。
「い、嫌だ。そんなことしたら、お前は……」
「お願いだから!……俺の居場所なんか、本当にこれっぽっちもなかった……もうこれ以上、俺に、産まれてきたことを
床に二号の涙がぽたぽたと滲む。俺は、彼の
目の前には二号が居る。こいつは今、思考している。他人の脳を借りて電気信号を走らせている。それをなくせば、泉さんの精神は復活する。俺はそれをしなくてはならない。泉さんの体から、こいつの精神を取り出すイメージ。俺がこいつの手に触れば、それは具現化する。
・・・・・・
今回の事件を思い返す。
次の日から、元に戻った浅田泉さんは俺の方を全く見なくなった。おそらく、
そんなこんなで、俺は今回の事件で
それに
「いやなんで
「……本当はね。あなたが解除術を実用可能レベルで習得するのは一年後だと思ってたわ」
「一年!?」
「でもあなたは一か月でそれを習得した……要は才能あるのよ、あなた。才ある者はそれを世のために
透子さんが俺の前で指を立てる。
「……透子さんに和真君って呼ばれるの、新鮮ですね」
「……そうね。この一か月、最初以外はずっと、一号君。だったものね……でも今は、和真君。そうでしょう?」
今回の事件を思い返す。
正直……俺もこれ以上、催眠術などには関わりたくないのだが……もし、まだまだ横江美和のような悪い催眠術師が居て、そのせいで二号のような存在が生まれるのなら。
「……分かりました。俺も守ります、この町の平和……約束します。もうこれ以上、二号のような存在を生ませない」
「そう。これからよろしくね」
そう言って透子さんは俺の尻を燃やした。
「分かりましたって言ってるのに!」
「術師として鍛えるにあたって、これからもちょくちょく軽めの奴かけるって言ったでしょう」
「じゃあどっちにしろ燃やすつもりだったんじゃないですか!」
ひりひりする尻をさする。こんないたずらを日に何回されるようになるのかと思うと、
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