異世界秋田

金澤流都

異世界秋田

1 サラダ寒天でHPは回復しますか

1-1 秋田県異世界に転移す

 がちゃがちゃっ。玄関の鍵の開く鈍い音。俺は机の上に広げていたノートを、鍵のかかる、子供用の机にしてはセキュリティの厳重な引き出しに仕舞って鍵をかけた。


 玄関ががらがらがらーっと、いまひとつ建付けのよくない音を立てて開く。時計を見ると夜十一時。もうこんな時間か……。玄関に出ていくと、姉貴の萬海まみが、へろへろに酔っぱらって玄関に伸びていた。


「わたしわぁっ。秋田県をぉっ。異世界にぃっ。飛ばしてやったぞいっ」


 酔っぱらってヘロヘロの姉貴は、なにを言っているのかさっぱり分からない。とりあえず玄関で寝られると新聞配達の人がびっくりするので起こす。靴を脱ぐように言うとぺたんこのパンプスを適当に脱ぎ散らかして、たたきの上でまた寝ようとする。


「姉貴、なにを何杯飲んだのや」

「まず乾杯の練習にビールを中ジョッキで飲んでや、おいしかったからビール二杯目飲んでや、マス酒で高清水を三杯いってや、〆にコークハイ二杯飲んできたぁ」


 姉貴は酒好きだが決して酒に強いわけではない。明らかに飲みすぎである。

「なにがあってそんなに飲んだんだよ」

「うふふー。『スケールの大きなものを異世界に飛ばす試み』が成功したからなっ。そろそろくるぞおー」


 姉貴がそう言った瞬間、ぐらりと地面が揺れた。地震だ。しかも結構大きい。慌てて室内に飛び込むも、とき子祖母ちゃんはすっかりぐっすり寝ていて気付いていないようだし、家具などもとりあえず無事だ。安堵する。姉貴はのたのたと家に上がってきて、


「テレビつけてみ? NHK」と言ってきた。テレビをつけると、――地震のニュースとは、違ったニュースが報じられていた。衛星写真が空から日本列島を映しているのだけれど、なんと秋田県だけすっぽりと明かりがないのである。待て。いまこの家は明かりがついているし、お隣さんの事務所も、お向かいさんのリビングも、煌々と明かりが点っている。


 ……どういうことだ?

 理解が追い付かない。姉貴をちらりと見ると、スポーツドリンクで電解質を補充していてニコニコしている。嫌な予感しかしないのだが。


「どういうことだ?」

「そのまんま、秋田県をまるごと異世界に転移させた」


 姉貴はまたわけのわからんことをのたまう。異世界て。そんなもんあってたまるかよ。いや確かに俺は結構中二病をこじらせたまま高校生になった男だ。中学のころ図書室の異世界転生ラノベをこっそり夢中になって読んだりした。でもそれだって、フィクションだということは分かっている。


 なんもねえとこサなんもねえとこを転移させてどうするざぁ……。


 酔っぱらった姉貴は、「時代は異世界だぞ陸斗。最初はスペースコロニーに秋田県を搭載させようという企画だったのだが、それはつまらんと異世界に転移させたわけだ」などと、訳の分からないことを供述している。


「時代は異世界って……異世界をなんだと思ってるんだ……」

 そう答えてテレビを再度見る。こんな夜遅くだというのに、官房長官が似合わない作業服で現れて、


「秋田県が日本の上から無くなりました。秋田県庁は、地震があっただけで、あとは何も変わらない、と、そう言っております」と、面倒そうに説明している。頭の中を、2016年の大ヒット映画の音楽が、「でーんでーんでーんでーんどんどん」と流れていく。


 気が付くと姉貴はぱったりとソファで寝ていた。起こすのも可哀想なので、テレビを止めて、姉貴にぱさりとタオルケットをかけてやる。部屋に戻り、俺も寝てしまうことにした。



 翌朝、タオルケットをもぞもぞ這い出し、布団を雑にたたんで押し入れに押し込み、それから居間にいく。さっさと出かける支度をしないと電車に間に合わない。六時三七分の下りで弘前までいくのだ。俺は諸事情あって、秋田県内でなく青森県の弘前にある高校に通っている。時計を見る。五時半。急いで自然解凍で食べられる冷凍食品を弁当箱につっこみ、カバンに押し込む。がしがし寝ぐせを直し、制服に着替えていると、茶の間からとき子祖母ちゃんの

「はった!」

 という叫びが聞こえてきた。要するに、「ええっ?」とか、「しまった!」みたいな、そういいう意味である。


「大変だあ陸斗。秋田県がなくなってらぁ」


 とき子祖母ちゃんはNHKを見ていた。一夜明けて、改めて衛星写真を見ると、日本列島の、秋田県があるべき場所が、すっぽりと黒くなってなくなっていた。


「は? わ、訳わかんねっし」

 そんなことを言いつつ、俺は「とりあえず学校行ってくる」と家を出て、バス停で赤青黄色の三色をシンプルにデザインした、おなじみ秋北バスのバスに乗り込み、大館駅に向かった。


 大館から秋田市方面や青森方面、盛岡方面に向かう人で、駅は混雑していた。


なにやら掲示板が出ている。「秋田県境をまたいだ先にレールがありませんので、花輪線および奥羽本線は県内のみの運行です」とある。いや花輪線と奥羽本線しかないんだけどな、大館駅。


 ……つまり、弘前サは行けねえってことだか? 慌ててポケットからスマホを引っ張り出し、高校に電話をかけてみる。担任の先生が出たので、かくかくしかじかと説明すると、


「うん、秋田県から通学してる生徒はみんな来られなくなってるみたいだ。きょうのところはとりあえず休みにするって」とのことだった。


 ……はあ。まあ、学校も休みになったわけだし、のんびりやるか……。

 というわけで三十分ほどバスを待って家に戻ってくると、とき子祖母ちゃんが平常運転でニュースを見ていた。どの局に回しても、秋田県が日本から消滅したニュースをやっている。朝ドラは飛んでしまったようだ。秋田県庁からの映像も、やっぱり知事が作業服を着て「未曾有の大事件であります」といささか訛った口調で言っている。


 ――電波はあるんだよな。弘前の学校サ電話がかかったってことは。


「祖母ちゃん、姉ちゃんは?」

「萬海だばさっき盛大にゲロ吐いて、部屋サ戻って寝てらよ。あーあ、朝ドラ飛んでしまったものなぁ……楽しみにしてあったんだばって」


 とき子祖母ちゃんは文句を言いながら化粧している。とき子祖母ちゃんは化粧をしないと元気が出ない、とよく言っていて、山菜採りにまで化粧していく。アクティブでよろしいことだと思う。


 階段がどたどた音を立てて、

「で、でんかいしつ……」という姉貴のゾンビめいた声が聞こえた。


 しょうがないのでコップにスポーツドリンクを注いで渡すと、姉貴はそれをぐびぐびーっと飲んで、「ふう、甘露甘露……」と、二日酔いっぽいことを言った。


「姉貴、これどーゆーこと? 学校には電話できたけど、物理的には行けないっぽいし」

「うむ……玄関前にわたしの作ったテレポーターがあるじゃろ?」

「お、おう」


 姉貴はこう見えて謎の研究施設に勤める科学者である。小さいころからヘンテコなものを発明するのが大好きで、小学生のころは郷土博物館でやっている発明クラブなるものに参加していた。中学校を出たところで飛び級で海外の大学に入り、ハタチそこらで日本に戻ってきて、いまは謎の研究施設に勤めている。謎の研究施設は東京の地下ずっと深くにあるらしい。その研究施設に行くのに使っていたのが、玄関前のテレポーターなのだ。


「あれの原理で、電力とか電波とか、水道とか、そういうのはもともとの日本につないである」

 はあ。よく分からないけれどすごいのは分かった。


「でも俺学校サ行けねぐなったけど、どうすんの」

「どーせ世の中が高校出とかないときびしい、みたいな理由でわざわざ弘前まで行ってるんじゃろ? 電車賃の無駄だ。家でぐうたらしたいだけぐうたらしてろ」


「え、い、いや、俺だってそれなりに高校楽しんでたし」


「うそつけ」


 一方的にうそと言われてしまった。まあ確かにそうなのだが……。

 とにかく学校に行けないことはわかった。じゃあ何をしようか、と思ったとき、ふと、隣町である比内の扇田で暮らすもう一人の祖母のことを思い出した。腰が曲がって、家の中でも歩くのにせいいっぱいで、不自由な暮らしをしている、ミツ祖母ちゃん。

「姉貴、ミツ祖母ちゃんとこ行きたい」

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