ミヅ

蛙鳴未明

ミヅ

「あっつ……」


 ペットボトルを傾けても、水滴一つ降りてこない。見ると、ふにゃふにゃのペットボトルは完膚なきまでに空っぽだった。それを意味もなく揺らしながら、


「たけし、水持ってない?」


 言いながら隣の太っちょに目をやると、空っぽのペットボトルが丸い手に支えられてたけしの口に逆さに突っ立っていた。ペットボトルを口からはなし、たけしは申し訳なさそうに俺を見る。


「ゆうとごめん、全部飲んじゃった……」


 ため息を吐き辺りを見回す。見えるのは陽炎漂うアスファルト、白いガードレール、それと竹藪。当然道端に水道が転がっているはずもない。


「公園までもつかな……」


 ガードレールにもたれかけてやめる。十二歳の肌には熱すぎる。たけしがガードレールの向こうをのぞき込んで声を吐き出す。


「こっちにはたくさん水あるのにね」


 俺は体を捻って、ゆるゆる流れる細い灰色の川を眺めた。


「……飲めたもんじゃないけどな」


 ふわり、とぬるい風が吹き上げる。腐った泥のような臭いに思わず顔を背けた。風にあおられて向かいの藪が割れ――一瞬見えた。小さな空き地に立つパイプ。俺はたけしに振り返る。


「たけし!」


「なにー?」


「水あったぞ!」


 短く言って藪へ歩き出す。早歩きの俺を小走りでたけしが追う。


「どこにあんの?」


「こん中に見えた」


 言いつつ竹と竹の間をすりぬけた。


「え、そっち行くの……」


 振り返るととたけしは不安げにこっちを眺めている。俺はにやりと笑った。


「良いよ待ってて。たけしには狭すぎて入れないもんな」


「は?そんなことねーし!」


 たけしは顔を真っ赤にして竹をつかむと、ぐいぐいと体をねじ込もうとする。竹がミシミシときしんで歪む。そうしてできた隙間を無理やり通り抜けて、たけしは自慢げにこっちを見た。


「ほら行けんじゃん」


「……そうだな」


 俺は若干引きつつ藪の奥に目をやった。竹二、三本向こうに小さな空き地があり、その端っこに蛇口付きのパイプが立っている。近づいてみると、錆びているのかと思ったパイプは、ただの汚れた竹だった。汚れをぬぐってみると縦に二文字


 ミヅ


「どういう意味かな」


 後ろのたけしが聞く。


「どういうって、水のことだろ。昔はズをヅって書いてたんだよ」


「へ~え」


 蛇口をひねる音。背中に水がぶちまけられて、飛び上がってよろけて転んで尻もちを着いた。


「何すんだよ!」


 たけしは水がペットボトルに注がれるのを凝視しつつ、


「ごめん、いても立ってもいらんなくて……」


 言い終わるや否や、矢のような勢いでペットボトルを口に突っ込んだ。ごっきゅごっきゅ喉が鳴り、うねる度にペットボトルはどんどん真っ直ぐに立ち上がっていき、それにつれてたけしの頭もどんどん後ろに傾いていく。もはやひっくり返りそうになるまで頭を傾けて、やっとたけしはペットボトルを口から離した。


「ッか〜!うっま!」


「どこのオヤジだよ」


「いやほんとにうまいんだって。飲んでみてよ、ほら」


 差し出されたペットボトルを半信半疑で受け取って口に運ぶ。透き通った爽やかな風のような水が、たちまち体を潤してゆく。


「……うっま」


 思わず零れた。


「だろ?」


 たけしは心底嬉しそうに言ってペットボトルをぶんどり、再び水を注ぎ始めた。


 おいおいほどほどにしろよ、と言いかけるころには、もうペットボトルを空にしている。そして再び満たんにしては空にし、満たんにしては空にし、その間俺は自分の空っぽのペットボトルをお手玉しながら不貞腐れた顔でたけしを眺めていた。


「……おいおいさすがに飲みすぎだろ。ちょっとは俺にも飲ましてくれよ」


 四回目にペットボトルが空になった時だった。たけしは横目で俺のカラッカラに干上がったペットボトルを見やると、我に返ったように俺を見た。


「ごめん!確かにそうだよね、ゆうと喉カラカラだよね」


 慌てたように俺のペットボトルをもぎり取り、水を注ぎ始める。なんだか、たけしの呼吸が荒くなった気がする。いや、荒い。ハア、ハア、とはっきりと呼吸音が聞こえる。なんとなく顔色も悪い。目を見開いて俺のペットボトルを凝視している。


「たけし、大丈夫か?」




「うん、大丈夫」


 ワンテンポ遅れて返ってきた声も、微かに震えているような。水が溢れる。丸い手が小刻みに震えながら蛇口を閉じた。たけしはなおもペットボトルを見つめている。


「ありがとたけ――」


 突如ペットボトルが視界一杯に広がる。咄嗟にそれを弾き飛ばし、一瞬遅れてたけしがペットボトルを俺の口に突っ込もうとしたのだと気づいた。目を閉じ、小さく震えているたけし。


「おいどうしたんだよたけし……」


 開いたたけしの目は、真っ赤に充血していた。


「ユうとクン……」


 ほんのりと、ぎこちなく口の端が上がった。


「ダイじょ――ダイ――だいじょう――ダイ――ダイダアダダダヂダジョダイダアダダダダダダ――」


 たけしの目が真っ赤に染まる――瞬間、たけしの体が膨れ上がり――視界が紅に染まった。火傷しそうなほどに熱い、熱いどろりとした衝撃。悲鳴を上げて飛び退る。


 ドボドボでぐずぐずのマーブルカラー。


 一瞬見えたそれはすぐに、垂れ下がってきた紅のどろりにかき消される。訳も分からず――いや訳も分からなくあってほしいとまぶたを拭う。開けた目に飛び込んできたのは真っ赤に染まった自分の手の平。


「あ……」


 赤――目を走らせた反対の腕――紅――体に熱く張り付いたTシャツ――朱――必死にこすり合わせた手の平――赤、赤、あか、銅、紅、赤、あか朱あかあか明あかあかあかかかかかああかあか


「あああああああああああああああああああああああああああ!」


 悲鳴、悲鳴、悲鳴、足は動かない。不動のまま。さわやかな風に誘われて再び見るマーブルカラー。ドボドボでぐずぐずで意味の分からないピンクや黄色や紫の、その一片一片がぽるぽると震えている。不思議とそれらを凝視する。透き通った、やけにきれいな水滴がマーブルカラーから染み出してきた。それらはまるでウジのように――もしくはミミズ――あるいはカンディルのように、透き通った夏の光をきらめかせながらいっぴきいっぴき飛び跳ねのたくりこちらへこちらへやってくる。


 ぬらり、と首筋に何かが這った。


 見ると、朱の中から顔を出す薄黄色の水滴。それは俺の口へと這ってゆくうちに見る見るうちに透き通ってゆく。それを見つめる俺の目と、誰かの目が合ったような気がした。ぬら、と腕に脚に背に腹に。透き通った何かが俺の体を締め付ける。首を這う何かが口の端を乗り越え俺の舌に触れた。吹き抜ける爽やかな、風。マーブルカラーの端に転がる雲より白いごつごつした小さな手。たけしのテ。


「ヴ――あああ!」


 気付けば俺は、Tシャツを脱ぎ捨て力いっぱい地面に叩きつけていた。甲高いガラスのような鳴き声が聞こえた気がした。負けじと自分も訳の分からない叫び声をあげ、脱兎のごとく走り出す。竹藪を飛び出す瞬間、噴水のような音が響いた。


 ちくしょう!


 別人のような枯れた声で叫び、灼熱のアスファルトを半裸で走る。今にも追いつかれそうで、怖くて、怖くて、振り向き振り向き走って走った。ガードレールの隙間に飛び込み、土手を滑り転がり落ちながら必死に草を手でさぐり、ようやっと川に入る寸前で止まる。土手に転がり、肩を、胸を波打たせ荒い息をした。血の味がする。走りすぎたせいなのか――それともたけしのものなのか。


「たけし……」


 そうだ、たけし。ようやく頭が回り始める。たけし……たけしは……あれは……


「死ん――」


 呟きかけて口を押えた。ぶんぶんと大きく首を振る。見間違い、見間違いだあれは。本当にあんなこと――


 でも、掲げた手の平には誰かさんの血がべっとりと付いている。


「わけ……わかんないよ……」


 弱弱しくつぶやいた。とにかく誰かに伝えなきゃ――大人に――かあさんに。俺はふらふらと立ち上がり、土手を二、三歩上りかけてふと気づいた。俺もアレを飲んでいる。川端に走り、迷わず喉奥に指を突っ込んだ。熱い酸っぱいものが喉を焼きながら一気にせり上がり、澄んだ川面にほとばしる。


 ……これで大丈夫なんだろうか。口を拭き、水底に沈み流れてゆくハムだのパンの欠片だのを眺めながら思う。そして、ふと気付いた。


 ……この川、こんな色だったか?




 ぬらり、と波が俺の足を撫でた。

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