第三節
日が沈み始め、空が朱に染められた冬の日の夕暮れ。
私は忘れ物を回収するために教室の扉を開いた。
別にその忘れ物が必要であったわけではない。
ただ、そのまま放置していたら土日の間に誰かしらに回収されてしまい、月曜日にはいつものようにクラスメイトのおもちゃにされてしまう。
それだけはどうしても避けたかった。
たとえ私が月曜日にはこの世から旅立ってしまっているのだとしても、私のいないところで私の宝物が卑しいクラスメイトにおもちゃにされてしまうことはどうしても耐えられなかった。
だからこそ、今こうして帰宅部の私が金曜日の夕方に教室へと足を運んでいるのだ。
「誰も……居ないよね?」
半分ほど開けた扉方誰もいる筈のない教室に問いかける。
この時間は皆部活に出向いていて、そうでない人は寒さから逃れるようにそそくさと帰宅してしまう。
だから、この時間の教室に誰かがいる事はまずない。
それこそ、私のように忘れ物をした人間以外は。
「えぇ。嘘でしょ?」
私はおもわず嫌がる声音で呟いてしまった。
教室は既に全ての窓が締め切られており、何かの映画のワンシーンのように風が吹き込む事はなく、カーテンが揺れるわけでもない。
暖房も付いていないため、ただ机が並んだ寒いだけの空間と成り果ててしまっている。
私が教室の様子を見て嫌そうな声を上げてしまったのは、その寒々しい教室の私の席で誰かが気持ちよさそうに寝ていたからだ。
机に突っ伏す形で寝息を立てるその生徒は、私と同じジャンパースカートの制服に身を包んでいることから顔が見えずとも女性である事は分かった。
その生徒が身につけている制服は私のものと同様、他の生徒とは対照的で変にシワが目立っていて所々にシミのようなものがあった。
私は少しだけ心臓がドキリとした。
何はともあれ、私が取りに来た忘れ物は机の中。
つまり、私の席で快眠している女子生徒をどうにかしなければ忘れ物の回収はできないのだ。
「うぅ……どうしよう……」
味方なんて一人もいない学校で、誰でも良いからと助けを求めるように呟く。
だけど、そんな呟き一つで私を助けてくれる人が現れるはずもない。
もしその程度で私を助けてくれる人が現れるのなら、私は既に救われているはずだ。
そんなことを考えていると、廊下の向こう側からクラスメイトの女の子が二人並んで歩いてくるのが見えた。
私はその二人から逃げるように教室へと入り込む。
何か疚しい事があるわけではないけれど、私は近づいてくる足音に対して自分の存在を悟られないようにと机と机の間にしゃがみ込んで息を潜めた。
廊下の遠くの方から聞こえてきていた足音は次第に大きくなって行き、それに伴って女子生徒の話し声が聞こえて来る。
「あーもう足立あだちのやつ、ホントに腹たつ」
「だよね。自分はできもしないくせに偉そうにしてさ」
「あんなんで給料もらえるなんて良いご身分だよ。仕事の厳しさって奴をわかってないね」
体育教師の足立を批判する内容の話し声はどんどん私たちの教室へと近づいてきて、教室の前に到着した途端、話し声は移動するのをやめた。
次の瞬間、ものすごい勢いで扉が開け放たれる。
「あ……」
扉を開けた生徒がこちらを見て嫌そうな顔をする。
「うわっ。気持ち悪い」
もう一人の生徒がそう言い、二人はそそくさと教室を去っていった。
服装がバレー部の練習着だった事から、二人が部活をサボる心算でここへ現れたのだと私は思った。
私への嫌悪の表情はもう気にならない。どちらかといえば慣れた……はず。
だから、こうして両目に涙が浮かび上がってくると悲しい気持ちになる。
惨めな気持ちになる。こんなの……まるで私が虐められているみたいじゃあないか。
嘘。
まるでだなんて言って自分自身を誤魔化しているけれど、私は事実として虐められているのだ。
よく、虐めの基準みたいな話をする人がいるけれど、そんなものは虐める側の勝手な理論展開でしかない。
虐めなんて、虐められる側が虐めだと認識したらもう虐めとして成り立ってしまうもの。
だから、きっと私は虐められている。
私が違うと思えば虐めではないし、私が虐めだと思ってしまったら私は虐められている惨めな人間ということになる。
それを、誰にも相談できずにいて苦しんでいる。
「ん……ふぁあ……」
クラスメイトとの思わぬ遭遇で気分を落としていると、私の机に突っ伏していた生徒が可愛らしい欠伸をしながら身を起こした。
その際、机の上から何かがハラリと落ち、私はその落ちたものへと視線が動く。
それは、眼帯だった。
何かのファッションとかで使うようなものではなく、本当にガーゼ生地でできている実用的な眼帯。
多分、私の机で寝ていた生徒のものだ。
『 何故そんなものを? 』
そんな疑問は眠そうに目元をこする女子生徒を見たら直ぐに吹き飛んだ。
女子生徒には顔の右半分を覆うように大きな火傷があり、そちら側の目は眼球が内出血のせいなのか真っ赤に染まっているのだ。
よく見ると目元は青痣になっている。
どうやら、眼帯は目元の痣や不気味な瞳を隠すための物のようだ。
制服の様子といい、まるで私のように虐められているみたいだなぁ。
女子生徒は惚けるように時計へと視線を向け、悩むように「ん〜」と唸った。
その声は女の子にしては低い声で、覇気がなく、少しだけザラついた声質をしていた。
マイペースに考え事をする女子生徒のその様を私が眺めていると、女子生徒は今ようやく私に気づいたかのように両目を見開いて驚いた様子を見せた。
私は思わず、こちらを見つめる双眸を見つめ返してしまう。
眼球の色は怪我の影響か何かで左右異なったものになってしまっているが、その瞳は左右ともに綺麗な黒色だ。
見つめるもの全てを飲み込んでしまいそうな黒の瞳に、私は思わず惹きつけられる。
こんな事を言ってしまったら申し訳ないのだが、私は美しいと思ってしまったのだ。
顔の大部分に火傷の傷を負ってしまい、それ以外にも痣が所々見られるその顔を……その少女を私は美しいと思ってしまった。
そして……
「……綺麗」
私のそんな思考はあっさりと口からこぼれ落ちてしまっていた。
女子生徒は照れるように頭を掻き、「あなたは?」と言った。
「へ?」
「あなたは……誰?」
「わ、私は……
「へぇ。あかりちゃんって言うんだ」
「えっと……あなたは?」
「私? 私はね、
「江口さん……」
「ふふっ。そんなに余所余所しくせずリサでいいよ」
微笑む女子生徒リサの顔は照る夕焼けのせいなのかほんのり赤く、火傷が顔の半分を覆っているにも関わらず笑顔がとても魅力的だった。
「よろしく」と差し出された痣だらけのリサの手を私は恐る恐る握る。
私の視線を感じ取ってなのか、リサは「あぁ。この痣? それとも顔の火傷?」と聞いてきた。
多分、私の視線が舐め回すようなものになってしまっていたからこそ、リサはそこを敏感に感じ取ってしまったのだろう。
「え、いや……その……」
「ふふっ。そんなに遠慮しなくていいのに」
先ほどと同様、リサは小さく微笑みながら言葉を紡いだ。
「この火傷はね、この前ポットのお湯がかかっちゃって出来たものなの。痣はね、昨日階段から落ちて出来たんだ」
戯けるように話すリサの顔は何だか楽しそうで、明らかに痣が階段から落ちた程度で出来るような数ではないと分かりつつも私は深く追求することができなかった。
頰のあたりを摩るリサへどのような言葉を返せば良いのかと迷っていると、私が口を開くよりも先にリサが言葉を紡いだ。
「ねぇ。どうしてここに?」
不思議そうにリサが問いかけてくる言葉に私は少しだけ固まった。
「えっと、その……」
私がここへ来た目的を話せばあっさりとリサは席から立ち上がってくれるだろう。
それはなんとなくわかった。
けれど、これまで大切にしてきたそのノートの存在はどうしても伝えたくなかった。
たとえ口頭で伝えなかったのだとしても、取り出した際に見られてしまう。
それは何としても避けたかった。
だからこそ私は黙り込んでしまって、リサは困った表情になってしまっていたであろう私に微笑みながら「もしかして」と口を開いた。
「誰かに用事でもあったの?」
「へ?」
変な声が出た。
「だって、誰かに用事があるわけじゃないならココには来ないよね?」
リサの言葉の意味がわからず、私は「どういうこと?」と聞き返す。
「え、だって私たちクラスが違うよね」
「う、うん」
「だったら、あかりちゃんが私の教室に居るのは変な話じゃない?」
顎が外れてしまうんじゃないかってくらいに私の口があんぐりと開いたのが自分でもわかる。
次いで、頰が熱を持って赤く染まるような感覚に襲われた。
「嘘?!」
まさかと思い、教室から飛び出て扉の上に貼られたプレートを見る。
白いプレートに黒で表示されているのは二年三組を指し示す二と三の数字。
私のクラスだ。
教室を覗き込み、リサに声をかける。
「ここ、私のクラスだよ?」
私の言葉に次はリサが恥ずかしそうに顔を真っ赤にするのがわかった。
火傷が無い方の頰がわかりやすく赤く染まっていたから。
「え、ほんと!?」
私はコクコクと頷く。
「じゃあ、ココに来たのは……」
「……うん。忘れ物を取りに来ただけ」
「それって……」
「今、リサちゃんが座ってる場所だよ。そこ、私の席なの」
「うわぁ! ごめん!」
リサはわかりやすく動揺して慌てて立ち上がる。
その際に椅子を倒してしまい、その音に驚いて彼女はさらに動揺する。
慌てふためくリサの様子がなんだか可愛らしくて、私はクスッと笑ってしまう。
リサは私が小さく笑ったのをしっかりと見ていて、「笑わないでよ〜」と言いながら机の横側にかけてあったリュックサックを背負う。
サメの頭をモチーフにした独特なリュックサックで、所々には泥の汚れのようなものがあった。
「これ、かわいいでしょ。昔お兄ちゃんに貰ったんだ」
無意識のうちにサメのリュックサックを見つめてしまっていた私へ、リサがえへへと笑いながら得意げに自慢する。
そのリサの表情は無邪気な子供のように明るくて、最初にリサを見た時の大人びた雰囲気とはまた違った色を醸し出していた。
そして私の視線は再び彼女に釘付けになる。
醜く焼けた顔で明るく笑う彼女の表情に見惚れてしまう。
ハッと息を飲むっていうのはきっとこう言うことなんだろうなと思った。
この時、私はどういった表情をしていたのだろうか。
それは私にはわからない。
自分の顔なんて鏡を使わなければわからないから。
だから、それがわかるのは彼女だけ。
私の視線を真っ向から受けていた江口里咲ただ一人だけ…………。
「じゃあ、私行くね」
そんなリサの言葉で私は我に返った。
「う、うん」
去りゆくリサにどんな言葉を返していいのかわからず、私はただ「わかった」という意味合いで相槌する。
リサは教室の床に落ちたままになっていた眼帯を拾い、開けっ放しにされていた教室の前扉の方へと私の前を通り過ぎて控えめに駆けて行った。
そのまま教室から出ようとして廊下へと一歩足を踏み出したところで「あっ」と言って里咲は立ち止まると、こちらへ顔を向けてニカッと笑う。
「また来週ね!」
私へと向けて放たれたリサの声はやっぱり女の子にしては低めのザラついた声で、だけど聞いていてどこか心地の良さを感じるような不思議な声をしていた。
こうして、私は夕暮れの教室に一人残される。
掃除が雑なせいでチョークの粉がこびりついて白っぽい色合いになってしまっている黒板も、均等間隔で並べられた四十二個の机と椅子も、誰かが置いていった体操着の袋も窓脇に据えられたカーテンも。
みんなみんな夕景に染められている。
もちろん私も例外ではなく、冬の夕方のくせにやけに眩しい太陽にジャンパースカートの制服をオレンジ色に染められている。
そんな情緒的でごく普通の景色の中、私は目的のために歩をすすめる。
一列目、二列目と立ち並ぶ机たちを通り過ぎてゆく。
六列目までたどり着いたところで私はそっと机に手を置いた。
私の席だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます