第二節



 朝カーテンを開けると前日まで降っていた雨はぴたりと止んでいて、世界はほんのり濡れていた。



 木々は露を葉に纏い、太陽の光を弱々しく反射する。

 道路の陥没した部分には綺麗な空を模写する水溜まりが在って、長靴を履いた小学生が地べたに投影された小さな空を歩いて行く。


 逃げ遅れたカタツムリたちは優雅に散歩をしていて、雨が過ぎるのを待ち望んでいた羽虫たちは待ってましたとでも言わんばかりに元気に飛び回る。


 空気は湿った土の香りを含んでいて、校庭の隅の方には若布わかめみたいな不思議な物体がうねうねと大量に発生して気持ち悪い。


 私はそれらを見てすぐに家を飛び出した。


 年甲斐もなくキャラクターものの飾りをつけたクロックスを履いて淡い色合いの薄手のカーディガンを羽織り、実際にはしないけれどスキップをしてしまうほどの気持ちで道を行く。


 私の手を引く少女は居ないけれど、それでも一人で濡れた街を歩き進んで行く。


 道路の陥没した部分にできた水溜まりを思いっきり踏みつけて飛沫を上げさせる。

 他の歩行者が居たのなら迷惑に為るのだが、幸い今は早朝だ。

 他の歩行者など水溜まりに映った自分の姿に驚くノラ猫くらいのものだ。


「ふふふ。猫ちゃん。ほらほらおいで〜」


 可愛らしい猫の前で立ち止まり、目線を合わせるようにしゃがみ込んでチッチッと舌を鳴らして呼んでみる。


 ついさっきまで自分の姿に驚いていた黒色のノラ猫は、突然現れた私を警戒して鳴き声を上げる。

 それでもめげずに私が呼び続けていると、猫はついに踵を返して逃げ出してしまった。


「あーあ」


 口では残念がるように声を発するが、私の心は別に黒ずんでいるわけではない。

 私は再び歩き始める。

 遠くに見える虹の麓を目指し、再び。




 そのうち何度か路地の行き止まりと出会いながらも、私は自分の暮らす生き辛くも優しく美しい街を抜け出した。

 前日まで空を灰色の分厚い雲が覆っていた所為もあり、快晴の空の青色が瞳に沁みるほど眩しく感じられる。


 片側一車線しかない名ばかりの国道に沿って歩き続けると、住宅の数は次第に減っていった。

 代わりに、虹の麓がどこに在るのかが明瞭になる。

 私の視界には山々が映り、その中の一つに虹の麓が在るようだ。




 ついに辺りから住宅が姿を消し、辿り着いた小さな山。

 その麓には山頂へと続く長い階段が伸びていて、虹はその山頂から出ているようなので私は階段を上り始めた。


 地面を階段状に掘り、それが崩れないようにと木材で補強しただけの心もとない階段は、前日の雨をふんだんに吸い込んでいてベチャベチャとしていた。


 そんなぐちゃぐちゃな階段を足が汚れてしまうことも気にせずに歩き続ける。

 私が踏みつけることで飛び上がり、ザラザラとした触感で私の足に纏わり付く泥の感触が今は心地よく感じる。


 風が木々を揺らす音と私の息遣いだけが聞こえる中、虹の麓に辿り着けたのならどうしようと考える。


 とりあえず、記念撮影でもしようか。

 それとも、虹を生み出している場所の土をポケットに入れて持ち帰ろうか。


 そんな下らない事を考えている内に木々に囲まれていた視界は開け、私は山頂にたどり着いた。


 先ほどまで木々に遮られていた太陽の光が、私を直接襲う。

 その眩しさに手のひらで日の光を少しだけ遮って目を細める。


 ほんの一瞬、目が太陽の光に慣れるまでそうやってやり過ごす。

 そこには虹の麓があるはずで、私はそれを両の瞳でしっかりと見る為に目を慣らす。


 やがて、瞳は日の光の明るさに慣れて、眼前の景色は明瞭に為った。


「…………」


 けれどそこに虹の麓は無く、ほんの少しの開けた土地が広がっているだけだった。

 虹自体も姿を消しており、周りを見回したところで見つからない。


 やっぱり、”いつも通り”だ。

 だから、別にがっかりしてしまう事はない。


 そのまま暫くの間、置かれていた木製のベンチに腰を下ろして山頂から見える町並みを眺めた。

 すると、遠く向こうに見える山から虹が伸びているのが見えた。


 けれど、その虹の麓を目指そうとは思えない。

 そこまでの元気を私は持っていない。

 溜め息を吐き、もう少しだけゆっくりしてから帰ろうと思った。



 雨上がりのよく晴れた日、辿り着ける筈がないと分かりきっている虹の麓を目指し、フラフラと散歩をする。

 そして、辿り着いた先に虹は無くて、がっかりしながらも景色を眺めて緩やかな時間を過ごす。


 私はこの時間が大好きだ。


 これが今の私にとって、”一番幸せな時間”だ。

 私が”一番救われる時間”だ。


 きっと、誰かにこの事を話せば笑われてしまうだろう。

 けれど、私は私自身が素敵だと思ったこの時間をくだらないと笑い飛ばし、捨ててしまう事は絶対にしない。

 何があっても、私はこの時間を大切にする。


 大切に大切に胸の奥にしまいこんで、鍵をかけて誰にも触れさせたくない。

 それほどまでに私はこの時間を尊く思っている。


 だって、私が大切にしている大好きなこの時間は、私の大好きな少女ひとがくれたものだから。

 

 



 顔に大きな火傷痕を持った少女……江口里咲が私に与えてくれたものだから。



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