八月へは、雨と氷菓を

神條 月詞

代わり映えしない九時十二分より


 部屋中に置かれた段ボールの、最後のひとつを閉じて立ち上がる。これで、荷物はすべてまとめられただろう。あとは家電やちょっとしたインテリアを直前に片付けてしまえばいい。

 君が揃えた星の刺繍入りのレースカーテンが、太陽に熱された風になびく。カーテン越しでもわかる、見事な快晴。こんな時に君は、よく歌を歌っていた。疾走感に満ちた、爽やかで切ない夏の歌。タイトルも、作った人も、歌った人も知らない、君の声でしか聞いたことのない歌。いまの僕にとっては、君の声を思い出すことしか出来ない、歌い手を失った歌。

「おはよう」

「おはよう。現在の時刻は九時を十二分過ぎたところです」

「君は早起きだね」

「君が寝過ぎなんだよ」

 この部屋でそんな会話をしていたのは、もう何年も前のことだ。時計は、九時十二分を指している。

 冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを取り出して、勢いよくキャップを開けた。ぱしゅっ、という小気味よい音が、ほんの少しの飛沫を連れて響く。

 あの頃も、今日と同じような快晴だった。


 朝起きて何の気なしに冷凍庫を開けた時、買った覚えのない氷菓がふたつ、並んでいた。

「ねえ、これどうしたの」

「げ」

「げ、じゃないでしょ」

「いやあほら、最近暑いからさ、ね?」

「ね?でもなくて……」

 我が家の夏には時折、こんな風に身に憶えのない氷菓が現れる。食材や日用品の買い物は週に一度ふたりで行っているから、きっと君が帰り道やなんかに買ってきているのだろう。そのこと自体を咎めるつもりはないのだが、何せ頻度が高い。買い物の時にまとめて買ったっていいし、別に隠す必要などないはずだ。たまに冷凍品が入り切らないこともあるので、事前に告知してから買ってきてほしいというのが本音ではある。

「いやあやっぱり棒付きアイスはいいなあ!」

 芝居がかった声でうそぶく君に、仕方ないなあと氷菓を取り出す。ひとつは君へ。

「朝からアイスだなんて贅沢してる気分!」

「まったく、調子いいんだから」

 クーラーの効いた室内から見える空は、太陽が輝いていて明らかに暑そうだ。確かにこんな日はアイスが食べたくなる。

「ねえ、今日さ」

「うん?」

「夕方になって涼しくなったら、散歩に行かない?」

 普段はあまり外に出たがらない君が珍しいことを言うものだから、思わず顔に出してしまった。

「……いいね、行こうか」

「あーちょっと何その顔!たまには散歩したいなって思うこともあるんだからね!?」

「うんそうだね」

「信じてないな!?」

 失礼しちゃうな、と笑った君は、アイスのなくなった棒を見て目を見開く。

「当たった!」


 夕方。太陽が傾き、昼間よりも幾分か涼しくなった街で、君と並んで歩く。茜色と夕凪に染まった道は、かつて僕たちの通学路だった。毎日のように歩いていた頃は、じゃれ合ったり遠回りをしてみたり、ずいぶんな冒険のように思えたものだが、いまではなんてことのない距離だ。地面に落ちる影も、当時からかなり伸びた。僕もずいぶんと変わったものだな、なんて少し感傷に浸りたい気持ちになる。

 母校を通り過ぎてまっすぐに進むと、目の前には海が広がっている。そこまで行ったら、道を一本逸れてコンビニに寄って帰るのが、いつものコースだ。

 ところが、今日は海沿いまで出たところで夕立に遭ってしまった。このあたりに、雨宿りできるようなところはなかったはずだ。コンビニまで走ろうか、と君の手を取ろうとして、ふと雨粒が遮られる。

「傘、持ってきてたんだ」

「まあね」

 君が差しかけてくれた折りたたみ傘を受け取って、出来る限り濡れないように寄り添う。とはいえ、ひとり用の折りたたみ傘はふたりで入るには足りないもので。

「やっぱり小さいね」

「じゃあ入れませんー濡れて帰ってくださーい」

「うわ、ごめんって」

 早足で進む僕たちを、夕立が叩きつけるように降り、手足や頬を濡らす。帰ったらすぐにシャワーを浴びないと、風邪をひいてしまいそうだ。

「ねえっ」

「んー?」

 バケツをひっくり返したような、という表現がぴったりの雨の中、いつもより大きな声で君が呼びかけてくる。

「ちょっとコンビニ寄ってもいい?」

「おー、いいけど」

 それがルーティーンなのだから、断る理由もない。しかし、こんなにずぶ濡れで行って入店拒否されないだろうか。その時はその時か。

 出来る限り濡れないように、けれど小走りでコンビニへと向かう。入り口をくぐった瞬間、人工的な冷気が僕たちを包んだ。

「さむっ」

 濡れた肌を、冷風が撫でていく。長居していては本当に風邪をひきかねない。そんな思いを込めてそれとなく君の方を見ると、目が合った。どうやら考えることは同じらしい。

 君は迷うことなくアイスコーナーに向かうと、ショーケースからソーダ味の氷菓をふたつ手に取った。僕たちの『いつものやつ』だ。今朝の当たりと引き換えてもらいつつ、会計を済ませて外に出る。

「あれ、止んでる」

「ほんとだ」

 つい数十秒前までしきりに降っていた雨は、ぴたりと止んでいた。見上げれば、そこにはどんよりとした雨雲ではなく、入道雲と夕焼け空。さすが夕立だ。

 開きかけた傘を閉じると、君が手に持っていた氷菓をひとつ差し出す。それを受け取って開封し、大きくかじりついた。

「冷たっ」

「あたりまえじゃん」

 からからと笑われる。

「さて、急いで帰ってシャワー浴びよう」

「……そうだね」

 雲間から顔を出した夕陽が、手にした氷菓を溶かさないうちに。


 気が付くと、手の中の炭酸水はすっかりぬるくなっていた。ずいぶんと長い時間を耽っていたらしい。カーテンを揺らす風は、かなり涼しくなっている。もうじき陽も沈むのだろう。

 ふと、無性に君の歌が聞きたくなった。

 ぬるくなった炭酸水を冷蔵庫に戻すと、隅にまとめた荷物からギターを引っ張り出して、調弦する。いくつかのアルペジオを鳴らしてから、記憶が紡ぐ君の声に重ねて歌う。爽やかで切ない夏の歌。特に楽譜があるわけでもない、君の声に合わせて作った伴奏を弾きながら。

「……やっぱり、君の声じゃないなら意味なんてないや」

 ぽつりと独りごちる。

 僕にとってこれは、君の声で聞くことしかなかった歌だった。君が歌うことに意味のある曲だった。タイトルも、作った人も、歌った人も知らないこの歌は、僕にとって君を描く情景だった。君という、僕の中に出来た曖昧な結晶体だった。

「行かないで、なんて、ねえ」

 そんなことを、言えたらよかったのかな。

 知らないだなんて、言えないだなんて、見えないだなんて、ああもう、笑ってくれるなよ。

 君を思い出してしまうことも、夏のせいにしてしまいたかった。君の鼓動が遠ざかっていった八月のあの日に、過ぎ去ってしまえよ、って呪った僕は、見つからないように息を絶った。忘れ去ってしまいたかった。それでも君は僕を置き去りにして、君を忘れさせてくれなかった。いつまでも消えなかった。君のいない日々など、僕から見ればゆがんでしかいなかった。

「好き、だったなあ」

 もう、届かないね。


 君と氷菓を手に並んで歩く夢を見た。いつもと何も変わらず他愛もない話をしていたから、これは夢なのだとはっきりわかってしまう。それでも、この青がいつまでも溶けなければいいのに、と願った。

「あの部屋、引っ越すんだね」

 唐突に、記憶が揺らいだ。一気に現実へと引き戻される。夢の中にいることに変わりはないけれど、いつもの君は知らないはずのことを、目の前の君が口にした。

「……うん」

「ふうん。寂しくなるな」

 驚いて君の顔を見る。見ようとした。しかし、それより数瞬先に君が呟いた言葉で、視線さえも動かせなくなる。

「君は、それでいいんだね」

 僕は、そんなことを言わせたかったのか。

 けれど、夢の中らしくその思いはすぐに靄がかかったようにぼやけていった。代わりに、雨雲のように勢いよく、夢らしくない現実味を帯びて気持ちが傾く。

 そして、その思いに呼応するかのように、目の前の君が夕立に霞んだ。この雨が止む前に、伝えてしまおう。これは、僕が君に贈る精一杯の愛だ。

 記憶なんていう曖昧なもので作り出された結晶体すら、ゆがんだ日々のひずみに消え去って行ってしまうのなら、僕は。


「君の知る世界の中で生きよう」








『八月へは、雨と氷菓を』

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