第六節

 月曜日、いつもとは違って自分の意思で学校に行こうと決断し、見栄えの悪いジャンパースカートの制服に着替えているとドアがノックされた。

 多分お母さんだ。


 案の定、「入るよー」と言いながらお母さんが部屋に入ってきて、次いで驚いたように両目を見開いた。


「あんたどうしたの」


「……何が?」


「何が? って、いつもなら学校行きたくないって駄々こねるじゃない」


「んー。ちょっとね」


「ちょっとって……」


 いつもと違う私の様子を不審に思ったのか、お母さんはやけに私に理由を聞いてくる。

 どうして駄々をこねないの? どうして急な心境の変化があったの? どうしてそんなに突然に。

 どうしてどうしてどうしてどうして。


 そして、「もしかして」と口を開いて最後に発したお母さんの言葉に私は少しだけ心臓が驚いたようにドクリと脈打つのを感じた。


「もしかして……死のうとしてるんじゃないの?」


「……そんな事はないよ。絶対に」


 それだけ言い残し、私は全てを見透かしているようなお母さんから逃れるために学校用のリュックサックだけ持って急いで家を飛び出した。


 学校に着いて昇降口の柱に取り付けられた時計を見ると、まだ七時を過ぎたばかりだった。

 部活がない人間が学校に来るには少しばかり早すぎる時間だ。

 私は少しだけ寄り道をしていこうと思い、上履きに入れられていた画鋲を適当なクラスメイトの上履きに放り込んでまだ静かな校舎へと足を踏み入れた。


 コツンコツンと小さく二度ノックをして、中から「どうぞ〜」と気の抜けたような女性の声が聞こえてくるのを待ってから、私は保健室と書かれたプレートの貼られた部屋の扉を開けた。


「おはようございます」


「あら、おはよぉ。今日は珍しく早いのね」


「……なんとなく早めに来ました」


「たまにはそういうのも良いと思うわよ」


 コーヒー飲むでしょ? と言い、保健室のアケミ先生は私に白いソファへと座るよう促した。


「ミルクと砂糖はどうする?」


「じゃあ、どっちもください」


「はいは〜い」


 楽しそうに鼻歌を歌いながら、アケミ先生はケトルの電源を入れてお湯を沸かす。

 その間に私はマグカップを二つ戸棚から取り出してきて、先生に渡した。


 先生は私からマグカップを受け取ると、見た事ないメーカーのコーヒーの粉をマグカップにスプーン二杯ずつ入れた。

 すると、タイミングを見計らっていたかのようにケトルの中身がグツグツと音を立て始め、カチリと言う音とともにお湯が沸いた事を知らせてきた。


 マグカップにお湯が注がれると、心地よい香りが立ち上った。

 きっとこの香りを楽しみながら本を読み、片手間でチョコチップのクッキーなんかを食べたら楽しいだろうな。


 なんて、香りも苦味もないようなミルクと砂糖がたっぷりのコーヒーをすすりながら考えていると、アケミ先生が私の隣に腰を下ろし、「それで?」と言った。


「今日はどうする?」


 どうする? というのは、教室に向かうかどうかと言う事だ。

 けれど、ここで向かうと答えても向かわないと答えても結果は変わらない。

 どちらにせよ、私は教室へと向かう事になるのだ。


 貧相な自分の胸に手を当てて鼓動を確かめてみると、健康的に脈打っているだけで悪い意味で興奮している様子はない。

 よかった。まだ朝起きた時のまま私の気持ちは変わってない。


「今日は朝のホームルームの時間から教室に向かいます」


「そう。それはよかった」


 私の回答に先生はニッコリと笑い、嬉しそうに良かったと答えた。

 甘ったるいコーヒーを飲み終えた後、時間は七時四十分とまだまだ早かったが、私は教室へと向かう事にした。


 いつもなら教室へ近づくたびに心臓が締め付けられるような感覚を覚えるのだが、今日は別段そんな事はなかった。

 いつも逃げ込んでいるトイレに今日も逃げ込みたいと思う事はなかった。



 教室の扉を開けると、クラスメイトがわかりやすく静かになった。

 つい数秒前までしていた世間話をすっかり忘れてしまったかのように、皆が皆、黙り込んで私に視線を向ける。

 その視線はとても良いものとは言えず、嫌悪の感情を含んだ睨めつけるような視線だった。


 いつもなら私はここで足がすくんでしまうのだけれど、今日は自然とそんな事はなく、私は皆に見られながら静かに自分の席へと向かった。


 椅子にはいつものように誰にお茶を零されていたけれど、私は気にする事なく腰を下ろした。

 その私の行動をクラスメイトたちは息をのんで見守っていた。


 長らくクリーニングに出されていない制服のガサついた感触越しに冷んやりとした感覚が浮かび上がってくる。

 けれど、そんな感覚にはもう慣れた。気にはならない。


 でもやっぱり睨め付けるような視線を浴びるのには慣れていなくて、私はその気持ち悪い感覚から逃れるためにカバンから真新しい五ミリ方眼のノートを取り出して自分の世界に入り込んだ。


 それから少しばかり時間が経ってホームルームが始まろうとしていた時、教室の前側の扉が激しく開け放たれ、二人の生徒が入ってきた。

 先日、体育教師の足立の悪口を言っていた二人組だ。


 二人は全く異なる形相をしており、片方がわかりやすく怒りに染まった表情をしているのに対し、もう片方は声を出して涙を流していた。


「ちょっと圭子の上履きに画鋲を入れたの誰!」


 片割れの怒号にクラスメイトたちがざわつく。

 その気持ちはわからないわけでもない。

 だって、今怒っている女子生徒も泣いている女子生徒もこのクラスでは一番カーストの高い生徒なのだ。


 つまり、この二人がうちのクラスの頂点というわけで、それに逆らうと言う事は面倒ごとに巻き込まれるというわけだ。 


 さらに言えば、この二人に狙われたら徹底的に嫌がらせを受ける事になるわけで、そんな面倒臭い二人組の片方の上靴に画鋲を入れたとなると、自分から潰されに行っているようなものなのだ。


 皆が犯人は誰だと騒ぎ立てる中、私は額に冷や汗が滲むのを感じた。と、いうのも、私には心当たりがあるからだ。

 なんとなく犯人を絞って教室にやってきた二人組の前田圭子まえだけいこ大場凛花おおばりんかは、私が目を見開いて冷や汗を垂らしているのを見て確信したのか、私へと視線をロックする。

 そして、凛花は再び言った。


「圭子の上履きに画鋲入れたのだれ?」


 それはさっきのような感情的な問いではなく、犯人を確信した時に自ら名乗り出るよう諭しているような問い方だった。

 まぁつまり、私は王手をかけられてしまっているわけであって、逃げられないと確信した。


 でも、だからといって「私がやりました」だなんて堂々と名乗り出れるほど私の心は強くない。

 だから私はだんまりを続けた。


 凛花はそんな私の様子を見てわかりやすく苛立ち、こちらへ向かってずかずかと歩いてくる。

 あぁ、多分私は殴られるだろうな。だなんて考える。怖い。


 すぐ目の前までやってきた凛花は、ドスを効かせた声で「あんたでしょ」と言った。

 その言葉にクラスメイトたちがさらにざわついた。


 うるさい。やめてほしい。


「あいつがそんな事」


「まさか」


「やっぱりか」


 そんな心ない言葉が私に降りかかる。

 本人たちにそんなつもりはないのだろうが、私からすれば飛来するそれら一つ一つが皆、私を傷つけるには十分な言葉たちだった。


 目前に広がる地獄絵図に声が出ない。

 自分へ向けられた敵意の束に私は萎縮してしまい、声を出す事ができない。

 何もできずに呆然とする私の眼の前で、凛花が右手を振り上げた。


 あぁ。やっぱり私は殴られるのだ。

 そう思って諦めたように両目を閉じた時、圭子が泣きじゃくっている教室の前扉のあたりから、「おはよー!」と大きな声が教室へと響いた。


 クラスメイトの誰のものでもない声。

 その声は女の子にしてはザラついた低めの声で、けれど聞く人にどこか安心感を与えるような声だった。


 顔の右半分に大きな火傷を負った少女が挨拶をしながら教室に入ってきたのを見て、クラスメイトは再び静かになった。


 それは、私が教室に入ってきた時のような嫌悪の沈黙ではなく、驚きに声が出ないと言う沈黙だった。


「むっ?」


 挨拶が返ってこない事に対してなのか、リサは不思議そうに首をかしげた。

 そして、何かを閃いたように「あっ」と言いながら教室から出て行ったかと思うと、顔を赤らめてすぐに戻ってきた。


「えーっと……あはは。教室間違えたちゃった」


 両手を顔の前で合わせてごめんなさいと会釈すると、リサは逃げるように教室を出て行った。


「何あれ」


 凛花はイラついたように呟くと、深いため息を吐き出しながら振りかざした手をパタリと下ろした。

 直後、学校内に軽快なチャイムが鳴り響き、先生がやって来た事で凛花は諦めたように自分の席に向かった。




 私はその様子を目で追う事はせず、再び自分の世界に入りこんだ。




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