第四節



 二人は、二人だけで世界を完結させようと緋奈の家に篭った。


 冬休みが明け、そろそろ受験の時期だからというだけの理由で学校生活に復帰した頃、すでに皆は里咲を腫れ物のように扱うようになっていた。


 そして、里咲に関する様々な噂が学校中に蔓延していた。

 噂はあながち間違いでは無いものばかりだったから、緋奈は悔しさに苛まれた。


 肩身は狭くなったが、里咲は何事も無かったかのように学校に通った。

 あと二ヶ月程度を頑張るだけだからと言う里咲を見て、里咲が頑張っている間は自分も頑張らなければならないと緋奈は思った。


 皆が里咲への態度を変える中、緋奈だけは絶対に里咲への態度を変えなかった。

 そうして二人は高校受験を終え、無事に同じ高校に合格して新たな生活を手にした。


 高校生になると緋奈は髪の毛を染めた。

 明るくなった緋奈の髪を見て、里咲はものすごく褒めたという。

 そのことが嬉しくてずっと同じ髪色を続けているそうだ。

 緋奈は言う。


「もっと、高校生活は華やかなものになると思っていた。私のじゃなくて、里咲の高校生活」


 けれど、里咲を取り巻く環境はより悪化したのだと、悔しそうに緋奈は言う。


 高校生になってしばらくして、里咲は目元に大きな青痣を作って学校に来た。

 クラスメイトは里咲の過去を知らない人間ばかりで、顔の痣を見て「どうしたの?」などと呑気に聞いた。


 里咲はクラスメイトに「転んじゃった」と笑顔で返し、クラスメイトは「ドジだなぁ」と里咲を笑った。

 その日の帰り、緋奈は聞いた。


「また、殴られたの?」


「うん」


「どっち?」


「お父さん」


「……大丈夫?」


「大丈夫じゃ無い。辛い」


「私に何かできることは?」


「無い。ただ、話を聞いてくれればいい」


「…………わかった」


 嘘みたいな話だが、本当に話を聞いてもらうだけで里咲は幸せそうにしていたらしい。

 辛いことがあったら一人で抱え込むよりも誰かに話したほうが楽になれるという。

 多分、その類のものだ。


 里咲の現実を知る人間が緋奈しかいなかった以上、里咲を救うことができたのは緋奈だけで、緋奈は里咲の話を聞くことで里咲を救った。


 相変わらず二人だけで完結する世界に生きていた里咲と緋奈だが、次第に里咲が受ける虐待のレベルが看過できるものでは無くなっていった。


「私、そろそろ死ぬかも」


 高校一年の冬、緋奈の家に押しかけた里咲は泣きじゃくりながらそう言った。

 緋奈は里咲に「私には何ができる?」と聞いた。

 里咲は「何もできない」と悲しそうに言った。


 次第に二人の会話は取り留めの無い友人同士の会話から、辛い現実から逃れるための作戦会議へと変化していった。


 どうすれば里咲は虐待から身を守ることができるのか。

 どうすれば里咲は現実から逃げ出すことができるのか。


 二年生に進級するのとほぼ同時期に二人が導き出した結論は、遠くに逃げることだった。

 どこか遠く、両親が干渉してこない安心できる土地に逃げることだった。


 二人は約束した。

 高校を卒業したら二人でどこか遠くの町で暮らそうと。

 大学に進学するなり就職するなり、何かしらの理由をつけて遠方に行こうと。

 そう約束をした。


 将来を約束した数日後、緋奈の元に里咲から一本の電話があった。


「助けて」


 様々な感情がぐちゃぐちゃに入り混じった里咲の声に、緋奈は慌てて彼女の家へと向かった。

 到着した緋奈を待っていたのは、”顔に大きな火傷を負った血まみれの里咲”だった。


「ちょっ、アンタそれ……どうしたの」


 里咲は怯えた様子で「私、どうしたら」といった。

 これまでの里咲の家庭事情と目の前の里咲の状態、そして里咲の言葉から、緋奈は里咲が何をしたのか直ぐに理解できた。


「なんで前もって」


 助けを求めてくれなかったのかと言おうとして、緋奈は言葉を飲み込んだ。

 とても、計画的なものでは無いと理解できたからだ。


 里咲は前日までは無かった大きな火傷を顔に負っていた。

 顔の右半分を覆い尽くすような、本当に大きな火傷だ。

 つまり、命の危険を感じて自己防衛に走ったところ、偶然”やってしまった”と言うことだ。


 里咲を責めることなどできないと緋奈は理解していた。

 けれど、理解していても緋奈は聞かずにいられなかった。


「どうしてもっともっと前の時点で私に助けを求めてくれなかったの」


 たとえ突発性な出来事であったとしても、事象の僅かな変化から身の危険を察することはできたはずだ。

 だから、どうしてもっと前に言ってくれなかったのだと緋奈は聞いた。


 里咲は何も答えなかった。

 翌日、里咲は顔に包帯を巻いて学校に姿を現した。


 いつものように明るい笑顔で何事も無かったかのように里咲はふるまった。

 だから、緋奈も里咲にいつも通りふるまった。

 いつも通りに振る舞った……のに。


 この日から、何故か里咲は緋奈を少しずつ拒絶するようになっていった。


 いつも二人で下校していたのに、里咲は下校時刻になると緋奈を置いてそそくさと教室を出て行くようになった。


 何か事情があってのことなのだろうと緋奈は理解していた。

 けれど、里咲がどんどんと自分の手の届かない場所に行ってしまうような感覚に、緋奈はとうとう我慢ができなくなった。


 ある日、下校時刻になってそそくさと教室を出て行く里咲を緋奈は追いかけた。


「ちょっと待ってよ!!」


「なに?」


 どこか、余所余所しい雰囲気だった。


「何じゃないって。アンタ、最近変だよ」


「そう? 私はいつも通りだけど?」


 言われてみると、確かに里咲はいつも通りの調子だった。


「ねぇ。なんで最近私を避けてんの?」


「別に、避けてないよ」


「避けてるだろ。どうしてもっと私を頼ってくれないの」


 これまではもっと頼ってくれていたのに。

 絞り出すように言った緋奈を、里咲は突き離した。


「……だって、私の事情にあなたは関係無いでしょ」


 部外者には頼れない。

 里咲はそう言った。


 緋奈はショックだった。

 もう、自分の名前すらまともに呼んでくれないのかと、里咲に怒りすら覚えた。

 嫌悪感すら覚えた。

 そしてつい、カッとなってしまった。


「ふざけてんのかよ」


 緋奈は里咲の頬を殴った。

 バランスを崩して里咲は転んだ。

 殴られた頬を指先でなぞり、里咲は笑った。


「何笑ってんだよ!」


 緋奈は里咲の髪を引っ張った。


「うっ」


 里咲の苦しそうな声が耳に届き、緋奈はいくらか冷静になった。

 けれど、もう退けないと思ってしまった。

 気づけば周りに人だかりができていたから。

 中には携帯電話で事の顛末を映像に収めようとしている者もいた。


 腹が立って仕方が無かった。

 お前らは何も知らないくせにどうしてこの場にいるんだ。

 心の底からそう思った。


「あれ、緋奈じゃん。何してんの?」


 里咲との関係が薄れ始めたに頃にできた、悪友と呼ぶにふさわしい友人が声をかけてきた。


「別に」


 そっけなく返すと、また別の友人が「私もまぜてよ」と声をかけてきた。

 邪魔をするなと緋奈は思った。

 これ以上、二人で完結した世界を壊さないでくれ。

 土足で踏み入らないでくれ。

 怒りを堪えられなくなった緋奈は激昂した。


「邪魔すんなよ!」


「いいじゃん、私たちも楽しませてよ」


 何を勘違いしたのか、バカな友人はそんなことを言った。


「楽しくなんかねぇよ」


「いやいや、楽しいでしょ」


 笑顔でそんなことを言う友人に一層腹が立った。

 ふと、視界の先で里咲も笑みを浮かべていることに気がついた。

 だから二人の友人と里咲に向け、緋奈は言った。


「なんで笑ってんだって言ってんだろ!」


 緋奈は里咲の腹を思いっきり蹴飛ばした。

 その勢いで野次馬に向けて怒鳴った。


「おい! テメェ等も何見てんだよ!」


 たった一声で野次馬は散っていった。


 後に退けなくなった緋奈は里咲に向けて「何がそんなにおかしいんだ」といった。

 里咲は尚も笑みを浮かべていた。

 緋奈は里咲の髪を引っ張った。


「おい。聞いてんのかよ」


 里咲は答えなかった。

 その事実にまた腹が立ち、緋奈は取り返しのつかないことを言ってしまう。


「なんとか言えよ。この、人殺しが」


 その言葉に里咲は目を見開いた。

 そして、心底絶望したといった様子で「なんで」と呟いた。



 緋奈は自覚した。


 




 もう自分は江口里咲の敵で、二度と元の関係になど戻れないのだと。



 そう悟った。






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