第二節
半ば恐怖に怯えるといったように、私は恐る恐る教室の扉を開けた。
朝の教室は騒がしく、昨日の夜にやっていたテレビ番組の話だとか部活動の愚痴だとか、皆が楽しそうにそう言った世間話をしている。
だから私が教室の扉を開けた瞬間はどうしようもなく異質な空間へと早変わりしてしまう。毎朝の事だ。
扉の開く音を聞いたクラスメイトたちは一斉にこちらに視線を向け、すぐに静かになる。
それに伴うように空気がピリピリとした緊張感を帯びるのを感じた。
酷く……居心地が悪い。
その感覚を押し上げてくるかのように吐き気が込み上げた。
私はぐるぐると動き回るような気持ち悪い感覚を持ったお腹と口元を押さえ、今日はまだ足を踏み入れていない教室から逃げ出した。
遠ざかる教室からは下品な笑い声が漏れだしてきて、静かな廊下の乳白色の地べたや壁に控えめに反響する。
そして、その音が私を蝕む気持ちの悪い感覚をさらに膨らませる。
吐き気を伴う感覚になんとか耐えながら、私がいつも逃げ込むのは校舎四階の女子トイレ。
普段は朝早くか放課後しか使う人のいない場所だ。
それもそう。校舎の四階は文科系の部活動に使われる教室が立ち並ぶエリアであり、運動部や帰宅部の人々には縁がいない場所だ。
そのため、今みたいな朝集会の直前の時間帯は誰一人として足を運ぶことはなく、私にとっての安全地帯となる。
トイレの電気は古臭いスイッチ式で、入り口左手にあるスイッチをカチリと押さなければ明かりが灯ることはない。
私はそのスイッチに触れることはせず、薄暗い灰色の空間へと踏み入った。
四つ並んだ個室の一番奥側に入り込み、錆が原因なのか歪みが原因なのか変に重いスライド式の鍵をかける。
そうして、ようやく私の気持ちは落ち着いた。
ここまでが毎朝の習慣となりつつある。
きっと、この後は幾つかあるパターンのどれかに私は行き着く。
担任の先生が気まぐれで探しにきて説得されるように教室に連れ戻されるか、誰も探しに来ず自ら教室へと向かうか、保健室に逃げ込んで諭されるように教室へと向かうか。
どのパターンに私が行き着くのかは特に決まってはいない。
順繰りに行き着く先が異なるというわけではない。
ただ、私は毎朝まっすぐに教室の自分の席に座ることはなく、紆余曲折うよきょくせつを経て自分の席に座ることになる。
強いて言うなら、何があろうとどのパターンに行き着こうと教室へと向かうことになる結末は変わらない。
世界は意地悪だ。私に逃げることを許してくれない。
結局、今日は私の気分が少しだけ穏やかだったから自らの意思で教室へと向かった。
けれど、教室に近づくたびに足が重くなってゆく錯覚を覚えるのはいつも通りで、この勘違いのような感覚だけはどう頑張っても拭う事ができなかった。
「おぉ。やっと来たか」
私が沈む気持ちを抱え込みながら教室へと向かったのは二限目が始まった後のこと。
一限目から二限かけてのロングホームルームの終盤だった。
扉を開けた私に向け、担任の男の先生は呆れたように「早く席に着きなさい」と言う。
まるで、私がこの教室に足を運ばないこと自体をもうなんとも思っていないかのような言葉だった。
事実、先生はきっと私のことなどどうでもいいのだ。
私に限らず、生徒がなんらかの理由で教室にやってこない事を高校生なんだから自己責任だろと言い放ち、自らが面倒ごとに巻き込まれないように擁護する。
正直、生徒から見れば先生として最低だ。
けれど、先生も私たち生徒と同じ人間なのだ。
面倒ごとから逃げ出したいという本能的な願いを咎める資格は私にはない。
だから私は「すいません」と謝罪の言葉を先生に渡し、素直に自分の席に着いた。
立ち並ぶ木製の机達の最後列。
前から六番目。その一番廊下側の席。
それが私の席だ。
錆の目立つ金属と木で作られた椅子へと腰を下ろす。
お尻の辺りに冷んやりとした感覚があった。
その感覚に少しだけ顔をしかめる私の様子を見て、周りの生徒たちがクスクスと笑う。
机の横側に付けられている出っ張りにカバンをかけ、中から教科書とノート、それからクリアファイルと筆箱を取り出して机の中へと片付ける。
けれど、本来ならすんなりと収納することができるはずのそれらは何かにつっかえ、奥まで入ってくれなかった。
なんだろうと眉間に少しだけシワを寄せながら机の中に手のひらを突っ込んで漁る。
指先が湿った何かに触れ、私は驚いて手を引っこ抜いた。
その様子を見て、とうとう堪えられなくなったとでも言うようにクラスメイトたちはゲラゲラと笑い出した。
うるさい。
先生はクラスメイトたちを叱るわけでもなく「少しは静かにしろよー。また隣のクラスの担任に怒られるぞー」と言う。
困ったような表情を作ってはいるものの、この男は全く別の本心を持っているのだろう。きっと。
私は制服のポケットから汚れの目立たない黒の無地のハンカチを取り出し、手に着いた汚れを拭う。
それ以上のことはしなかった。
机の奥に入れられていた誰かの食べかけのシュークリームを無言で片付け、教科書やノートについてしまった甘い香りと粘つく感覚に嫌悪の感情を抱きながらも気にならないという風を装い、私はいつも通り五ミリ方眼のノートを開いて自分の世界に入り込んだ。
ここまで来たのなら大丈夫。
六限目の終わりを告げるチャイムが鳴るまで私は私の世界に入り込むことができる。
私が手に持つシャープペンシルの細い芯がザラザラとしたノートの紙に触れ、心地よい音を奏でる。
私は自分の世界に入り込んでいる間、その音しか聞こえない。
本当にその音だけしか聞こえないというわけではないけれど、私の大好きなその音が聞こえる限り、私は嫌なことから目も耳も逸らし続け、大好きなシャー芯と紙が擦れる音へと逃避することができる。
だから私にはその音しか聞こえない。
そうやっていつもと同じように自分の世界に没頭し、気づけば六限目の終了のチャイムが鳴っていた。
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