歪な関係

砂鳥はと子

歪な関係

 あれは私がまだ高校二年生の時だった。

 入学式の時に一目惚れして以来、ずっと片想いしていた音楽の先生、川久保美咲に告白した。

 とても優しくて包容力があって、清楚で可愛らしいあの人を自分に振り向かせたかった。

 女同士だとか相手が教師だとか、そんな事は私には関係なくて、ただやり場のない想いをどうにかしたくて、後先も考えずに先生に告白してしまった。

 告白したところで恋人になれるのか、振られたら気まずいなんて考えていなかった。

 未来のことよりも今しか頭になかった。


 放課後の音楽準備室。

 先生と二人きり。人気のない一番端の校舎。

 はっきり何と伝えたのか、今となっては思い出せない。

 緊張で上手く回らない口で、必死に先生の事が好きなんだと伝えた。

「友野さん、本当に私のことが好きなの?」

 特に驚いた様子もなく聞かれ私はただ頷いた。

「それじゃキスして」

「……え…?」

 何と言ったのか理解できなかった。

 言葉の意味は分かるが、この状況で先生がそう発したことで私の頭は完全に混乱していた。

「友野さん、私のこと好きなんだよね?」

「……はい」

「それなら私にキスできるよね?」

「………」

 キスとは一体何なのか。私の知ってるキスなのか。

 そのキスをしろと先生は言う。

 それとも私は何か聞き間違えているのか?

「もしかしてキスできないの?」

 耳元で小悪魔のように囁かれる。

 これはきっと試されている。

 先生からしたら生徒からの告白なんて、何かのいたずらだと思っても仕方ない。

 ここでキスできなければ、私の気持ちは嘘や冗談で流されてしまう。

 私は自分より少し高い位置にある先生の両肩を、恐る恐る掴んだ。

 手は震えていた。

 先生は底が見えないような妖しい瞳で私をじっと見つめている。

 私は目を閉じて静かに顔を寄せて、先生の唇に触れた。

 自分の心臓が耳の中にあるのではないかと思うくらいに鼓動が響いている。

 目を開けて離れると

「下手ね」

 それが私に下された評価だった。

 微かに唇同士が触れた程度で下手も何もあるかと今思い出しても理不尽だ。

 そもそも女子高生が手慣れたキスなんて出来るわけがない。出来たらそれはそれで気味が悪い。

 先生は私を強く抱き寄せると

「キスっていうのは、こうするの」

 頭を引き寄せられて先生からキスをされる。

 触れるだけの生易しいものではない。

 もっと唇を奪い取るような、熱く絡め取られるような口づけ。

 窓の向こうからは運動部の掛け声と走る音が聞こえる。

 どこかで生徒が笑い声を上げている。

 ブラスバンド部の練習する音がさざ波みたいに押し寄せる。

 まるで私たちは隔離された世界にいるみたいだ。

 今先生ととてもいけないことをしていることに私は頭が痺れた。

 とても背徳的な甘いときめき。

「ねぇ、この先も私とこんなことできる?」

 先生が私を探るように目を細める。女神の姿をした悪魔の誘惑。

「できますよ、先生」

 こうして私と先生の付き合いは始まった。



 それから私と先生は誰にも言えない関係を続けていった。

 最初は学校でこっそり密会していたが、いつの間にか外で、先生の家で逢瀬を重ねることも増えた。

 他愛もない話をしたり、手を繋いだり、一緒に映画を見たり、抱き合ったり。

 家の中でできることは全部した。

 突拍子もない形で始まった関係だったけれど、私は大好きな先生と恋人になれて充実した時間を過ごしていた。

『美咲さんの事、絶対幸せにする。美咲さんのことをずっと守りたい』

 高校生ながらにそんなことを考えていた。

 甘い秘密の日々を重ねていたが、私も高校を卒業する時が来てしまった。

「卒業しても先生と一緒にいたいです」

 きっとこの関係はこれからも続くのだろうと期待して先生に言ったのに

「沙耶夏ちゃん、ごめんね。私結婚するから教師辞めるの。だからもう沙耶夏ちゃんとはおしまい」

 思ってみないことを言われて振られた。

(結婚…? 結婚…!?)

 今まで私と一緒にいながら先生は男とも付き合っていた。

 私とはただの遊びだったのだ。

 女子高生に本気になる方がどうかしているが、遊びで手を出してたなんて、とんでもない先生だった。

 愛しそうに私を見る瞳も、優しく触れる手も、愛の言葉も全て嘘だったと分かり私は何もかも捨てたくなった。

 当時三十歳だった先生がただの女子高生と社会人の彼氏を天秤にかけたら、私が負けるに決まっている。

 私とは結婚出来なければ子供も作れない。

 子供の私が大人に本気で相手にされるわけがなかった。

 それに気づくこともなく真剣に想っていた私はただの馬鹿だ。

 これは私が一番忘れたい記憶。





 二十三歳になった私は家事代行業の仕事に就いていた。

 この仕事をしていると色んな家庭と出会う。

 きっとあの人も私のことなんか忘れて、どこかで幸せに奥さんをしているのだろう。

 バスを降りて、蝉時雨を聞きながら仕事先へ向かう。

 今日のお宅は古い街並みの中にある高級住宅地にあった。

 他の家より二回りも大きな家で、玄関に『笹井』と表札が出ている。

 呼び鈴を押すと程なくして家人が出てきた。

 薄水色のワンピースにベージュのカーディガンを羽織った清楚な佇まいの女性だった。

 胸元あたりまで伸ばした髪を栗色に染めている。

 その人の顔にとても見覚えがあった。

(……美咲さん)

 忘れたくても忘れられないあの女の顔がそこにあった。

(何で…何で今になって…)

「どうぞ中に入ってください」

 女性はこちらに気づいてないかのように私を招き入れた。

 まさか私のことをきれいさっぱり忘れているわけではあるまい。

 居間に通される。

 ここは私も気づかないふりをすべきだろう。

 私は依頼されていた台所と居間の掃除をいつものようにこなして仕事を片付けた。

 以前に比べるとかなり細くなってるだとか、ずっと頼りなさげな表情を浮かべてるだとか、見てて心許ないだとか、そんなことは振り払って私は掃除に徹した。

「本日はご用命ありがとうございました。是非また何かお困りのことがごさいましたら、ハウススマイルまでご依頼下さい。」

 満面の作り笑顔でいつもの仕事用の台詞を吐いた。

「あの……指名制度ってありますか? また友野さんにお願いしたい場合はどうすればいいですか?」

 小さな子供のように私の服の裾を掴んで、こちらを見つめる。

「はい。指名制度がごさいますので、次のご依頼の時に私をご指名いただけましたらお伺いいたします」

 とこれまた定型文を吐き出した。

 この人は一体何を考えているのだろう。

 私を指名したいということは、また私と顔を合わせるつもりがあるということなのか。

 モヤモヤとしたまま私は家から去った。




 一週間後、また私は美咲さんの家に来ていた。

 本当は来たくなんてなかったが、そんなことを会社に言えるわけもない。

 むしろ会社はまだ若手の私が指名されたことを喜んでいる。

 美咲さんは先週よりも疲れきった姿で現れた。

 先週は片付いていた台所も食器がたまり、インスタント食品の空き容器が無造作に置かれていた。

 居間も乱雑に散らかり前回とは雰囲気が変わっていた。

「ごめんなさい、散らかってて」

「いえ、片付けるのが私の仕事ですから」

 作った笑顔を仮面ように張り付けて答える。

 一体どんな生活をしてるのだろう。

 この一週間で随分荒れているではないか。

(どんな生活してようが私には関係ないけど)

 私は黙々と雑然とした台所を片付けてゆく。

 ふと後ろに気配を感じて振り返ろうとしたら、突然美咲さんに抱きつかれた。

「……み……笹井様、そのようなことをされると仕事がやりにくいので、やめていただけませんか?」

 極めて事務的に言って私は美咲さんの腕をほどこうとした。

「沙耶夏ちゃん…沙耶夏ちゃん!!」

 泣きそうな声で私にしがみついてくる。

(私のことを捨てたくせに今更何なのよ…)

 身勝手なことをしてきたこの人に私は苛立ちを覚えたが、私は仕事でここに来ている。

 なるべく何も考えないように淡々と手を動かす。

「……少しだけ、こうしててもいい? これ以上何もしないから…。お願い…。」

 今にも消え入りそうな声で呟く。

「……好きにしてください」

 私はしばらく美咲さんの体温を感じながら仕事を片付けた。


 依頼された全ての仕事を終えて私は家を出た。

 美咲さんは何か言いたそうにしていたが、気づかない振りをして出てきた。

 あの人が何を考えているのか分からないが、もう私たちは恋人同士ではないのだ。

 あくまでも相手はお客さん。

 それ以上でもそれ以下でもない。これからも。

 何があろうとこの関係が変わることはないのだから。



 あれから二週間が過ぎ、私は仕事で指名されて美咲さんの家に来た。

 前回のような荒れようはなく、きれいに片付いている。

 今日は居間と二階の部屋の掃除を依頼されたので、私は一つ一つ仕事をこなしてゆく。

 わざわざお金を払ってまでさせるには無駄なくらいに掃除は行き届いているので、やりがいもない。

 二時間のプランで依頼されているが一時間もあれば終わってしまう。

 初めて二階の部屋を見て私はあることに気づいた。

(ピアノないな…)

 一階の部屋にもなかったし、二階にもない。


『美咲さんは何で音楽の先生になったんですか?』

『ピアノが好きだったから! ピアノが弾ける仕事をしたくて。さすがにピアニストは才能がなさすぎて無理だったから先生になることにしたの』


『美咲さん、私この曲聴いてみたいです! すごく綺麗な曲で「愛の夢」っていう曲なんですけどダメですか?』

『愛の夢か…。この曲難しいからすぐには弾けないけど、沙耶夏ちゃんのためなら頑張って練習するね。弾けるまで待っててくれる?』


『私、美咲さんがピアノ弾いてる姿が一番好きかも。すごく楽しそうだから私も楽しい』

『ありがとう沙耶夏ちゃん。すごく嬉しい! 私、沙耶夏ちゃんの次にピアノがないと生きていけないから』

『私が一番なんですか?』

『うん。沙耶夏ちゃんが一番好きで二番目がピアノ!』



「…何思い出してるのよ」

 バカバカしい。遊ばれてた時のことなんて思い出すだけ損だ。

 この人がピアノを止めようがどうしようが、私にはどうでもいいことだ。

 裕福な暮らしをしてるのだから、きっとどこかにピアノが弾ける専用の家でもあるのだろう。

 仕事を終えて階下に降りると、美咲さんは居間のソファに座っていた。

「ご依頼いただいたお仕事は全て完了いたしました。まだお時間がごさいますが、いかがいたしますか?」

「もう、全部終わったの? 仕事が早いね、沙耶夏ちゃん。お願いしたいことがあるんだけどいい?」

「私に出来ることでしたら承りますよ。庭掃除でも買い出しでも」

「話を聞いて欲しい」

「話……ですか」

 嫌な予感しかしない。何を言い出すのか、私は内心身構える。

「うん…。あのね、沙耶夏ちゃん…。私あなたのことが好き。今でも沙耶夏ちゃんのことが好きなの」

 それを聞いて私の中の何かが切れそうだった。

 今でも好き? 何故そんなことを平気で言えるのか。

 私のことを好きだと思わせておいて本命の男がいたくせに。

 私のことを捨てて結婚したくせに。

 どうせ何か気まぐれだ。

 適当に遊ぶ相手でも欲しいだけに決まっている。

 たとえ私がまたこの人を好きになったところで、捨てられるのがオチだ。

「そうですか。でもあなたは結婚しているのだから旦那さんを大事にした方がいいですよ…」

「……でも、私沙耶夏ちゃんが一番なの…」

 美咲さんは後ろめたそうに目を伏せる。

(私の顔を見て言えないんだ。そうだよね。一番は旦那なんだから)

 自分の中で沸々と怒りがこみ上げてくる。

 私は俯いている美咲さんの顎を乱暴に掴んでこちらを向かせる。

「……沙耶夏ちゃん」

「私のことが今でも本当に好きなんですか?」

「………」

 黙ったまま美咲さんは頷く。

「それなら私にキスしてみてください。好きならできるでしょう? そういうものですよね? あなたが私に教えてくれたことですよ」

 遠くなってしまったあの日と逆の立場になっていた。

 美咲さんは私に手を伸ばしたが、途中で止めてしまった。

 辛そうに眉根を寄せる。

「まぁ、できませんよね。そんなことしたら浮気になっちゃいますもんね。私のことが好きなんてよく軽々しく言えましたね」

 あまりに腹立たしくこの人を突き飛ばしてやりたくなる。

「沙耶夏ちゃん、嘘じゃない……。嘘じゃないけど…」

「どこが嘘じゃないんですか?」

 美咲さんはまるで怯えた小動物のように震えている。

 煮え切らないこの人への苛立ち。

 それとどうやって追い詰めて困らせてやろうかという意地悪い感情が沸々と沸き上がる。

「私への気持ちが嘘じゃないなら、ちゃんと行動で示してくださいよ」

 耳元で囁く。

 美咲さんはしばらく迷った後、ぎこちなく私に唇を重ねてきた。

「随分下手くそになりましたね。キスの仕方、忘れたんですか?」

 美咲さんがかなり引け腰なのは見て分かる。

 私は相手が逃げないように腕を掴んでこちらに引き寄せた。

「思い出させてあげますね。キスも女の抱き方もあなたが教えてくれたこと全部」

 戸惑った瞳がこちらを見上げるが無視した。

 そのまま私は美咲さんを押し倒した。



「そろそろ時間なので帰りますね」

 私は身仕度を整え帰る準備をした。

 美咲さんは脱がされた服を直すこともせずに呆然としていた。

 もう呼ばれることはないだろう。

 ずっと不安そうにしていた姿がまだ瞼の奥に残っている。

「旦那さんにバレないようにしてくださいね。バレたところで私はあなたたち夫婦がどうなろうと、どうでもいいですけど」

 そのまま罪悪感でも持って苦しめばいいと思った。

 私が捨てられた時にどれだけ辛かったかなんて、この人は知らないだろう。

 私の苦しみの半分でも味わえばいい。

「さようなら」

 俯いて何も言わない美咲さんを残して私は家を後にした。




 今、私の腕の中に美咲さんがいる。

 快楽に溺れているこの人を見るのは実に楽しい。

 十二も年下の捨てた女にいいようにされて、哀れとしかいいようがなかった。

 美咲さんはあの後も定期的に私に仕事を指名してきた。物好きにも程がある。

 家は荒れてたり片付いていたりまちまちだったが、いつまでも時間がかかるようなものでもなく、余った時間をこの人で遊ぶために使っていた。

「何で抵抗しないんですか? 私のことが好きだから抵抗できないんですか」

「沙耶夏ちゃんだから…」

「そう。で、こんなことしてて楽しいですか? 言わなくてもいいですよ。顔見たら分かるので」

 伊達に付き合ってたわけではないし、別れた後に女と遊びまくったこともあった。どうすればこの人が悦ぶのか、触れているうちに分かった。

「……嬉しいよ…。沙耶夏ちゃんと一緒にいられるから。……好きだから」

「私はもうあなたなんて何とも思ってないですし、ただの玩具くらいにしか思ってませんけど、そんな女に抱かれても嬉しいなんてバカですね」

 美咲さんは悲しそうに顔を歪める。

「うん…私バカなの…。だから……。でも何で沙耶夏ちゃんは私とこんな……」

「あなたみたいなバカ女の間抜けな姿を見るのが好きなだけです。勘違いしないでくださいね」

 と言ったにも関わらず美咲さんは私に腕を回して抱き寄せてくる。

「こんなこと言われてもすがり付くなんて、本当にバカな女」



『私、美咲さんが大好き。美咲さんといられたらずっーと幸せ!』

『沙耶夏ちゃん、私もあなたのことがすごく愛しい。大好きだよ』



 私たちは会えば会うほど歪んでゆく。

 いつか粉々に砕け散ったガラスのように、私たちも跡形もなくなってしまうのだろう。

 いっそのこと全部、あんな過去消えてしまえばいい。

 全部、全部。




 夏も終わりに近づいていたが、私たちの関係は相変わらずだった。

(一体いつまで続くんだろう)

 美咲さんが本当に私を拒絶する気があるならば、私を指名しなければそれで全て終わる。

 そうしないのはあの人にまだこの不毛な関係を続けて行くつもりがあるからだろう。

 美咲さんをいたぶり苛めたら、もっと自分の心は満たされると思っていたのに、思ったほど楽しくない。

 関係が続くほどに気力が減っていく。

(まぁ、飽きてきただけかも)

(あんな人、面白くも何ともない。それだけ)

 どんな事だってずっとやっていれば飽きるものだ。

(ああ、捨てればいいんだ、美咲さんを)

 あの人だって私を捨てたのだから同じようにすればいい。簡単なことだ。

(どうやって捨ててやろう)

 そんなことばかり考えていた。




 いつものようにあの人の家に行く。

「あのね、けっこう散らかってて、片付けるの大変かもしれなくて…それで…」

「別に構わないですよ。家事をするのが私の仕事なんで」

 家に上がると言うほど散らかってはいないが、あまりきちんと手入れされてないのは分かった。

「掃除機、二階に置いたままだった」

そう言って階段に向かおうとして美咲さんがよろめく。

 私は咄嗟に腕を伸ばして体を支えた。

「ありがとう沙耶夏ちゃん」

 こちらを見る顔が心なしか赤い。

「熱でもあるんですか?」

おでこと首筋に触れるといつもより熱い。

「……風邪引いたみたいで…」

「だったら寝室で寝ててください。邪魔なんで」

「心配してくれるの?」

「何で私があなたの心配するんですか? 風邪移されたら鬱陶しいからですよ」

 私が居間に向かうと美咲さんもついて来る。

「寝室は二階ですよね。熱で自分の家の間取りも忘れたんですか?」

「沙耶夏ちゃんの近くにいたい…」

「邪魔です」

 私は美咲さんの腕を掴んでそのまま寝室に連れ行く。

 ベッドの中に無理矢理押し込んで毛布をかけた。

「黙って寝ててください。家事は全部やっておきますから」

「沙耶夏ちゃん、何か食べたい」

「何なんですか急に」

「……薬飲みたいからご飯…」

「分かりました。何か適当に買ってきます」

「沙耶夏ちゃんに……作ってほしい」

「私が代行するのは掃除や片付けだけです」

 家事代行に料理も含まれるが、私の場合は掃除などだけでご飯は作らない。

 料理を依頼したいなら、きちんとそちらのスキルも持ったスタッフが担当することになっている。

 美咲さんもそれは分かってて私に依頼してるはずだ。

「どうしてもダメ? 最近出来合いのものしか食べてなくて」

 路頭に捨てられた子犬みたいな顔をしている。

「下手でも文句言わないなら…」

「沙耶夏ちゃんが作ったオムライスが食べたい」



『沙耶夏ちゃんが作ったご飯食べてみたいな』

『私、料理あんまり出来ないですよ』

『得意なものはないの?』

『あっ、オムライスなら作れるかも。小学生の時にお母さんに教えてもらって何回も作ったからオムライスだけは作れます!』


『沙耶夏ちゃんが作ってくれたオムライスが今まで食べた中で一番美味しい!!』

『え~本当ですか?』

『もちろん。沙耶夏ちゃんが一生懸命作ってくれたからね』



 またどうでもいいことを思い出した。

「オムライスは病人が食べるようなものじゃないでしょう。具合悪いのに食べられるんですか?」

「………」

「おかゆ作って後で持って行きますから、寝ててください」

「………私が元気になったらまた昔みたいに作ってくれる?」

「……考えておきます」

 私は寝室を後にした。



 居間に降りた私は部屋の掃除を始める。

 部屋の壁に飾られた写真が目に入る。

 結婚式の時に撮ったものだろう。

 新郎と花嫁姿の美咲さんが幸せそうに笑っている。

(調子のいいことばっかり言って私のことなんて大して好きでもないくせに)

 写真を見る限り、誰が見てもお似合いの夫婦だ。誰も付け入る隙がない。

(そもそも旦那は何してんのよ。風邪引いた嫁のために家のことも出来ないの)

 平日に呼ばれるせいか旦那さんと遭遇したことはない。

 気配のようなものすら感じない。

(……どうでもいいけど)


 居間の片付けが一段落したところで美咲さんのためにおかゆを作る。

 いずれ私も料理のスキルを積んで仕事の幅を広げたいし、これは練習だと思えばいい。

 あの人がぶっ倒れようが風邪を引こうが何の興味もないが、もし何かあって私のせいになったら面倒だ。

 そう、ただそれだけ。

 私は出来上がったおかゆを寝室に持って行く。

 美咲さんは布団の中で丸くなっている。

「起きれますか?」

「う~ん、起きれないかも。沙耶夏ちゃんに起こしてほしい」

「ワガママな人ですね」

 仕方なく美咲さんを抱き起こしたら抱きつかれてしまった。

「鬱陶しいんですけど」

「ごめんね。すごく沙耶夏ちゃんに甘えたくて…」

「いい年してこんな年下の女に甘えないでください」

「いい年した大人でも誰かに甘えたくなることはあるよ」

「じゃあ、旦那に甘えればいいでしょう」

「私は沙耶夏ちゃんがいい」

「旦那を裏切ってまで私がいいんですか? ………私と旦那さん、どっちが好きなんですか?」

 思わず聞かなくてもいいことを聞いてしまった。

「沙耶夏ちゃんを選べば良かったんだよね…。そうしたら私、沙耶夏ちゃんと一緒にいられたのに」

「……だったら何で、何で私を選んでくれなかったんですか?」

 何だか私まで調子がおかしい。

 言わなくていいことばかり口から出る。

「何でもないです。答えなくていいです。ご飯食べててください。他の仕事してきますから」

 私は慌てて寝室を出てひたすら無心で仕事をした。


 全ての仕事を終えて帰ろうとすると美咲さんが見送りに来た。

「それじゃ終わったんで帰りますね」

「……沙耶夏ちゃん、泊まってほしいって言ったら怒る…?」

「別に怒りませんけど、私この後も仕事があるので」

「そっか…そうだよね…」

「いきなり家事代行が泊まったりしたら旦那さんも意味分からなくて困るでしょう?」

「彼は……仕事が忙しくてほとんど家にいないの…。今日も泊まりで帰らないから。彼がいない時は家事をサボってもいいかなと思ってたらめんどくさくなっちゃって、それで沙耶夏ちゃんの所に頼んでた」

「………」

 美咲さんが何で私に未だに好きだと言う理由が分かった気がする。

 きっと旦那が家にいなくて寂しかったのだろう。

(結局、私は旦那の穴埋めか)

 それに気づいて腹が立つより虚しさばかりが去来して嫌味を言う気も失せてしまった。




 一ヶ月ぶりに美咲さんから仕事の依頼が来た。

 今までは二週間置きだったから、もう仕事は来ないと油断していた。

 居間の掃除をしていると美咲さんは落ち着かなさそうに、部屋のなかをうろうろしている。

「すみません、気が散る上に仕事の邪魔なんでどっかで大人しくしててもらえませんか?」

「ごめんなさい…」

 しゅんとしてソファに座り込む。

 そこにいても正直、邪魔だったがうろうろされるよりはマシなので諦めた。

 家の中はいつになくさっぱりと片付いていて、三時間のプランだったが二時間ほどで終わってしまった。

 以前だったら余った時間で美咲さんで遊んでいたが

もう今の私にはそんな気力はなかった。

「雑草伸びてるので庭の掃除しますか?」

 丁度良さそうな仕事を見つけた。

 ともかくただ仕事だけして早く帰りたかった。

「…それは大丈夫。沙耶夏ちゃんに伝えなくちゃいけないことがあって」

 美咲さんから腕を引っ張られた。

「今日で、沙耶夏ちゃんに来てもらうの最後なの」

「………分かりました」

 どんなことにも終わりはある。

 永遠に続くと思ってたこの人との恋だって終わってしまった。

 いつまでも私たちの歪な関係が続くわけがなかった。

「それで最後に沙耶夏ちゃんにお願いがあるんだけど」

「何ですか」

「抱いてほしい…。恋人……彼女だと思って抱いてほしいの。嘘でいいから、演技でいいから…」

 美咲さんがすがりつく。

 私はそっと腕を回して抱き寄せた。

「……まぁ、私を指名してくれてたサービスってことで、いいですよ、美咲さん」

 私たちはまるで昔に戻ったかのように、甘い言葉を紡ぎ抱き合った。




 頭から毛布を被って美咲さんが泣いている。

 事が終わってからずっと泣いている。

「いつまで泣いてるんですか、鬱陶しい」

「…っ……沙耶夏ちゃん、最後まで…優しく…して…」

「恋人ごっこはもう終わりです」

 泣くのが落ち着いたところで、美咲さんは毛布から顔を出すと私の手を取り向き合った。

「私、沙耶夏ちゃんのこと捨ててしまったけど……本当に好きだった。でもあの時、沙耶夏ちゃんをちゃんと幸せにする自信が……なかった。彼女としてずっといられる自信がなかった。ううん、……違う。あなたと関係を持ってしまって、どう責任を取っていいか分からなかったの。家族からは結婚を急かされるし、丁度その時にお見合いの話が来て、結婚することにした。大事なあなたより世間体を取った。結婚することで沙耶夏ちゃんから逃げた」

「…………」

「ごめんなさい。ちゃんと向き合えなくて。沙耶夏ちゃんを幸せにできなくて、………ごめんなさい」

 美咲さんは肩を震わせて泣きじゃくる。

 私はそんな彼女を力の限り抱きしめた。

 泣きそうな顔を見られたくなかったから。

「……私は美咲さんが一緒にいてくれたらそれだけで幸せだったのに…。あなたがいてくれたらそれだけで良かったのに……」




 私は離れた場所からあの家を眺める。

 初恋の大好きだった人の家。

 もうあそこに行くこともないし、あの人とも会わない。

 時間は戻らないし、全てが終った。

 私たちは始めから全部間違っていた。

 歪んだレールの上を進んでも、待ってるのは歪んだ未来だけ。

 これで私の初恋はようやく終った。

 高台のこの場所からは海が見渡せる。

 何回も通っている道のはずなのに、私は初めてちゃんとその景色を見たような気がする。

 穏やかな午後の海がゆったりと横たわっている。

「一回だけデートした場所も海だっけ」



 美咲さんの車で町から離れた海を見に行ったことがあった。

 人気のない場所で手を繋ぎながら今日のような穏やかな海を二人で見ていた。

『沙耶夏ちゃんは将来なりたいものあるの?』

『うーん、特にないなぁ。早く働いてお金を稼げるようになりたい!』

『現実的だね』

『うん。ちゃんと働いて稼いで、美咲さんを養えるようになるのは無理かもしれないけど、幸せにできるように頑張って働くのが夢!』

『それじゃあ、私も頑張って沙耶夏ちゃんを幸せにしないといけないね』



 あの頃の気持ちのままでいられたら良かったのに。

 今となっては遠い遠い昔の夢になってしまった。

「……美咲さん……美咲さん……!!」

 必死に自分の気持ちを誤魔化してたけど、嘘だ。全部嘘だ。

 あの人のこと何とも思ってないなんて嘘だ。

 心の底でどこか期待してた。

 また美咲さんの彼女に戻れるんじゃないかって期待してた。そんなわけないのに。

 本当は昔みたいに私のことだけ愛してくれるんじゃないかって期待してた。

「何で…!! 何で私のことだけ見ててくれなかったの!!」

 返って来るのは波の音だけだった。






 年末になり世間が慌ただしくなる頃、私もまた仕事で忙しくしていた。

 新年を迎える前に、綺麗になった家で過ごしたいと思う人も多く、いつも以上に訪問する家庭も増えていた。

 たまたま美咲さんの家の近くで仕事が入り久しぶりにあの場所に来ていた。

 冷たい冬の雨が降り、街は白く煙っている。

 ちょうど家の前に車が止まり、運転席から傘を持った男性が降りた。

 男性は助手席の前に行くとドアを開け降りた女性へと傘を差し向ける。

 傘で顔は見えないがお腹の大きな女性が男性に支えられ車から降りた。

 二人は寄り添うように玄関の中へと消える。

(子供できたんだ…そういうことか…)

 私は仕事先に向かうためその場から離れた。

(美咲さん、ちゃんと幸せになってください)

 自然と私はそう思えるようになっていた。

どんなに願っても戻れないなら、せめてあの人の幸せくらいは祈れるようになりたい。

 大好きだった美咲さんの幸せを。




 朝起きていつも何となく星占いをチェックするのが日課になっている。

「今日の蟹座は一生お付き合いができるような運命の人に出会うチャンスがあります、か。私も男の人と付き合って美咲さんみたいに結婚しちゃおうかな」

 身支度をして家を出る。

 今日最初に行く家は古都の住宅街にある。

 私は教えてもらった住所をスマホの地図で確認しながら向かう。

 入り組んだ路地の先に古めかしいが趣のある平屋の一軒家が建っていた。

 お客さんの名前は羽柴 信頼。

(戦国武将みたいな名前だなぁ)

マンガに出てくるイケメン戦国武将みたいな人だったらどうしよう。

(これが運命の人だったら私も初めての彼氏持ちになるんじゃ…)

 男の人に恋愛感情を持ったことがないから、実際には無理だけど。

(男名前のかっこいい女性の可能性も……いいかも)

 下らないことを考えながら呼び鈴を押す。

 引き戸が開けられ、そこに立っていたのは短い髪に白いシャツと臙脂色の長いスカートを履いた女性だった。

「沙耶夏ちゃん!!」

 その女性は私に思いっきり抱きついてきたので危うく倒れそうになった。

「……美咲さん!?」

 髪をばっさり切って、以前より健康的になってる美咲さんに見えるが気のせいなのか。

 何だろうこれは強めの幻覚だろうか。

 せっかく立ち直ったのにあんまりな幻覚ではないだろうか。

 取りあえず現実を確認しよう。

「あの…ここ羽柴さんのお宅ですか?」

「うん、そう。羽柴です。私の母方の祖父の家なの。沙耶夏ちゃん、びっくりさせちゃった? ごめんね。鳩が豆鉄砲喰らったような顔って今の沙耶夏ちゃんみたいな顔のことなのかな。それより寒いから家入ろう」

 私は美咲さんに手を引っ張られて中に入った。

 居間に通される。部屋の中にはストーブが一つ置かれているだけで他には何もない。

 お茶を出された。茶柱が立っていた。

「何ですか、これ夢ですか?」

いまいち現状を把握できない。

「夢じゃない。夢じゃないよ」

「何でここに美咲さんがいるんですか?」

「さっきも言ったけど、ここ祖父の家なの。祖父が実家の方で暮らすことになって、長いこと空き家になってるから来週から私が住むことになったの」

「……旦那さんと子供はどうしたんですか?」

「夫とは別れたよ。子供? 子供はいないけど…いると思ってた?」

 私はこの間美咲さんの家の前で見た光景について説明した。

「それは多分、元夫と愛人じゃないかな。愛人というか今は奥さんになってると思うけど」

 さらりととんでもないことを言う。

「私が沙耶夏ちゃんのこと好きだったように、彼も好きだけど一緒になれなかった人がいてね…。そんなだから私たち上手くいかなくなっちゃって。彼はその人が諦められなくて元鞘に戻ったというか、不倫されたというか…。だから沙耶夏ちゃんと再会した時に、私も一番好きな人に愛されたいって思って…。だってずるいでしょ。彼だけ本命と仲良くしてるなんて。不公平だし…。不倫になるって分かってたけど、沙耶夏ちゃん目の前にしたらどうしても我慢できなくて…。」

「……はい」

「大丈夫、沙耶夏ちゃん。呆れてる?」

「…少し」

 全くこの人はどうしようもない人だ。

 私もどうしようもないことを美咲さんにしていたから人のことは言えないけれど。

「沙耶夏ちゃんに最後に会った日に決めてたの。彼と別れようって。お互い一番好きな人がいるなら、別れてけじめをつけて、ちゃんと一番好きな人と向き合うべきだと思って…。それで全部きれいに片付いたらもう一回沙耶夏ちゃんに会おうって…」

「それで私を呼んだんですか?」

「うん。私の名前だと拒否されちゃうかなって思ったから祖父の名前でお願いしたの」

 一応、今の状況は把握した。

 旦那さんより私が一番好き、というのは嘘ではなかったということだろうか。

 以前のようにどことなく頼りなさそうな雰囲気ではなくなった美咲さんは、キラキラしているように見える。

「沙耶夏ちゃん、今からすごく大事な話をしてもいい?」

「唐突ですね。何ですか」

 美咲さんは居ずまいをただしてこちらを見据える。

「私はあなたのことが、沙耶夏ちゃんのことが好きです。私とお付き合いしてください」

「………」

「私、沙耶夏ちゃんのこと傷つけてばかりだし、酷いことばかりしてしまったから幸せにできるかは分からないけど、あなたと一緒に過ごしたい。ずっと一緒にいたい」

 真っ直ぐな瞳で私を見つめている。

「美咲さんみたいな人、この先彼氏も彼女もできないと思います」

「あはは、そうだね。……うん。私ダメなところだらけだから。今更無理だよね」

「ダメなところだらけでも、それでも私にとっては誰よりも大切な人です」

 私は美咲さんをしっかりと抱きしめる。

 とても懐かしく感じる温もりが腕の中にある。

「前にも言いましたけど私、美咲さんがいてくれたらそれだけで幸せなんです」



「沙耶夏ちゃんに見せたい部屋があるの」

 美咲さんに案内されるまま奥の部屋に連れて行かれた。

 中に入ると明らかにここだけ改装されており、壁も床も真新しい。

 部屋の隅にはアップライトのピアノが置かれていた。

「夫がピアノ嫌いだったから、ここが空き家になってからピアノ部屋にしてたの」

 だからあんなにピアノ好きだったのに家に置いていなかったのかと納得する。

「昔、沙耶夏ちゃんが弾いて欲しいって言ってくれた曲あるでしょ? 難しい曲だったけど練習して何とか弾けるようになったから聴いてほしくて」

「覚えててくれたんですね」

「練習してちゃんと弾けるようになったら、沙耶夏ちゃんに会える気がして……ずっと願掛けのつもりでこればかり練習しちゃった」

「それじゃあ、願い叶いましたね」

「うん」

 幸せそうに微笑む美咲さんに唇を重ねる。

 私はどんなことがあってもこの人を嫌いになれない。



 美咲さんの白くきれいな指が甘く切ないメロディを奏でる。

 私が一番好きな美咲さん。ピアノのを弾いている美咲さん。

(この曲のタイトル何だったっけ)


 ああ、『愛の夢』だ。

 私の愛はこうなることを夢見ていた。

 愛しい人を見つめながらこの愛がずっと続くことを願った。




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